KURENI 主と共に歩む恵みの日々

2019年がやってきましたね〜。チャレンジの一年!!

わたしの内村鑑三体験

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内村鑑三の信仰の確信

 年末のことですが記しておきましょう。
 早天祈祷会の時間に2コリ5:19ー21について皆で黙想し、
そして、導かれたことをお互いに分かち合いました。この箇所は
「神との和解と新しい生涯、その中心的内容としての神の義」
と言うところでした。一同、大変、恵まれまして、熱い祈りを
捧げました。
その後に、朝食を取りながら、聴講生で朝、4時ごろに起きてこの
朝の集いに参加されるS兄が、関根正雄先生の「詩篇注解」から、
詩編110の解釈についての質問がありました。それをきっかけに
また、内村鑑三や無教会についての話題で場が盛り上がりました。
それは、わたしの関心事でもあるからです。
 話し合った内容は以下のようでした。
 
* 内村鑑三は信仰体験を通して、聖書の信仰に対して確信を持った。
 
 ①唯一の創造主への信仰
  明治の初年にクラーク博士が来日され、有名な 「ボーイズ ビー アンビシャス!」の言葉を残した。 クラーク博士はアメリカ南北戦争に従軍したことのある気骨あるクリスチャンで明治期のサムライの息子達の教育には厳しさと高潔さで大きな影響を与えた。
 内村鑑三は高崎藩の武士、東京小石川住まいの内村家の息子。英語学校に通っている時に、札幌農学校の官費留学の学びの演説を聴いて、魅力を感じて第二期生として札幌に行くが、先輩達がクリスチャンとなっていて、その信仰の情熱を持って内村たち二期生にキリスト教信仰を強要した。
 誇り高い内村は、一時は札幌神社で、日本の神々に、この西洋の信仰からわたしを守りためと祈るが、ついに先輩達に押し切られて洗礼を受ける。
 しかし、彼はそこで、唯一神への信仰を持ち、人格的な神との交わりを中心としたキリスト教信仰を自分のものとした。彼は聖書はもちろんのこと、マシュー・ヘンリーの聖書注解を全部読み終えるほどの英語力と信仰の理解を持っていた。
 彼は江戸時代の日本の迷信的宗教から、天地創造の神を信じる信仰、人格的な、アブラハムの信仰を自分のものとした。
    
 ②十字架の贖罪についての信仰
  内村鑑三は大変な天才で、札幌農学校の成績は平均93-94点で北海道大学の歴史を通じても、トップの成績と聞いたことがある。彼の卒業の時の演説会での演説は後輩に涙の感動を与える名演説だったという。彼の説教の力は若い時から優れていた。彼は、専門の水産学においてすぐれた論文を書き、官吏となった。しかし、
 やがて大きな試練がやってくる。それは、 
 *離婚の痛手であった。彼は同じ信仰者、内田タケと結婚するが彼女の心に、不純なものを赦すことができず、ついに離婚となった。家を出る時に「武士の家を出るからには何があっても、帰ることはできない。それでいいのか」と彼女に言ったが彼女はそれでも出て行った。後で、彼女は帰ることを赦して欲しいと願ったが、それは
受け入れられなかった。
  しかし、この事件は、内村の中にあった様々な信仰への疑惑が黒雲のように広がり、彼は信仰上の疑問で眠れないような日々を送った。
 そしてついに、米国においてキリスト教の実際を見てきたいと、渡米するにことを決意した。
 *米国での体験
  天国の雛形かと思って渡っていったアメリカ。サンフランシスコ港についた時には涙を流して神に感謝を捧げた。ところがその直後に、傘を盗まれ、神の国にも盗人がいると驚く。それから親切に荷物を運ぶ黒人に出会い感激。このような愛と親切にキリスト教の高い道徳性を見て感激していると、彼らは手を伸ばして、チップを要求した。いさぎよい武士教育を受けた内村にとって、このような見返りを求めることは最低の精神に思え、失望。
 彼はやがて、知恵遅れの施設で奉仕をし、更に、新島襄の紹介で、マサチューセッツ州のアムハースト大学に学ぶ。華やかで有名なケンブリッジ大学よりも霊的な、深い敬虔派の流れのシーリー総長の導くアムハーストを 彼は選んだ。ギボンのローマ衰亡史をかばんに入れ、くたびれた洋服を着た、誇り高き東洋の青年をシーリーは暖かい目で迎えた。内村にとってシー リー総長は「ライオンの顔と子羊の目をもった聖徒」と映った。
  内村は4階の一室を与えられ、授業の合間、いつもキリスト教の本質を祈りもとめていた。そして、ついに、シーリー総長の助言を下に、「十字架の贖い」がキリスト教のいちばんの基本であることを悟った。そのときに彼は旧約聖書のエレミヤを特に読み進んでいたと言う。「十字架の贖いの出来事」を深く悟った時に、彼の信仰に確信がやってきた。数日後、雷が鳴った。雷嫌いの内村が、このときには、雷に撃たれて死んでも、神との平和、神にあることの平安を確信して感謝したと言う。
  「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」の中心主題は、この「十字架の真理」を悟るための米国留学だったことを最後に語っている。以後、内村鑑三は、「自分のキリスト教は、十字架教だ」とまで宣言している。
  内村鑑三の信仰のエピソードがたくさんあるが、弟子の藤井武との論争と分離はその象徴的内容である。真実一路の藤井武は、人間の真実を強調した文章を「聖書の研究」誌に載せた。彼は内村に呼び出され、厳しくとがめられる。その時の内村の怒りの激烈さは、火鉢から内村の着ていた着物に火が燃え移ったのも気づかずに怒っていたので、藤井は「気が狂っている!」と思うほど激烈だったと言う。関根正雄はこのことを紹介して 「内村にとっては神の御子の十字架の贖いの出来事は、全宇宙よりも大切な出来事だったのであろう」と記している。エピソードとしては「ついに 彼を捨てる」という文章にあらわされる。
  内村鑑三の熱意と真剣さは、柏木時代に、彼があるとき笑ったら「内村先生が笑った!!」とニュースになって弟子達の間に広がったほどだった という。まあ、彼の晩年は、高橋つさ子が羊羹を送ってくれた時に、「甘すぎて人を過つ羊羹は柏木の師にかくも似たるか」と書くようにやさしくなったが、彼の十字架への真剣さは驚くべきものがあった。
        晩年の内村鑑三
 
(長い話になって恐縮です。後は簡単に・・)
 
 ③愛嬢ルツの死による復活の信仰
  彼は「復活」に対しては、あまり興味がなかったが、愛嬢 るつ子さんの死を通して、はっきりと復活信仰に立った。彼はるつ子さんの死で、この世の90%に興味を失い、自分の人生はかしこに移ったと語ったという。また、雑司が谷墓地でのるつ子さんの埋葬の時には「るつ子さん、万歳!」と叫び、若き矢内原忠雄はそのときに雷に撃たれるような感動を持ったと告白している。
 
 ④第一次世界大戦の勃発による再臨の信仰
  内村は「再臨」の信仰についても、あまり関心がなかったが、第一次世界大戦勃発と共に、人間の限界に直面して、「再臨運動」を展開することとなる。これは彼のアメリカの友人ベル氏の影響もあった。ベル氏とは生涯手紙のやり取りをしていた。しかし、この再臨運動は長くは続かなかった。しかし、彼のうちには聖書の語る内容の深さにいつも目を開かれてゆき、「聖書のままの信仰がいちばん深い」と語った。
  
  今回は少し長く書きましたが、この、内村鑑三の、聖書の中心的信仰を、自分の体験の中で確かめ、確信に至った姿勢から、信仰生涯とは何かを学び、それを模範としたいという思いで書き記しました。つまり、内村の信仰は、
 ①人格神への信仰。
 ②人間の破れ、罪を贖う十字架の中心的内容の理解。
 ③死を超えた復活信仰。
 ④キリストの再臨に最終的な希望を持つ信仰。 
  内村に習って、わたしは、聖書の信仰の中心的な内容を自分自身のものとする歩みをしたいと日々考え、祈って歩んでいます。
 (今回は文章が長いですね。すみません。でも、これがわたしの信仰告白でもあります。)    

我は我が愛する斯国(このくに)を

今日直(たゞち)に済(すく)ひ得ざるべし、

然れども我は百年又は千年の後に之を済ふの基(もとゐ)を置すえんと欲す、

我が小なる事業が救済の功を奏するまでには

我国は幾回となく亡ぶる事もあらん、

然れども我は永久の磐〔いわ〕の上に築て

時の変遷を懼〔おそ〕れざるべし、

我は我国を世々の磐なる我神に委まかせん、

世の政治家の如くにあらずして、

預言者の如くに、使徒の如くに、

大詩人の如くに、大哲学者の如くに、

永遠の真理を講じて永遠に我国を救ふの道を講ぜん。

(「我が愛国心」)(1908/1/10)


昨日、委員会で、ある新築教会を訪ね、同郷の先輩だったので、

親しい交わりを頂き、の牧師館まで、入れていただいた。

先生の本のぎっしり詰まった書斎の出口に、内村鑑三の文章が

コピーして貼ってあった。それ上掲の文章だった。

先生いわく

「すごいね。内村鑑三!僕たちも、日本を愛し、日本を深く思い、

100年、1000年の礎を築く思いで仕えたいですね」。

イメージ 1

「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」に以下のような文章がある。
面白いと思った。
内村は1877年(明治10年)12月11日に「イエスを信じる者の誓約」」に署名し、
翌1878年6月2日に洗礼を受けている。
洗礼名をヨナタンとした。その翌年の夏のことである・・。
(写真は左から新渡戸(当時は大田)稲造、宮部金吾、内村)

 1879年の夏をわたし(内村)は学校から東京の自宅で過ごした。
フランシスが同行した。2年目に帰るのは楽しみであった。
母に「わたしは新しい人間になりました。同じ信仰には行ってください」と語った。
しかし、母は無関心、父は敵対した。
弟(達三郎)は憎らしくもロマ書に悪口を書いた。後に彼はクリスチャンになった。
それでも祈り続けた。やっと父に「調べておく」との約束を取り付けることになった。
首都での生活で、Sではめったに聞けない説教や演説を満喫した。
教会での交わりを体験し、立派な講壇や教会に感動し、
わたしたちもあのような教会を造りたいと思った。
あるメソジスト教会の帰りに長老派のY氏という方に食事を勧められた。
お祈りしないで食べようとしたら、食事の前に祈らないのですか?といわれて驚いた。
その時まで、食事の前に祈ることは全くなかった。
(以下、鈴木範久訳)
「また、ほかにも多くのことを教えられました。
その中には食前の祈りがありました。
わたしたちはこれまで、長い間、そのようなことは一度もしてきませんでした。
犬や腹をすかした異教徒のように、すぐに食事に飛びついいていたのであります。
メソジスト派の日本人牧師を尋ねたときのことであります。
そこにY氏(山下敬太郎=後に札幌農学校に学ぶ)という長老派の人も居合わせていました。
食事をして行くようにと引き止められ、私たちは喜んでそれに応じました。
一椀のごはんと魚、野菜を載せた木製のお膳が私たちの前に出されました。
フランシスとわたしはいつものバンカラ風に、箸を取ると、ただちに食事にかかろうとしました。
その時Y氏が、重々しい口調で言ったのであります。
「あなたがたは、食事の前にお祈りをしないのですか。」 
わたしたちは赤面しました。
箸を置くと、その人たちがするように頭をさげ、事態の成り行きを見守りました。
お祈りがささげられました。
しかし、まだ何かをするように言われるのではないかと思って、食べ始めるのをためらっておりました。すると食べ始めるように勧められました。
私は今でもその時言われた言葉を一語も漏らさず覚えておりますし、
食事に出た品も、すべて忘れていないのであります。

さかなは灰色のシタガレイ (sole) でありました。
背に5本、水平に黒いしまが入っておりまして、
口はからだの左下にあり、胸びれのちょっと上のところで曲がっていました。
恥ずかしくてたまらず、あがって、うつむいている間に、
これらの一切を観察していたのでありました。
しかし、一度教えられた教訓は、それ以来、決して忘れることはありませんでした。
秋になって、学校の食堂に戻ると、そのことを、早速仲間に教えてやりました。
「感謝なき」食事はやがて私たちの間でも、救われがたい人間のしるしになったのであります。
のちに、宗教があざけられて、さげすまれ、
食前の祈祷がはばかなことと見られる場に何度も直面しましたが、
私はメソジスト派の牧師の部屋でな学んだその実行を決して欠かさなくなりました。」

りんどうの花

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誕生日の朝、ある兄弟が「誕生日おめでとうございます」と言って「りんどうの花」をプレゼントしてくださった。以前、交わりの中で「りんどう」のことを話したことによると思う。

内村鑑三の「天然の歓喜」の中で彼は、秋の花としてはりんどうが好きで、ブライアントの詩を翻訳して載せている。(「天然の歓喜」は「歓喜と希望」に収録の文章。明治42年(1909年)11月16日発刊)

なんじ、秋の露をもって輝く花よ
空の色をもっていろどられ
なんじは皮膚(はだえ)にしみわたる寒き夜に
静かなる日が次いで来る時に開く

なんじはすみれが小川と泉のほとりに
首(こうべ)を垂れる時に来たらず
まだおだまきが紫布(むらさき)を着て
巣鳥の床によりかかるときに開かず

なんじは待つことおそくして、ひとり来たる
林は枯れて取りは飛び去り
霜と短き秋の日とが
冬の近きを告ぐる時に来たる

そのとき、なんじのやさしき静かなる眼は
紫の袖をかざして空を望む
その蒼(あお)きこと、あたかも蒼き空が
その天井(てんじょう)より花を落とせしがごとし

余は望む、余もなんじのごとくに
死の期(とき)が余に近づく時に
希望は余の心の中に咲いて
世を逝(さ)りつつも天を望まんことを

そして、内村はさらにこう記している。
「・・・甲武鉄道、中野ステーションに近き楢(なら)林の中において
余は計らずも枯葉の中に、余のかねてより敬慕せる余の秋の友人なる
紫りんどうに遭遇した。余はしばしの間、彼の育成の地において彼を見つめた。
彼はあまりに慕わしくして、彼に手を触れ得なんだ。余は即座にブライアント
の言葉を原語のままにて唱えた。

Blue- blue as if that sky let fall,
A flower from its cerulean wall.
その蒼きこと、あたかも青き空が
その天井より花を落とせしがごとし

・・・われらは彼らを友として喜びながらこの涙の谷を通過(とお)ることができる。

深い感動に満ちた、2月4日、聖日の朝だった。

死刑の夢を見た。

先日、朝がた、死刑になる夢をみた。
夢の話だからあまり脈絡がないのだが、その前の晩に、このページのことで、わたしの
内村体験の原点、山本泰次郎の「内村鑑三の根本問題」と言う本を取り出して、
読んだりしていたこともあったと思う。

夢の中でわたしは何らかの殺人を犯してしまっていた。
ピストルで自己防衛のためある人を殺してしまったのだった。
西部劇の映画のようでもあった。
そこでわたしは捕縛されて、死刑が決まった。銃殺刑である。
目の前に銃口を突きつけられたときに、「ああ、わたしの人生もここまでだった。
主よ、わたしの魂をみ手に委ねます!」と祈った。
その時、山本泰次郎の本で読んだ内村鑑三の言葉が耳元でささやかれるように聞こえた。
「わたしは十字架の前に泣く赤子に過ぎない」。「ああ、本当だ!
今、死を前にして、主イエスの十字架の贖い以外にわたしのすがるところはないのだ」。
そう思っているところで目が覚めた。

内村鑑三の姿は「十字架の贖いの前に泣く赤子」であると山本は言う。
夢の中ではあったが、霊的な究極のリアリティは変わらないと思った。

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