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皆さん、あけましておめでとうございます! |

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こんにちは、ゲストさん
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皆さん、あけましておめでとうございます! |
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去る10月5〜13日、ドイツを訪ねました。ドイツのケルンで宣教師をしている佐々木先生の応援です。大変恵まれた一週間を過ごしました。2日目はこちらの「ケルン・ボン日本語教会」の方々、佐々木先生を含めて6人に方々に歓迎を受け、もと西ドイツの首都だったボンを観光。ベートーベンの聖歌などを訪ねました。また、ライン川の辺り、ジークフリートが龍を退治したというドラ匕ェンバーンという高い山にも登りました。ハレルヤ
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みなさん! 暑さが去って、芸術の秋到来ですね! |
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(前回からの続きです。内村鑑三52歳。娘の死に直面するところから・・・)
8.ルツ子が死去する
る。 52歳
1912(明治45)年、52歳、1月12日の早朝 にルツ子の死 を通して復活信仰を
得る。
1914(大正3年) 7月28日 第一次世界大戦勃発 54歳
1916(大正5年) 3月「終(つい)に彼を捨てる」を発表。
8月ベルから送られた日曜学校時報誌のCGトランブルの「再臨は実際的問題ならざるか」を読み、大いなる示唆を得る。
1917(大正6年) 第一次世界大戦にアメリカ参戦。内村は失望し再臨信仰に希望。10月31日、宗教改革四百年記念会(東京基督教青年会館)夜の集会は大成功。1500余名出席。
9.再臨運動
58歳
1月6日「聖書の預言的研究演説会」は大盛況。ここから中田重治、木村清松と組んで、有名な再臨運動が展開される。この時の会衆は1200余人。大満足の講演。以後1年半にわたって「キリスト再臨の宣教」に力を注ぐ。
2,3月は東京で再臨講演。
3月 大阪、京都、神戸の再臨講演 5月も再度開催
6月〜7月は札幌、旭川、網走、北見、函館で講演。
10月 岡山で再臨講演
11月 再臨講演東京大会
1919(大正8)年 1月、キリスト再臨問題研究、関西大会で講演。
3,4月 「パウロの復活論」講演。
6月から再臨運動は終り、講演会は東京基督教青年会館から丸の内の大日本私立衛生会講堂に移る。9〜10「モーセの十戒」の講演。
1920(大正9)年 1〜3月、「ダニエル書」 講演。
4〜6,9〜12月「ヨブ記」講演。
10.ロマ書講義
1921年(大正10年)、1月から6月、10月〜12月(丸の内の大日本私立衛生会講
堂にて) 61歳
11.関東大震災
1923年(大正12)、 6月、有島武郎・波多野秋子心中事件 発見は7月
63歳
9月1日、関東大震災が発生。
12. 召天
1930年(昭和5年) - 3月28日死去、遺言により「聖書之研究」は廃刊、内村鑑三
70歳 聖書研究会解散。
最後の言葉は「日本と世界の救いと神の創造の業の
中での宇宙の完成」であった。
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書き込むのが久しぶりになってしまいました。毎日、いろんな仕事に追われて、すべてが中途半端という感じです。
わたしは内村鑑三が好きです。まあ、本当に不思議な人で、日本人の中で一番面白いのではないかと、小原信さんが言っておられますが、本当にそう思います。彼のあの明治の激動期に、西洋とそして西洋の文化の本質とがっぷり四つで相撲を取ったのは、そして本質を深く理解したのは内村鑑三ではないかと思います。
今日は内村鑑三の約70年の生涯を、12のポイントに焦点を絞りながら全体を書きおろしてみたいと思います。そして、興味をお持ちの方と深めることができればと考えております。かなり自己流であるかもしれませんが、わたしは彼の生涯を12に区分してみました。 (□で囲んだところは、12の中心的ポイント。□に黄色は、彼の精神的な重要な年代、□に赤は、決定的な出来事、ということで強調してみました。かなりわたしの独断と偏見が混じっております。)
内村鑑三の生涯
1873年(明治6年) - 東京の有馬学校入学
1874年(明治7年) - 東京外国語学校入学
1881年(明治14年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。
1882年(明治15年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。
1883年(明治16年) - 4月札幌県御用掛を辞職 12月農商務省御用掛となり「日本魚類目録」等作成。
1884年(明治17年) 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。 24歳
11月、渡米。
1885年(明治18年) - エルウィン白痴院にて看護人として働く。
新島襄の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。
1886年(明治19年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。
3月8日。翌9日がクラークが死去。
1887年(明治20年) - 7月、アマースト大学卒業。9月、ハートフォード神学校入学。
1888年(明治21年) - ハートフォード神学校を半年で退学(1月)、帰国(5月)。 28歳
9月、新潟の北越学館赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。
1889年(明治22年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。
7月31日、横浜加寿子と結婚。
1890年(明治23年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。
4月19日、妻加寿子が病死。
1892年(明治25年) - 大阪の泰西学館に赴任。
12月23日、岡田静子と結婚
1893年(明治26年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。
1897年(明治30年) - 「萬朝報」の英文欄主筆になる。「後世への最大遺物」出版。 37歳
1898年(明治31年) 5月 「萬朝報」を退社。「東京独立雑誌」を創刊。
1899年(明治32年) 7月 私立女子独立学校校長となる。
1901年(明治34年) - 一時期「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。
1902年(明治35年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。小山内薫、志賀直哉などが出席。
1903年(明治36年) - 日露非戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」に発表する。萬朝報客員を辞す。
1907年(明治40年) 4月13日、父宜之が死去する。
11月、角筈より柏木に移転
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