書き込むのが久しぶりになってしまいました。毎日、いろんな仕事に追われて、すべてが中途半端という感じです。
わたしは内村鑑三が好きです。まあ、本当に不思議な人で、日本人の中で一番面白いのではないかと、小原信さんが言っておられますが、本当にそう思います。彼のあの明治の激動期に、西洋とそして西洋の文化の本質とがっぷり四つで相撲を取ったのは、そして本質を深く理解したのは内村鑑三ではないかと思います。
今日は内村鑑三の約70年の生涯を、12のポイントに焦点を絞りながら全体を書きおろしてみたいと思います。そして、興味をお持ちの方と深めることができればと考えております。かなり自己流であるかもしれませんが、わたしは彼の生涯を12に区分してみました。 (□で囲んだところは、12の中心的ポイント。□に黄色は、彼の精神的な重要な年代、□に赤は、決定的な出来事、ということで強調してみました。かなりわたしの独断と偏見が混じっております。)
内村鑑三の生涯
出生
1861年(万延2年) - 3月23日、上州高崎藩士内村宜之の長男として江戸に生まれる。 1歳
1873年(明治6年) - 東京の有馬学校入学
1874年(明治7年) - 東京外国語学校入学
札幌農学校入学
1877年(明治10年) - 9月に札幌農学校に入学。「イエスを信ずる者の誓約」に署名 17歳
1878年(明治11年) - 受洗、洗礼名「ヨナタン」
1881年(明治14年) - 首席で農学校卒業、卒業演説「漁業も学術の一つなり」。開拓使御用掛となる。
1882年(明治15年) - 父・宜之受洗礼。札幌独立教会設立。
1883年(明治16年) - 4月札幌県御用掛を辞職 12月農商務省御用掛となり「日本魚類目録」等作成。
結婚・破婚・渡米
1884年(明治17年) 3月28日、浅田タケと結婚(7ヶ月後破婚)。 24歳
11月、渡米。
1885年(明治18年) - エルウィン白痴院にて看護人として働く。
新島襄の紹介によりマサチューセッツ州アマースト大学に入る。
1886年(明治19年) - 学長シーリーの人格と信仰の影響を受けて、キリストの贖罪の信仰を得る。
3月8日。翌9日がクラークが死去。
1887年(明治20年) - 7月、アマースト大学卒業。9月、ハートフォード神学校入学。
帰国
1888年(明治21年) - ハートフォード神学校を半年で退学(1月)、帰国(5月)。 28歳
9月、新潟の北越学館赴任。12月に宣教師らと衝突して、辞職、帰京。
1889年(明治22年) - 東洋英和学校、東京水産伝習所、明治女学校に教える。
7月31日、横浜加寿子と結婚。
1890年(明治23年) - 9月に第一高等中学校嘱託職員になる。
不敬事件
1891年 (明治24年) 1月9日、不敬事件。これはキリスト教会と日本の精神性が正面衝突。 31歳
4月19日、妻加寿子が病死。
1892年(明治25年) - 大阪の泰西学館に赴任。
12月23日、岡田静子と結婚
1893年(明治26年) - 著作活動を始める。処女作は『基督信徒のなぐさめ』。同書で「無教会」という言葉を初めて使った。泰西学館辞任。熊本英学校赴任。8月すぐに辞任して京都に住む。
「萬朝報」の英文欄主筆
1897年(明治30年) - 「萬朝報」の英文欄主筆になる。「後世への最大遺物」出版。 37歳
1898年(明治31年) 5月 「萬朝報」を退社。「東京独立雑誌」を創刊。
1899年(明治32年) 7月 私立女子独立学校校長となる。
「聖書之研究」
1900年(明治33年) 10月「聖書之研究」を発刊。 40歳
1901年(明治34年) - 一時期「無教会」を創刊。黒岩涙香らと「理想団」を作り、社会改良運動を行う。
1902年(明治35年) - 角筈聖書研究会を自宅で始める。小山内薫、志賀直哉などが出席。
1903年(明治36年) - 日露非戦論、戦争絶対反対論を「萬朝報」に発表する。萬朝報客員を辞す。
1907年(明治40年) 4月13日、父宜之が死去する。
11月、角筈より柏木に移転