KURENI 主と共に歩む恵みの日々

2019年がやってきましたね〜。チャレンジの一年!!

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1492年4月8日に後援者のロレンツォ・デ・メディチが死去しました。
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                  ヴェロッキオ作 メディチ家のロレンツォ・デ・メディチ
この1492年はご存じのようにコロンブスがアメリカ大陸を発見した年であり、西洋史に大きな転換期が来ているときでした。ロレンツォの死により、ミケランジェロを取り巻く環境は激変。ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻りました。その後数ヶ月をかけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の『キリスト磔刑像』(1492年)を制作しています。ミケランジェロはまだ17歳でした。この修道院長は修道院付属病院で死去した人の身体を解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物で、ミケランジェロは死体の解剖をしながら、人間の体の構造、骨格や筋肉の付き具合、脳や内臓等についても詳細な知識を持っていました。1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの大きな立像制作のために大理石の塊を購入しています。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記録が残っていますが、18世紀に行方不明になっています。大雪が降り積もった1494年1月20日に、メディチの後継者ピエロからミケランジェロに雪像制作の依頼が舞い込み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなりました。
 
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                 フィレンツェとイタリヤの地図 
しかしこの1994年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍の侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの指導する排斥運動でフィレンツェから追放されてしまいます。ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去っておりヴェネツィアついでボロー二ァへと居を移しました。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けています。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着きつつあり、それまでフランス王シャルル8世率いるフランス軍も、ローマ教皇、神聖ローマ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、当面の危機は回避。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと戻ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に頼らざるを得なくなりました。ローマの枢機卿が、ミケランジェロの作品の出来栄えに感銘を受けて、ミケランジェロをローマへと招きました。自分の彫刻作品がローマで認められのを機に、彼はローマに移ることになります。
 
 ミケランジェロがローマに到着したのは1496年6月で、ミケランジェロがまだ21歳の時でした。同年7月、ミケランジェロをローマに招いた枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼を受け、ローマ神話のワインの神をモチーフとした『バッカス像』  の制作。しかしながらこの作品はリアーリオから受け取りを拒否されました。1497年11月にミケランジェロは教皇庁のフランス大使から、代表作の一つである『ピエタ』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を交わしました。完成した『ピエタ』は当時「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価され、ミケランジェロの伝記を書いた例のヴァザーリは「間違いなく奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」だと絶賛しています。この時、彼は24歳。若くして彼の芸術は花開きました
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               24歳にしてこの素晴らしいピエタを彫刻した
 
 この後、ミケランジェロは29歳にして、あのダヴィデ像を作成します。現在はフィレンツェのアカデミア美術館に陳列されます。メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、ルネサンス美術を含む芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だったサン・マルコ修道院院長のサヴォナローラは失脚し、1498年に絞首刑となり、のち火刑にされました。内村鑑三の著作には、このサボナローラがよく出てきます。替わってピエロ・ソデリーニが台頭して、以前とは状況が変わったフィレンツェ共和国に、ミケランジェロは1499年から1501年にかけて帰還しています。ミケランジェロは羊毛ギルドの参事たちに、フィレンツェの自主性を表す象徴として壮大なダヴィデの彫刻を制作し、ヴェロッキオ宮殿に面したシニョアール広場に設置するという相談を受けました。ミケランジェロが、この代表作といえる『ダヴィデ像』を完成させたのは1504年。イタリア北部の都市カッラーラの採石場から切り出され、「巨人」と呼ばれた6メートルに及ぶ大きな大理石、純白で傷一つない長方形の巨大なこの大理石。何度か当時の代表的な彫刻家がチャレンジしようとして実現せず、35年間も大聖堂の作業場におきっぱなしになっていたこの大理石に、あの『ダヴィデ』を刻むことになりました。29歳にしてミケランジェロが持つ彫刻家としての当代随一の地位はゆるぎないものとなったのでした。
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 昔、赤羽に住んでいた時に、裏の長屋のような古いアパートに「三毛乱次郎」さんという漫画家志望の青年が住んでおりました。訪問して、ちらっと見た程度ですが、とても面白そうな青年でした。三毛乱次郎さん、どうしてるかな?などと、ミケランジェロのことを考えるときに思い出してしまいます。
 
 ミケランジェロは、何となく近寄りがたい雰囲気があり、なじめないところがありました。今も、すこし、そのような思いが残っております。三毛乱次郎さんのような雰囲気は感じられません。「神のごときミケランジェロ!」 その威厳と情熱と陰鬱さが、いぶし銀のような孤高な存在としてわたしの心の中にも存在しています。最近になって、秋田で思いもかけず、美術作品の紹介がてら、ミケランジェロとその時代、メディチ家の歴史、フィレンツェの歴史、そしてルネサンス、さらには宗教改革時代といろん本を読み漁ってゆくと、実に興味深いことを発見してゆきました。書き留めておかないと、やがてわたしの記憶の中から蒸発してしまうので、不充分ながら書き留めておきたいと思います。
 
 まず、ミケランジェロの紹介から始めましょう。
 画家であり、伝記作家でもあったジョルジォ・ヴァッサーリは、1550年、「画家・彫刻家・建築家たちの生涯」の中でこのように書いています。
 
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                         ジョルジョ・ヴァッサーリの肖像
 
芸術家たちが、自然を模倣し、自然を把握するために最善を尽くし、英知というすぐれた理解力を見につけようと苦しい努力をしているのを見て、全能の神はこの、徒労に終わるかもしれない努力を哀れと思われた。そこで神は、すべての芸術に最高の表現力を備えた一つの魂を、この世に贈ろうと決意された。絵画に正しい形を、彫刻に完成美を、建築に威厳を与える一人の天才に、命を授けたのである。その上、神はこの選ばれた天才に、哲学を理解する力と優雅な詩才をも与えた。こうして1475年、セガンティーノに住む、セニョール・ロドヴィコ・ディ・リオナルド・ディ・ヴォナルロッティ・シモーニは、一人の男の子を授かった。感動した彼は天使ミカエルにあやかり、この子をミケランジェロとなずけた」。
 
 ヴァッサーリによれば、ミケランジェロは、全能の神が、芸術の完成をなす特別の魂としてこの世に贈った者であり、特別の芸術の極致を示す使命の天才なのです。まさに、人々は彼を「神のごときミケランジェロ」と呼んだのでした。90歳近くでなくなったとき彼は完全に神格化されていたと言われます。
 歴史家ベネデイット・バルキはミケランジェロの死で弔辞を述べ、感極まってこう叫んだと言います。
「この天才の出現は、人間の歴史始まって以来の、新しい、異例な、まさに前代未聞の出来事でした。だから、いま私は賛美と、感嘆と、驚愕と、意外の感で胸がいっぱいとなり、私自身が生まれ変わったような感じがするばかりでなく、わたしの胸の鼓動は高まり、髪の毛は逆立ち、体は震え、全く動転してしまったのです。」
 
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         ヤコビーノ・デル・コンテ作 ミケランジェロの肖像(60歳ごろ)
 
 このように称えられる、人間の芸術史上燦然と輝く作品群を残したミケランジェロの生涯を皆様と一緒に見てみたいと思います。
 
 ミケランジェロは1475年3月6日にフィレンツェ共和国のカプレーゼで生まれました。ミケランジェロの一族はフィレンツェで小さな銀行業を営んでいましたが、ミケランジェロの父ルドヴィコ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていました。ミケランジェロ誕生当時の父はカプレーゼの小さな町の判事職と、主席行政官を務めていましたた。母親の名前はフランチェスカ。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで過ごした。ミケランジェロが6歳の1481年に、母フランチェスカが死去。父親のルドヴィコのわがままと暴力の犠牲になって死んでいったようなものだそうです。当時のミケランジェロの一家は石工の一家と共にセッティニャーノに住んでおり、父ルドヴィコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していました。ミケランジェロは「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」とよく語りました。彼は小さい時から、おっぱいと共に彫刻の世界を飲み込んだのです。
 ミケランジェロは彫刻の職人たちの中で育ち、時折、父親の所に帰るというような生活で、父親の再婚のこともあり、ふつう裕福な家の子供は6歳ごろから学びを始めるが、彼は10歳ぐらいから学びを始めたようです。そのためか学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好む少年でした。ミケランジェロが13歳のときに画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められましたが、これは当時としても異例のことでした。
 
 しかし、この時代は世界が大きく変動してゆく時で、1483年にドイツで宗教改革者マルチン・ルターが生まれています。マルチン・ルターとミケランジェロは同時代の人で、今回、驚きました。
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マルチン・ルター(1483〜1546)
ルターは1546年、63歳でのその激動の一生を終えますが、ルターより8歳年上だったミケランジェロは89歳まで元気に活躍し1564年に死んでいます。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチ
がギルランダイオに、もっとも優れた弟子を二人自分のところへ寄こすように求めた時に、ミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチ がロレンツォの元へと派遣されました。1490年から1492年にかけてミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトンアカデミーへと参加しています。当時のミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで彫刻を学び、さらに16歳頃のミケランジェロは、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集うマルシリオ・フィッチーノなど当代一流の人文主義者や詩人たちと交流しています。この時期、15〜17歳のにミケランジェロが制作したレリーフとして『階段の聖母』(1490年 - 1492年、)、『ケンタウロスの戦い』(1491年 - 1492年)があります。『ケンタウロスの戦い』は詩人ポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だったと言われます。しかし、ミケランジェロは人づきあいが悪く、その優れた才能のゆえに傲慢なところも多く、17歳の時に、一緒に勉強していた3歳年長のトッリジャーノ に顔を殴られて鼻骨が曲がってしまった。それは、友人の彫刻の模写を、ミケランジェロがあざけったことが原因だったといわれます。容姿に自信のなかったミケランジェロは、さらに自分の容姿には自信を無くし、陰鬱な性格になったようです。

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