よく聖書では、隣人を愛せよ!とか、神の国と神の義を求めなさいという御言葉が語られる。
私は、太宰治が書いた正義と微笑という物語を読み愛と、正義について少しわかった気がします。
主人公は、芹川 進という16歳の少年です。
父は少し有名人でアメリカの大学に出てクリスチャンだった。
進が8歳の時に他界し、以後は、母、姉、兄、主人公、書生の木島、と女中の梅や、看護婦の杉の、の7人でくらしていた。
兄は帝大の英文科に4年前にはいって、小説家の道を目指す苦学生で、主人公の進は、思春期の若者だった。
彼は、とてもまじめで気難しい性格で、兄は、どちらかというと柔和でおおらかで、ユーモアのあるかただったようで、進が思いつめていたりすると、「進は、ばかに重厚になったじゃないか。急にふけたね」といって心配してくれあとで、マタイ:6章をよんでくれたり、進が、ギターをほしがっていたりしたときには、ギターをかってくれたりとても、弟思いのひとだ。
また進が一高の試験に落ちて、家をでて、俳優になるか迷っていて、自暴自棄なとき、かれのために九十九里の別荘につれていってくれた主人公にとって、尊敬のできる兄であった。
さて、進=主人公は、とても厳しい性格で、サッカー部にはいっている時、に主将に自分のからだのことで、ばかにされた時に、主将をなぐったり、狸とあだなのついた先生にやなめにあわされると、ころしてやりたいというほどにいかるまじめな人だった。
それでもって、自分は、知識人だとおもっている自分かって少年だけれども、わたしは、この主人公が何となく、好きです。
聖書では、詩篇:85、10恵みと誠とは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口付けしています。
という言葉があるけれどもわたしは、進さんの人生の中から、誠とは、正義の心で人に常に接し、自分の思う事に素直であるから、神の恵みもついてくるとさとりました。
時はたち進は、一高に落ちたときに俳優所をさがした。
しかし、その時には、辞めたが、最終的にかれは、R大に受かり、そして、その大学をでる前に夢である俳優の道にすすんだ。
運命は、進を俳優の道へみちびく。
初めは、兄の小説をみてくれてる先生に斎藤先生に紹介してもらい、その先生が話ていたかもめ座にいく、進は、見事朗読で「ファウスト」の朗読をし、合格するが、
素直に、この劇団よりもいいところを、斎藤氏にききにいく、なかなかの頑固もので、とても簡単には、
紹介してくれない厳しいひとでも、進は、あきらめない、そして遂に、紹介されたわけでもないが春秋座という大名題の歌舞伎役者がかよう春秋座にいけといわれた。
これは、無理ですよせんせいの紹介所があるならとにかくというと先生は、晴天の霹靂「ひとりでやれ」といわれ、最後には、600人の中から合格通知をてにする
聖書には、モーセの十戒というものがあり、その中に「みだりに主の御名をとなえてはならない」という御言葉があるが、私は、この本をみて神を信じるということは、主人公のように、信じた道をただ、真剣に、いきるのならば誠をもっていきるのならば、かならず、そのことは、なるということを、主・イエスさまから教わった。
ベートーベンのことばで「善く且つ高貴に行動する人間は唯だその事実だけによっても、不幸に耐えうる
ものだということをわたしは、証拠だてたい」
といったそうだけども、信じた道を愚痴もいわずにただ地味な修行をしたいと、斎藤先生にいったかれの
まっすぐな心が、硬い岩のような頑固な心の斎藤先生の心を動かしたのかもしれない。
進は、さいご俳優としてのがんばっていたときこういった「誰か僕の墓碑に次のような一句を刻んでくれる人はいないか彼は、人を喜ばせるのが何よりもすきであった。」
わたしは、この言葉をきいたときに、このものがたりの初めの箇所ででてきたマタイ:16、6のことがあたまにうかんだ。
なんじら、断食するとき、偽善者のごとく、悲しきおももちをすなかれらは、断食することを人に顕さんとて、その顔色を害うなり、正義と微笑きっとこの中に太宰治さんは、真に愛することを見出したのかもしれません。
しかし、いまの世の成功が、真の成功だと私達は、おもっていますが、聖書では、この世は、闇の世であり、サタンのしはいかであるといいます。
この世での真の成功は、神を信じること、主・イエスさまの十字架を信じることだとおもうのです。
この世のすべては、神に近づくためのプロセスにすぎないのですから・・・。
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