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祝福がありますよ
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義を行うものは

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今年の夏は暑かった。

日本の猛暑と言うよりも熱帯の猛暑といったかんじだ。

何処の学校か忘れたが、これから、学校でもクーラーを検討している

と聞きました。

そんな中の台風で、少しは涼しくはなりはしたが、相変わらず、9月になっても、

30℃を超える日が連日続いている。

さて、今日は、主・イエス様に祈り、義について、夏目漱石さんがかいた坊ちゃんから導きを

いただいたので書こうと思う。

まず、聖書では、義について、正義についてこう書いてある。

マタイ5章6、義に飢え渇く人々は、幸いである。

その人たちは満たされる。

さて、主人公は、旗本の元は清和 源氏 多田の満仲の後裔だったのだそうです。

父親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかり、負けずぎらいな子で、ケンカやいたずらをして

父と母を困らせていたようだ。

そんななか、母がなくなり、主人公は、父と兄と下女の清というばあさんと3人でくらすこと

となった。

世間では、悪太郎と罵られ、父や兄からうとんじられていた、ぼっちゃん=主人公をなぜか、

清だけはも、かわいがる。

「あなたは、まっすぐで良い御気性だと。」


清は自分の小遣いで、主人公に金鍔や紅梅焼き鍋焼きうどんてなどをくれた。

清が兄にやらずに自分にだけ、物をくれるのをみてなぜかと聞くと清は、兄は

お父上がいつもくれるからいいという。

でも、本当はおやじはがんこではあったいうが、えこひいきはしなかったのだ

そうだ。

 そんな中父も死んでしまう。

兄は商業学校を出て、主人公も学校を出て、田舎の数学の教師になる。

そして、清はおいのもとにいく。


彼は学校の先生となり、生徒に嫌がらせを受ける。

前の教師も嫌がらせをうけたのだそうだ。

彼が宿直の時にはふとんにバッタをいれられて、また大騒ぎされる。

そんな中彼は、自分の信念をまげない。

世の中に正直が勝たないで他に勝つものがあるか。今夜中に勝たなければ、明日勝つ

あさって勝たなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでいる。


いたづらをされてもけっして、信念を曲げなかった。


またこの物語では、もう一つの事件として、うらなりというあだ名の英語の教師の古賀という

人物がでてくる。

彼には婚約者がいたのだが、その人を赤シャツというあだ名の教頭もねらっていた。

ある時、古賀の母が父がなくなったことで、暮らし向きがよくないので、古賀=うらなり

の給料をあげてくれと校長こと狸に言う。

このチャンスを赤シャツ=教頭は逃さず、彼を転勤させ、自分は古賀の結婚相手を奪う。

その為に自分が給料をあげてもらえる形になった主人公こと坊ちゃんは、その給料はあげなくて

いいといい、古賀に対する社会の大人達の考えに真っ向から素直にぶちあたり、

のらりくらりと自分の言うことに対して、利己的に社会的な理屈をいう教頭にはっきりと

自分の意見をとおす。

そんな生き方をみてか、山嵐こと数学の教師と、主人公はある事件のせいで仲良くなかったのだが、

誤解がとけ、いき投合するようになる。

そしてそんな中また、かれらは赤シャツの策略にはまり、学生どうしの争いに

巻き込まれてしまう。

 新聞社に情報をながされ、抗争を止めに入ったのだが、誤解をうけ、糾弾される立場になる。

そして、2人は職場を止めることになるのだが、その前に、主犯の赤シャツが遊廓に、彼女が

いるのに、遊びにいく情報を得て、その証拠を主人公と山嵐の二人で暴き、赤シャツと野田

が、2人を罠にかけたのを探りだしてから、彼らをこらしめて、学校をさった。

今日私は主・イエスさまに、義とは何かということについて、おそわる。

かれらはこういう俺は逃げもかくれもしない。

また、不浄な地を離れて船が岸を離れればはなれるほど、心地が良いと感じたとある所を読み

義に飢え渇くものは満たされる。という御言葉を思い出された。

聖書で、神は主・イエスは、十字架にかかられて私たちに永遠の命と復活を与

えてくださった。

主・イエスは、ポンテオ・ピラトや皆におまえは神の子か?

と聞かれた時、そのとおりであると公言し、堂々と会同で自分がメシアであると言い伝えた。

私は、正直な人は、義を行う人は警察の前でも何処でも、堂々としていると思う。

素直であると思う。

だから私は、主・イエス様はユダヤの総督の前であろうと、権力に屈せなかっ

たのだと思う。

そして、この世の中の悪に勝利なされた。

ロ5、19〜21、

一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって、

多くの人が正しい者とされるのです。

 律法が入り込んできたのは罪が増し加わるためでした。

しかし、罪の増したところには、めぐみはなおいっそう満ちあふれました。

こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配しつつ、私

たちの主・イエスキリストをとおして、永遠の命に導くのです。

 主・イエスの十字架を信じること私は命であり、道であり真理である、主・

イエスキリストを信じることそれが私たちの最高の恵みである義です。

主・イエスを信じるものは、満たされます。

主・イエスの十字架は信じた時からあなたを天国へと導きます。

復活

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この間、私は、祭りに行ってきた。

といっても近所のお祭りでしたが、いつもの場所いつもの

知り合いがわきあいあいとしているのをみると、つながりや絆

はとても大事だとかんじた。

さて、今日は、主・イエス様に祈りトルストイが書いた小説の復活と

いう物語から主・イエスにいのり、信仰生活について、かきます。

マタイによる福音書18:21 主よ、兄弟がわたしに対して、罪を犯した

ばあい、いくたび赦さなければなりませんか7たびまでですか。

22節:イエスは彼に言われた。「私は7たびまでとはいわない。7たびを

70倍するまでにしなさい。」

さて、この物語は、近衛中尉ネフリュードフと、カチューシャの恋愛物語に加味

された、専制的で封建的な社会を風刺した物語です。

世の中の殺伐とした不条理な階級社会に対して風刺した物語でもあります。

最初のこの物語は裁判所から始まる。

カチューシャは、ネフリュードフの叔母の小間使いでした。

彼女は、とても、賢く、斜部気味の目線はスグリのような黒い目をしている

魅力的で知的な女性でした。

フランス語もよめるし、仕事をテキパキとこなし、時間をつくりひまな時には

本をよんでいた。

そんなカチューシャにまだ、幼いネフリュードフは、引かれていく。

追いかけっこや、本などを貸してあげたり、するうちにだんだん引かれていった。

しかし、彼らは、結ばれることはなく、ネフリュードフはさっていった。

そして、3年後、また、ネフリュードフは、叔母の家に遊びにきた。

今度は、軍人になり、たくましくなって。

しかし、この頃、彼は、堕落してしまっていた。

自分の真の自我ではなく、動物的な自我にしたがってしまっていた。

周りの上流階級の人々は、哲学的なことや、節制をして、貧乏人のように生活を

するよりもはでに遊んだり、豪遊した方がほめられたからだそうだ。

そのうちにそんな自分の不快な気持ちを酒やタバコでまぎらすようになり、

堕落してしまっていた。

そんな中、カチューシャとまた出会い、二人は結ばれてしまうのもつかの間で

彼は、慰謝料として100ルーブルを彼女に支払い、さっていってしまう。

カチューシャは、その後、子供を生むがその子も死に、働きにでるが、その美貌

がたたって、男においまわされた結果、生活に疲れ、労働より、楽な快楽の世界

に身をおくようになり、遊女として生活を長くすることなってしまった。

しかしそんな中上記で書いた裁判で、偶然にもカチューシャを捨てた、ネフリュ

ードフと、皮肉にも陪審員として、であってしまう。

正義を行う立場として。

裁判の内容は、スメリコフを毒殺してころした犯人の疑いをかけられ、

彼女は、裁判にかけられてしまう。

しかし、彼女は自分の自身束縛された環境にあり、罪を犯す状況にはなかった

のですが、裁判のほんのわずかな手違いから、シベリアに徒刑の刑をうける。

これらのことが、主人公ネフリュードフの良心を目覚めさせる。

彼女の為に彼女の刑を非合法として、上訴するために、弁護士をやとい、

友の副知事に頼み、刑務所に入ったりするうちに、彼の心は、

慈悲の心にめざめていく。

政治犯や刑事犯達は普通の人達で、むしろ、刑務所の外にいる上流階級にある

もの達の内面的な腐敗や、利得の為に土地を無作為に所有し、農民に対して、

高い税金と安い労働をさせ、政治犯=革命家が生産組合などをつくろうとすると

自分達の利害のために刑務所にいれるこれらが正しい人を罪に到らせていること

にきづく。

そんな矛盾から、以前付き合っていたもの達の利害を第一とし都合のよい法律

に対して、またそのような人たちに対して、嫌悪するようになる。

彼は自分の土地を安く貸し、また与えることにより恵みをうける。主・イエス様

から。

それはどんな恵みかというと、新たなる神の国と神の義を求める心です。

そしてはじめは、彼女を捨てたネフリュードフに対して、怒っていたカチューシャ

でしたが何度も説得し、自分と結婚しようという熱意から、彼女も生活を堕落から

良い生活に変わっていった。

そんななかネフリュードフも、彼女に裏切られたと勘違いするような出来事

や、彼女が最初酒におぼれ、怒りの目で自分を見ることに、負けることなく、自分

の果たすべき義務に固執した考えをもつようになる。

 彼は、自分の生活を犠牲にしても彼女のために尽くす覚悟で、シベリヤヘの徒刑

が決まってからも、カチューシャを、医者の手伝いの仕事にまわしたり、

また移動の際も、刑事犯としてではなく、政治犯と供にするように、根回し

する。

そして、この出来事が二人の心を復活へといざなう。

ネフリュードフは革命家として正義を貫く、わかもののクルイリツォフという

若者を好きになる。

父は幼い頃に死に、母にそだてられ、大学も首席で卒業した。

かれは、大学に残って留学するように言われていたが、一人の娘に

恋して、結婚し、地方の自治体へ勤めようとしていた。

ところが、大学の友人に共同出資をもとめられる。

かれは革命運動としっていて、友に出資し、そして、つかまってしまった。

不運な人です。

はじめは革命家ではなかったのですが、刑務所の無慈悲な処刑に対し、怒り

革命家になった。

テロ行為により、政府の権限を放棄させることを目的としていた。

しかし、皮肉にも信頼してた男に裏切られ、そして、最後は、非凡な死を

遂げた。

このことが、ネフリュードフを義へといざなったのではとおもう。

 またカチューシャも革命家の中で、元は貴族であった、マリア・パーヴロヴナの

人のためにだけ生きる、その姿に尊敬の気持ちを抱くようになる。

そんな中、カチューシャを好きになったものがいた、シモンソンである。


そして、彼ら3人の三角関係は、シモンソンにカチューシャがついていくことで

決着となったが、カチューシャは、最後までネフリュードフを愛していたが、

彼の人生の負担となることを避け、シモンソンと共にいきる道を模索する。

そして、ネフリュードフもそれを知った。

最後は、カチューシャは徒刑から開放される。

彼らの精神も、罪から開放されたことを、抽象的にトルストイは、書こうとおもっ

たのでしょう。

人に恋愛や、また欲望、快楽、などの堕落を経験する。

この物語の者たちは、特に罪を犯している。

しかし、最後、ネフリュードフは、この世の矛盾に対して、聖書にその答えを

求める、その答えは人が人を裁くにしては、人は罪深いものであると言うことで

ある。

互いにへりくだることをしる。

そして5つの戒律をまもることにより新約聖書のイエスの言葉を守ることにより

これらの矛盾を淘汰できると信じられた。

ただ自分の喜びのためにいきるのではなく、神の国とかみの義によりいきること、

そうすれば、その他のものはあたえられる。

われわれが、そのたのものばかりもとめているからそれを見出せないという。

神の義にいきるあらたな出発をする。

そうです。彼は主・イエス様の十字架と復活によって、多くの人達との

出会いによって、かえられたのです。

そして、主・イエス様を信じる人はいつからでも、他人の為にいきることを

自分のためとすることができ、最後永遠の天国へとはいれます。

ソクラテスの弁明

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今日は、とても暑かった。

でも、私は夏はとても好きです。

TUBEやサザン・オールスターズの影響もあるのだと思います。

7月の中旬頃には、山か海にでも行きたいなと思う今日この頃です。

さて、今日は、主・イエス様に祈り、BC470年〜BC399年頃の哲学者

ソクラテスについて、書こうと思っています。

当時、ソクラテスの時代は、ギリシアのポリスが発展してました。

貴族・平民・奴隷などの身分制度があり、ギリシア人は、地中海・黒海沿岸に、植民市

を建設し、貿易を行っていた。

また、ソクラテスがうまれる前後には、ペルシア戦争などがあり、

東の小アジアとの争いがあったり、またポリス同士にも、アテネ、デロス同盟とスパルタ

との争いがあった。

しかし、悪いことばかりではなく、文明も栄えていた。

ホメロスの叙事詩、「イリアス」、「オデュッセイア」、また演劇などでは、前5世紀、演劇が栄

え悲劇ではアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大詩人喜劇ではアリストファネスな

ど文化に於いても、発展しました。

そんな中で、ソクラテスはギリシアのアテナイで生まれました。

父は、石工、母産婆でした。

彼は、何をした人物なのかと言うと、神霊=ダイモーンという 真の知を追求し魂の世話を図ること

を薦めることをしました。

当時、政治権力をにぎる、ソフィストらをはじめとする思想家と、対決することになってしまった

ソクラテスは、知への愛、無知の知が知への愛を生むという思想であった。

今の世では、正しいことであっても当時は、「若者たちと共に考える」また絶対知へのアプローチ

などを唱え、国家の信じない神=ダイモーンを信じたと言う問題で、訴えられ、裁判を受ける

ことになる。

ソクラテスの弁明は、プラトンによって書かれたものであるが今日はその一部を紹介したい

と思います。

彼は、現実派を代表するカリクレスという人物と魂の価値について、議論した時

こう語っている。

もし、誰かが、あなたを無実の罪で、投獄するならば、あなたの哲学は、そのとき何の役

に立つのだろうか?」と・・・。

この時、ソクラテスはこういいます。

それは、この世には命よりも大事なものがあるのだと言うことでした。

また、親友のクリトンとの会話では、こういいます。

「人間にとって、大事なのは、多数者の脅威に屈して、自分の魂を破滅させてまでも、

汲々と生きることではなく、よく生きることが大事なのである。

また、こうもいいます。

クリトンが何かしてほしいことはないかときくと、ソクラテスは、「君たち自身を大切にして

くれれば、たとえきみたちが何をしていても、僕につくしてくれたことになるのだ。」

彼は、追放刑になることもできたのですが、死刑になる道を自ら選びました。

私はこの実話を読んだ時に思ったのは、聖書の主・イエス様の十字架でした。

ゲツセマネの祈りで血の汗をながすほどに苦しみ私達の罪を赦すために十字架刑をうけた、

イエス様は、聖書では、主・イエス様=全治全能の神であるといいます。

その神が聖書ヨハネの福音書15:10、私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように

あなた方も私の掟を守るならば、私の愛にとどまることになる。

また神は言葉であるという聖書の箇所を見るときに、ソクラテスの知の愛とは、神への愛

であることがわかる。

私は、ソクラテスの言う神霊とは、主・イエス様のことでないかと考えます。

なぜならば、人間にとって、大事なのは、多数者の脅威に屈して、自分の魂を破滅させてまでも、

汲々と生きることではなく、よく生きることが大事なのである。これは、聖書では公義や公正

という表現て゛何度も語られていることですし、律法があるのはまさに、正しくいきるため

に与えられたものだからです。

主・イエス様を信じるものには、神の掟を愛するものには、弁護者の聖霊か与えられ、死

後の裁きの時、主・イエスの十字架と彼らの言葉により、勝利をします。

そして信じるものは今からでも天国へいけるのです。 

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今日は、教会で、ペンテコステ聖霊降誕日を記念する

めでたい日でした。

主・イエス様は、十字架に架かられ三日後に復活をされました。

その当時、彼らは洗礼者ヨハネにより、罪のあがないの水のバプテスマ

を受けていました。

なぜ、教会でペンテコステが、とてもめでたい日なのかと言うならば、

私達の救い主は、三位一体の神=主・イエスであることが関係しています。

神には、3つの性質があると私達キリスト教会は、信じています。

子なる神、父なる神、聖霊なる神、三つの性質があると聖書をもとに信じ

られてきました。

今日は、この聖霊なる神=知恵の霊、真理の霊が与えられためでたい日です。

主・イエスは、使徒1:5でこういいました。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなくあなた方は、聖霊の

バプテスマを受けるのです。

私達教会では、バプテスマ=洗礼と、聖餐式と言う罪のあがないの証としての

儀式があります。

信じて救われるために主・イエスは私達が主の十字架によりすくわれた証として

の聖餐式と洗礼をするようにと、聖書で命じられました。

だから、私達にとって真理の霊=聖霊を受けられた日として、聖霊降誕日を喜ぶ

わけです。

今日は主・イエス様に祈り、ペトロ・ネメシェギという上智大学神学部教授であった人

の話しの一部を紹介いたします。

彼はまずこういいます。

神のめぐみを受けるとうれしい。

うれしくなると人はただ一人で喜んでいようとしない。

喜びは共に喜ぶ人を求める。

だから、パウロと、彼の後を継ぐ無数の人々は自分達が「福音」として

経験したことを、語ろうとしたのである。

彼は、話の中で、ヨハネ12:24の話を中心に書きました。


ヨ12:24 まことにまことに、あなたがたに告げます。

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。

しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。

これは、キリストの十字架の死と聖霊の授与のことでありますが、

ペトロ・ネメシェギさんは、主・イエスの御言葉の実践と一致について

語っています。

キリストの真の弟子である人は、どの時代であっても、病気、苦しみ

、死など一種の悪であり、それをこの世からできるだけ排除するように

人間は神の協力者として、極力努力しなければならない。

ということをよく理解していた。

飢餓に苦しむ人に食物を提供し、病人が癒されるように看護する。

これらは、どの時代のキリスト者もが心がけてきたことである。

またこうもいます。

医師と死との葛藤において勝利するのは、いつも死である。

しかし、病気や死をこの世から追放する努力の究極的な意味とは、

これらを通して苦しんでいる人の心の中に成熟してゆく、愛である

といえるのではないだろうか。

また、一致にたいしては、ジェーン・アースキン・スチュアートという

修道女の最後の時の言葉を紹介してくれています。

「イエス、イエスよ、なんと美しいこと、なんとすばらしいこと・・。

イエスは愛してくれています。私を慕ってくれます。」

ピリピ1:20 それは、私がどういう場合にも恥じることなく、

        いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、

        死ぬにしても私の身によって、キリストのすばらしさ

        あらわされることを求める私のせつなる願いと望み

        に叶っているのです。

主・イエス様の十字架を信じる人には病も死も無駄ではなく、愛は、永遠

の命へと人を導き真の一致をもたらします。 
        

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5月に入り、段々暖かくなってきた。

今まで肌寒かったのがうそのようだ。

私の庭には、ツツジがあるのだが、今満開です。

休みは、伊豆の温泉で休養した。

さて私は、志賀直哉さんが書いた城の先にてという短編小説と

私の家族といった映画カールじいさんの空飛ぶ家の物語から、

生きるということ、愛すると言うことについて、主・イエスから導き

を頂いた。

志賀は或るとき、山の手線の電車にはねられて怪我をする。

その後養生に一人で但馬の国=兵庫県豊岡市にある有名で歴史がある温泉地に

出掛けた。

後遺症で脊椎カリエスになれば致命傷になりかねない。

心配し意志にみてもらう。

 医者の話しでは、2年から3年くらい症状がでなければ、大丈夫だと

言われた。

とにかく用心に越したことはないので、この温泉地に体を癒しに来た。

頭は未だはっきりとしない、物忘れが激しくなってしまった。

しかしその反面、かれの心は近年になく静まっていたのは、稲の獲りいれ

の始まるころで気候がよかったからだったといいます。

一人きりで誰もいない静寂、ぼんやりと椅子に腰かけ、山の往来をみたり

散歩し、夕方にはまた散歩をし寂しい秋の山峡を小さい清い流れ

についていきながら、彼は自然の中で、生と死について、考えていたの

だと思う。

一歩間違えば、青山の土の下にいた自分、志賀は自分の死を克明に描写

している。

不思議なことに、彼には、死への親しみさえも感じていたのだそうです。

そんな中彼は、家の近くま蜂に興味を示す。

蜂は天気さえよければ、朝から暮れ近くまで、毎日いそがしそうに働いて

いた。

ある朝、一匹の蜂が死んでいるのを志賀はみる。

足を腹の下にピッタリとくっつけ、触覚はだらしなく顔へたれ下がっていた。

他の蜂はその蜂に冷淡であったが、いかにも生きているという感じがした。

その死んだ蜂が誰にも相手にされずに3日ほどそのままになっているのを

みて志賀は寂しく感じたのだと言う。

志賀は、いつのまにか、生きることから、死ぬと言うことに対しての描写

を模索しはじめてしまう。

彼は、はんの犯罪という小説を書いたことがあると言う。

はんという支那人が自分の友と妻の関係に嫉妬し殺すものがたりであったが、

志賀は今度は殺されて墓の下にいる妻の立場で小説を書きたいのだといって

いる。

彼のしていることを皆さんはどう思われるでしょうか。

気づいたかたもおられるとおもいますが、彼は、静かさからくる自然や森羅万象

を見て、静かで平穏な人生、死というものに対しての美化を求めていたのであります。

そしてその後、主人公の志賀は、2度の死を見る。

1.はねずみの死、2.はイモリの死です。

1の死は、残酷な死でした。動物は死ぬ事を知らない。生きることしか、

もがく動物の姿を見て、彼は、何とか生きることをあせって模索し始める。

致命的なものかどうか。

でも友からそうでないと言われ、彼は、安心したのだと言う。


これらの心の葛藤があり今度はイモリの死を見る。

自分が偶然投げた石が、イモリに当たってしまったのだ。

とんだことをしたと思いつつ、彼は、生きることは死ぬことと隣り合わせ

であり、生と死が隣り合わせであり、その背景にある罪を漠然と知ったのだと思う。

彼に足りなかったものは、何だったのか?

私は思います。正しい生き方、新しい出会い、そして生きるということの意味

ではないかと思うのです。

私は、前に家族でカールおじさんの空飛ぶ家の映画をみました。

主人公のカールは幼い頃から一緒で結婚した妻と幸せに暮らし、ふたり

は飛行船で世界中を飛び回る冒険家のチャールズ・マンツにあこがれていた。


しかし、妻は死に、夢も果たさず静かに生きているが、彼は妻との夢を実現させる

ために風船で旅立つその中友だちができ、その友が捕まった時に、自分の大事なもの

について気づくそれは、過去の思い出ではなく、今の友や仲間であることに。

この物語から私が主・イエスから教わった事は、私達の正しい生き方とは、神の国と神の義を求め

ることであり。

主・イエス様の十字架に対する私達の愛と希望が常にあることの大切さを

まなびました。

この世の存在意義それは、主・イエス様の十字架により、皆さんがすべての人が

主・イエス様の天国へはいること、救われることです。

主・イエスは待っています。世の始まりの頃から私達をずっと見守っていて

くれています。


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