KURENI 主と共に歩む恵みの日々

2019年がやってきましたね〜。チャレンジの一年!!

わたしの好きな画家

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なかなかしつこいようですが、さらにいくつかの「ヤコブのはしご」の絵をご紹介します。
まず、シャガールの絵をいくつか・・・。
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この絵でも人が落っこちていますね。これは右の二人の天使とは違い、黒い服を着た人間ですね。
 
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これはキリストの十字架が中心にあって戦火で逃げ惑う人々、シャガールはユダヤ人だったので、厳しい苦しみを何度も通過してきたのだろうと想像できます。このキリストの十字架とはしごが一つとなっているところにシャガールの理解が示されているようにも思いますが、考え過ぎかな??
 
それと、もう一枚、
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彼は、ロシアのベラルーシで生まれ育ち、フランスに留学し、またお姉さんの結婚式で戻ったら、第一次大戦が勃発でフランスに帰れず、フランスに帰ってからもナチスに追われてアメリカに逃亡。まさに石を枕にするような涙の日々を送る中で、創世記28章のヤコブのはしごの記事は、自分のことだと思ったのではないでしょうか?
 
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このような美しい映像の「天のはしご」の絵もありますね。左下には鶏に乗る親子の姿がありますね。ここにはもう半分天国の輝きが、地上の家族の愛と思い出と一つになって、なつかしさ、悲しみを越えた恵み、天国の希望等がにじみ出ているようにおもいます。赤い夕陽と紫色の故郷の家々、やさしい動物たちをもふくめた故郷への思い出・・・・。天使たちのやさしさに支えられて天の父の御国に上る姿がえがかれているのでしょうか・・・。赤い夕陽と白く輝く天使たちが印象的ですね。
 
シャガールの「ヤコブのはしご」の絵には、
①石の枕に野宿する人生の悲しみ、
②それにもかかわらず神の救いの天国を夢見る思い、
③神の側から、人間世界に降臨する神、十字架にかかって身代わりとなり給う神の出来事、
 というような主題が、彼の悲しみの歴史と共に描かれるような感じがするのですが、皆さんはどうお感じになりますか?
最近「ヤコブのはしご」の話題を載せていますが、創世記28章10節から内容に関するものです。
 
28: 10 ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11 とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12 すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。・・・15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
 
  
一番わかりやすいのが、ギュスターヴ・ドレ(フランス19世紀)のもの。
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次は ジャン・ギョーム(フランス 17世紀)の油絵
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あるブログから借用
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このような雲間からさしてくる光線を「ヤコブのはしご(Jacob’s ladder)」というのですよね。
昨日の夕方の教会の礼拝にある兄弟が出席して、栃木県から埼玉県に越してきました。教会の兄弟姉妹から記念に聖書カバーを贈っていただいた。それがこれです、といって、聖書カバーを見せて、「このデザインは実は聖書の中の『ヤコブのはしご』というデザインで、創世記28章の聖句もくださいました・・・」とのことでした。
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                 このデザインが「ヤコブのはしご」だそうです。
 ちょうど最近、シャガールの「ヤコブのはしご」の話をきいたばっかりなんだけどと話をしました。
 このデザイン、「ヤコブのはしご」に見えますか?
 わたしは大変気に入っています。周りのパッチワークのデザインもなんといえない
やさしさですね・・・。いいなあ・・・。
 
 
 
 
 
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            ヤコブのはしご
 
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  どなたか、ヤコブのはしごの落っこちる天使についての解説をお聞きになった方、また、ご自分の感想があったら、教えてください。
 
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  あ、ここでもやっぱり落っこちますね・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
1492年4月8日に後援者のロレンツォ・デ・メディチが死去しました。
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                  ヴェロッキオ作 メディチ家のロレンツォ・デ・メディチ
この1492年はご存じのようにコロンブスがアメリカ大陸を発見した年であり、西洋史に大きな転換期が来ているときでした。ロレンツォの死により、ミケランジェロを取り巻く環境は激変。ミケランジェロはメディチ家の庇護から離れて父親の元へと戻りました。その後数ヶ月をかけて、フィレンツェのサント・スピリト修道院長への奉献用に、木彫の『キリスト磔刑像』(1492年)を制作しています。ミケランジェロはまだ17歳でした。この修道院長は修道院付属病院で死去した人の身体を解剖学の勉強のためにミケランジェロに提供した人物で、ミケランジェロは死体の解剖をしながら、人間の体の構造、骨格や筋肉の付き具合、脳や内臓等についても詳細な知識を持っていました。1493年から1494年にかけて、ギリシア神話の英雄ヘラクレスの大きな立像制作のために大理石の塊を購入しています。このヘラクレス像はフィレンツェに送られたという記録が残っていますが、18世紀に行方不明になっています。大雪が降り積もった1494年1月20日に、メディチの後継者ピエロからミケランジェロに雪像制作の依頼が舞い込み、再びミケランジェロはメディチ家宮廷に迎えられることとなりました。
 
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                 フィレンツェとイタリヤの地図 
しかしこの1994年、フィレンツェの支配者メディチ家は、フランス軍の侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの指導する排斥運動でフィレンツェから追放されてしまいます。ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去っておりヴェネツィアついでボロー二ァへと居を移しました。移住先のボローニャでミケランジェロは、サン・ドメニコ聖堂の聖遺物櫃の小さな人物像彫刻を完成させる仕事を引き受けています。その後、1494年の終わりごろにはフィレンツェの政争は落ち着きつつあり、それまでフランス王シャルル8世率いるフランス軍も、ローマ教皇、神聖ローマ皇帝らが結んだ軍事同盟の前に撤退したため、当面の危機は回避。ミケランジェロはこのような情勢下のフィレンツェへと戻ったが、メディチ家不在のフィレンツェ政府からは作品制作の注文を受けることはなく、フィレンツェ外のメディチ家からの庇護に頼らざるを得なくなりました。ローマの枢機卿が、ミケランジェロの作品の出来栄えに感銘を受けて、ミケランジェロをローマへと招きました。自分の彫刻作品がローマで認められのを機に、彼はローマに移ることになります。
 
 ミケランジェロがローマに到着したのは1496年6月で、ミケランジェロがまだ21歳の時でした。同年7月、ミケランジェロをローマに招いた枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼を受け、ローマ神話のワインの神をモチーフとした『バッカス像』  の制作。しかしながらこの作品はリアーリオから受け取りを拒否されました。1497年11月にミケランジェロは教皇庁のフランス大使から、代表作の一つである『ピエタ』の制作を打診され、翌年8月に正式な契約を交わしました。完成した『ピエタ』は当時「人間の潜在能力の発露であり、彫刻作品の限界を超えた」と評価され、ミケランジェロの伝記を書いた例のヴァザーリは「間違いなく奇跡といえる彫刻で、単なる大理石の塊から切り出されたとは到底思えない、あたかも実物を目の前にしているかのような完璧な作品」だと絶賛しています。この時、彼は24歳。若くして彼の芸術は花開きました
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               24歳にしてこの素晴らしいピエタを彫刻した
 
 この後、ミケランジェロは29歳にして、あのダヴィデ像を作成します。現在はフィレンツェのアカデミア美術館に陳列されます。メディチ家のフィレンツェ追放に大きな役割を果たした、ルネサンス美術を含む芸術否定論者にしてフィレンツェの指導者だったサン・マルコ修道院院長のサヴォナローラは失脚し、1498年に絞首刑となり、のち火刑にされました。内村鑑三の著作には、このサボナローラがよく出てきます。替わってピエロ・ソデリーニが台頭して、以前とは状況が変わったフィレンツェ共和国に、ミケランジェロは1499年から1501年にかけて帰還しています。ミケランジェロは羊毛ギルドの参事たちに、フィレンツェの自主性を表す象徴として壮大なダヴィデの彫刻を制作し、ヴェロッキオ宮殿に面したシニョアール広場に設置するという相談を受けました。ミケランジェロが、この代表作といえる『ダヴィデ像』を完成させたのは1504年。イタリア北部の都市カッラーラの採石場から切り出され、「巨人」と呼ばれた6メートルに及ぶ大きな大理石、純白で傷一つない長方形の巨大なこの大理石。何度か当時の代表的な彫刻家がチャレンジしようとして実現せず、35年間も大聖堂の作業場におきっぱなしになっていたこの大理石に、あの『ダヴィデ』を刻むことになりました。29歳にしてミケランジェロが持つ彫刻家としての当代随一の地位はゆるぎないものとなったのでした。
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