|
このころに田舎で描いた自画像(19歳)反骨精神旺盛なころ)
9月と10月は田舎に帰って友人たちと農村改革などを何度か話し合ったりした。19歳だったので、何
かにチャレンジし、手ごたえを試したかったのだ。
10月の末にふたたび上京して、受験の準備に入る。アパートはすいどうばたの近くということで練馬
区中村一町目一番地という所の三畳間を借りた。そして、すいどうばたの予備校でまた、デッサンや油絵
の学びはじめた。それと同時に、練馬の近くの教会を探した。電話帳で日本キリスト教団の項を見たら、
「練馬○○教会」というのがあった。電話で聞くと西部池袋線の桜台駅から歩いて2分ぐらいとのことであ
る。10月末の礼拝に出席した。わたしは高校生の時から、日本キリスト教団から出版されていた「月刊
キリスト」という雑誌や「信徒の友」を読んでいたので、日本キリスト教団の教会へ行ってみたいと思って
いた。そういう意味では、いよいよ、日本キリスト教団の教会だと期待があった。
練馬○○教会は小さな家庭的な教会だった。初めて教会を尋ねた時は、角に手造りの看板があった。字
は市川先生の独特な芸術的な筆跡である。それに普通のお家にだったが、屋根に手作りの青い尖塔がつい
ていた。白い手作りの柵があり、それを押して入ってゆくと、玄関先に小さな庭があり、犬小屋があっ
た。庭先から石の壇があり、廊下から家の中に入るようになっていた。左側は牧師館、右側が礼拝堂であ
る。牧師観には八畳ぐらいの部屋に本が壁にびっしりと並んで入っていた。礼拝堂は四畳半を二間ぶちぬ
いて畳の上に木の折り畳み椅子で座るようになっていた。礼拝堂の周りには市川先生の描かれた油絵や色
紙、版画が沢山飾ってあった。会衆者は10人位であったろうか。でも、最初の礼拝の時のイメージは感
動的なものであった。特に市川師はガウンを着て説教をされ、十字架の贖いのメッセージが心に迫って涙
が流れんばかりの感動があった。礼拝が終わって、教会員から声がかけられるのを待っていたが、誰も声
をかけてくれなかった。牧師先生も牧師夫人も。わたしはとぼとぼと一人帰るはめになった。日本キリス
ト教団は冷たい教会だと聞いていたが、まさに、冷たい、と思った。次の聖日、礼拝に時間までに行く
と、礼拝堂の後ろの方に、目の鋭い、3人ぐらいの労務者風の若い男の人が座ってる。彼らは礼拝中も、
立ちもしないし、聖書も開かない、讃美歌も歌わない。ジーっと牧師と教会員を見つめている。時々、牧
師の説教に野次をいれる。「ナンセンス!」とか叫んでいる。わたしは「おうおう、すごい、問題提起者
だ!さすがに日本キリスト教団だ。すごいところに導かれたな、やってるな。」と思った。実は、先週、
わたしが初めて教会に来た時に、教会員が冷たいと感じたのは、牧師や教会員が、わたしを問題提起者と
間違えたからであると分かった。わたしも、絵描きの浪人生で、カーキ色の作業着を来ていたので、彼ら
と格好はよく似ていた。問題提起者が帰った後に、牧師はわたしに声をかけてくださった。わたしは、現
在にいたるまでのこと等を牧師に話し、洗礼を考えていることまで話した。市川先生はわたしに心を開い
てくださり、奥様ともども、親しく、祈りをこめて導いてくださったのである。
|