KURENI 主と共に歩む恵みの日々

2019年がやってきましたね〜。チャレンジの一年!!

わたしの好きな画家

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 昔、赤羽に住んでいた時に、裏の長屋のような古いアパートに「三毛乱次郎」さんという漫画家志望の青年が住んでおりました。訪問して、ちらっと見た程度ですが、とても面白そうな青年でした。三毛乱次郎さん、どうしてるかな?などと、ミケランジェロのことを考えるときに思い出してしまいます。
 
 ミケランジェロは、何となく近寄りがたい雰囲気があり、なじめないところがありました。今も、すこし、そのような思いが残っております。三毛乱次郎さんのような雰囲気は感じられません。「神のごときミケランジェロ!」 その威厳と情熱と陰鬱さが、いぶし銀のような孤高な存在としてわたしの心の中にも存在しています。最近になって、秋田で思いもかけず、美術作品の紹介がてら、ミケランジェロとその時代、メディチ家の歴史、フィレンツェの歴史、そしてルネサンス、さらには宗教改革時代といろん本を読み漁ってゆくと、実に興味深いことを発見してゆきました。書き留めておかないと、やがてわたしの記憶の中から蒸発してしまうので、不充分ながら書き留めておきたいと思います。
 
 まず、ミケランジェロの紹介から始めましょう。
 画家であり、伝記作家でもあったジョルジォ・ヴァッサーリは、1550年、「画家・彫刻家・建築家たちの生涯」の中でこのように書いています。
 
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                         ジョルジョ・ヴァッサーリの肖像
 
芸術家たちが、自然を模倣し、自然を把握するために最善を尽くし、英知というすぐれた理解力を見につけようと苦しい努力をしているのを見て、全能の神はこの、徒労に終わるかもしれない努力を哀れと思われた。そこで神は、すべての芸術に最高の表現力を備えた一つの魂を、この世に贈ろうと決意された。絵画に正しい形を、彫刻に完成美を、建築に威厳を与える一人の天才に、命を授けたのである。その上、神はこの選ばれた天才に、哲学を理解する力と優雅な詩才をも与えた。こうして1475年、セガンティーノに住む、セニョール・ロドヴィコ・ディ・リオナルド・ディ・ヴォナルロッティ・シモーニは、一人の男の子を授かった。感動した彼は天使ミカエルにあやかり、この子をミケランジェロとなずけた」。
 
 ヴァッサーリによれば、ミケランジェロは、全能の神が、芸術の完成をなす特別の魂としてこの世に贈った者であり、特別の芸術の極致を示す使命の天才なのです。まさに、人々は彼を「神のごときミケランジェロ」と呼んだのでした。90歳近くでなくなったとき彼は完全に神格化されていたと言われます。
 歴史家ベネデイット・バルキはミケランジェロの死で弔辞を述べ、感極まってこう叫んだと言います。
「この天才の出現は、人間の歴史始まって以来の、新しい、異例な、まさに前代未聞の出来事でした。だから、いま私は賛美と、感嘆と、驚愕と、意外の感で胸がいっぱいとなり、私自身が生まれ変わったような感じがするばかりでなく、わたしの胸の鼓動は高まり、髪の毛は逆立ち、体は震え、全く動転してしまったのです。」
 
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         ヤコビーノ・デル・コンテ作 ミケランジェロの肖像(60歳ごろ)
 
 このように称えられる、人間の芸術史上燦然と輝く作品群を残したミケランジェロの生涯を皆様と一緒に見てみたいと思います。
 
 ミケランジェロは1475年3月6日にフィレンツェ共和国のカプレーゼで生まれました。ミケランジェロの一族はフィレンツェで小さな銀行業を営んでいましたが、ミケランジェロの父ルドヴィコ・ブオナローティ・シモーニは銀行経営に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てていました。ミケランジェロ誕生当時の父はカプレーゼの小さな町の判事職と、主席行政官を務めていましたた。母親の名前はフランチェスカ。ミケランジェロの誕生後数ヶ月で一家はフィレンツェへと戻り、ミケランジェロは幼少期をフィレンツェで過ごした。ミケランジェロが6歳の1481年に、母フランチェスカが死去。父親のルドヴィコのわがままと暴力の犠牲になって死んでいったようなものだそうです。当時のミケランジェロの一家は石工の一家と共にセッティニャーノに住んでおり、父ルドヴィコはこの地で大理石採石場と小さな農園を経営していました。ミケランジェロは「私が幸運だったのは、アレッツォの繊細な環境に生まれたことだ。乳母の乳を飲みながら鑿と金槌の使い方と人物彫刻のコツをつかむことができた」とよく語りました。彼は小さい時から、おっぱいと共に彫刻の世界を飲み込んだのです。
 ミケランジェロは彫刻の職人たちの中で育ち、時折、父親の所に帰るというような生活で、父親の再婚のこともあり、ふつう裕福な家の子供は6歳ごろから学びを始めるが、彼は10歳ぐらいから学びを始めたようです。そのためか学問には興味を示さず、教会の装飾絵画の模写や画家たちと交際することを好む少年でした。ミケランジェロが13歳のときに画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りし、わずか14歳でギルランダイオに一人前の画家と認められましたが、これは当時としても異例のことでした。
 
 しかし、この時代は世界が大きく変動してゆく時で、1483年にドイツで宗教改革者マルチン・ルターが生まれています。マルチン・ルターとミケランジェロは同時代の人で、今回、驚きました。
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マルチン・ルター(1483〜1546)
ルターは1546年、63歳でのその激動の一生を終えますが、ルターより8歳年上だったミケランジェロは89歳まで元気に活躍し1564年に死んでいます。1489年にメディチ家当主でフィレンツェの最大権力者ロレンツォ・デ・メディチ
がギルランダイオに、もっとも優れた弟子を二人自分のところへ寄こすように求めた時に、ミケランジェロとフランチェスコ・グラナッチ がロレンツォの元へと派遣されました。1490年から1492年にかけてミケランジェロはメディチ家が創設した人文主義のプラトンアカデミーへと参加しています。当時のミケランジェロはベルトルド・ディ・ジョヴァンニのもとで彫刻を学び、さらに16歳頃のミケランジェロは、私的なサークルであるプラトン・アカデミーに集うマルシリオ・フィッチーノなど当代一流の人文主義者や詩人たちと交流しています。この時期、15〜17歳のにミケランジェロが制作したレリーフとして『階段の聖母』(1490年 - 1492年、)、『ケンタウロスの戦い』(1491年 - 1492年)があります。『ケンタウロスの戦い』は詩人ポリツィアーノがミケランジェロに語ったギリシア神話のエピソードをもとに制作されたもので、ロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロに依頼した作品だったと言われます。しかし、ミケランジェロは人づきあいが悪く、その優れた才能のゆえに傲慢なところも多く、17歳の時に、一緒に勉強していた3歳年長のトッリジャーノ に顔を殴られて鼻骨が曲がってしまった。それは、友人の彫刻の模写を、ミケランジェロがあざけったことが原因だったといわれます。容姿に自信のなかったミケランジェロは、さらに自分の容姿には自信を無くし、陰鬱な性格になったようです。
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            棕櫚の木  1926
 
しばらく前ですが、ボナールのことを書いたことがありました。そこにこのように描きました。
 「わたしは西洋絵画の中では、ボナールが一番好きです。1970年のころ、よく東京でボナール展が開催されました。美術館で、彼の絵をずーッと見ていると、彼の色彩に、酩酊したような陶酔感を覚え、終わりのころはくらくらしました。」
 来週ある集会で、美術の話をするので、そのことを念頭に書いてみました。
        
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     朝食 1932年
 
 
 
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   浴槽の裸婦  1941
 
 
 
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               食卓と庭 1934
 
 
 
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 サーカスの馬  1946
 
 
 
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  花盛りのあんずの木  1947年
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     一人でこんな絵を天井に描くなんて、人間業じゃないですね。
 システィーナ礼拝堂は奥行40.5メートル、幅14メートル、天井は礼拝堂主要部の床から20メートルの高さだそうです。ミケランジェロは足場を作り、天を見上げながら、描いていったそうです。
 彼はまさに天才ですね!!
 
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  これはノアの洪水の全図。彼はこの絵から描き始めたらしい。人間の破局の姿を描きつつ、彼は何を考えていたのでしょうか・・。
 

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  先日、大変感動したことがありました。
 うちの娘が、僕がミケランジェロの作品を見たいんだよな・・・と言ったら
うちの町の図書館に付き合ってくれて、そこにあまりいい本がないので、
古本屋に行こう、と言ったら、古本屋に付き合ってくれて、そこにも思うような
本がないと言ったら、すぐにインターネットで調べてくれて、千石図書館から
30000円もするものすごい大きな本を借りて、担いで持って来てくれました。
「背骨が曲がるか・・・と思った」とか言いながら見せてくれました。
 
 持つべきものは、親孝行の娘だよね・・・・。
 
という訳で、この大きな本の内容を、時々紹介しようと思います。
 
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      こんなに大きな本です。お、重い・・・!!
 
 ロマ書を担いで、ローマに出かけたケンクレアの執事、フィベのようだ!
と一瞬思いましたよ。
 

ピサロの深緑の絵

 
ピサロ
ジャコブ・カミーユ・ピサロJacob Camille Pissarro, 1830年ー1903年
 
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ピサロの絵はとても優しく感じます。
滴るような緑の色調が、私たち人類のふるさとのような
自然の花園に誘ってくれますね。
田舎のふつうの生活の中に、純朴な
人間を信頼して生きる喜びや恥じらいや
感動が素直に表現されていますね。
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中学生の時に雑誌で見た「ひみつの
かたらい」が、ほのぼのとした暖かさを
与えてくれました。
 
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その頃から、何となく、この印象派の代表のような
ピサロに惹かれるものを感じてきました。
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皆さんはどうお考えになりますか?         
 
 ピサロは、1830年生まれ。1903年まで生きた、フランス印象派の画家の代表の一人です。年表を見るとマネの2歳年上、ドガの3歳年上、モネやセザンヌの10歳年上です。
 カリブ海のセント=トマス島にて、ボルドー出身のユダヤ人の家庭にうまれました。少年時代をこの島で過ごしたピサロは、11歳の時フランスに渡りました。17歳でふたたび帰郷していましたが、画家志望を断ち切りがたく、1855年25歳のときにフランスに戻りました。
 ピサロは、コローやクールベの作品に感動、実際に彼らを訪れています。パリでは画塾でモネと知り合いました。1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、モネ、ルノワールらと一緒に戸外にキャンバスを持ち出して制作したようです。
  いい時代ですね。わたしも「すいどーばた」にいた約400人のユニークな青年たちを思い起こします。
  
 彼は1870年の普仏戦争を避けて、ロンドンへ、現地で落ち合ったモネとともにたターナーの作品を研究したそうです。ターナーの色彩は印象派の画家たちに大きな影響を持ったようですね。
 ピサロは印象派展には1874年の第1回展からグループとして、最後の1886年に開催第8回、まで、毎回参加して、計8回の印象派展に欠かさず出品した、ただ一人の画家だそうです。
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自画像
 印象派の画家のなかでは最年長者であったピサロは、作品に現れているような温厚な性格だったようで、画家仲間の信望が厚く、ゴッホやセザンヌらの若い世代の画家を大いに励ましていたといわれます。気難しくて、人付き合いの悪かったセザンヌさえもピサロだけは師と仰ぎ、しばしば共同制作をしていたようです。晩年はパリ郊外のエラニーに住み、風景だけでなく、農村を舞台にした人物画をも多く描きました。
 
 
 

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