KURENI 主と共に歩む恵みの日々

2019年がやってきましたね〜。チャレンジの一年!!

わたしの好きな画家

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

ドガの絵のことなど

若いときに絵を描いているときに友人が言った。
 「ドガだ!西洋古典と印象派の近代を結びつけるのは彼だ。
 それに彼は色彩もすばらしいし、形体についても堅固な物を持っている!」
 
 少し青年らしい興奮か彼は言った。 確かにドガは西洋絵画の中心点にいるのかもしれませんね。
 
 
イメージ 1
 
 ドガのことを語る前に彼の生涯を一瞥しておきましょう。
 
彼は、1834年、パリの銀行家の息子として生まれました。
 「ドガ」(de Gas)という名前は、貴族風の苗字で、どうも、
 フランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワらしいといいます。
 でも、エドガー・ドガの生まれた頃にはあまり裕福ではなく、
 父親は沢山の借金を作って死んでいったらしいですね。
 ドガが沢山のパステル画を描いているのは、多く売って、借金を返さねばならなかった
 とも言われます。
  彼は1855年、21歳のときに、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入り、
 アングル派の画家ルイ・ラモートに師事したそうです。その頃、イタリアを訪れ、
 古典美術を研究に没頭。ドガは、普通、印象派の画家と見なされていますが、
 どうしてもその生涯に古典的な歩みを捨てることはできませんでした。
 
  
イメージ 2
  彼は1874年、40歳のとき、以来、印象派展に出品し 1862年、28歳の時に、
 マネと知り合ってからは印象派の画家グループに参加してきました。でも、光と影の
 印象派のようにはなれずに、ルネサンスの画家たちや、新古典派のアングルの影響を受けて
 自分の画風を作り上げてゆきます。「現代生活の古典画家」と自らを呼びました。
  彼の作品にはほとんどが室内風景です。それは彼が網膜に弱さがあって強い日光には
 さらせないという理由があったからだそうです。しかし、バレエの踊り子や浴女を題材にして、
 この世のものとも思えないような鮮やかな作品を描きました。
 
 
その素描力はすばらしいものですね。
 
イメージ 3
でも、そのすばらしい作品とは違って、彼は、ひどく気難しく、皮肉っぽく、多くの人との
 衝突が絶えなかったそうです。
 
イメージ 2
 しかし、そんな皮肉の人がこんなすばらしい作品をかけるのですかね・・・?
 
イメージ 4
  そのぐらい神経が細やかだったからこそ、このような作品を残せたのでしょうかね・・・。

レンブラントの光と影

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

青年期の自画像
窓辺に寄るヘンドリッキェ
「トゥルプ教授の解剖講義」
「エマオでのキリスト」
「晩年の自画像」

久しぶりで絵の世界にご一緒しましょう。
今回は、オランダの巨匠、レンブラントです。

彼の正式な名称は、レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)です。彼は1606年7月15日に生まれ、1669年10月4日、63歳で死にました。
17世紀を代表するオランダの画家で、油彩だけでなく、エッチングや銅版画やデッサンでも知られています。生涯、数多くの自画像を描いたことでも有名です。


レンブラントは1606年ライデンで生まれました。1631年、25歳のときにアムステルダムに移住。26歳のときに「トゥルプ教授の解剖講義」(1632年)で名声を得ました。37歳の時の「夜警」(1642年)も集団肖像画の傑作として知られています。

彼は、26歳のときにすでに名声を博し、浪費癖もあったようで、多額の借金を抱えてやがて返済不能に陥いりました(1656年)。最初の妻を37歳の時に亡くし、その後、愛人の女性から婚約不履行で訴えられるなど、生活上のトラブルが続きました。晩年は息子にも先立たれ、困窮のうちに亡くなり、共同墓地に葬られました。また、意外なことに、レンブラント自身は色盲であったとも言われています。

彼の作品は、光と影が劇的な効果を生み出しています。「光の画家」と呼ばれることもあります。

彼の作品の魅力はなんといっても、聖書的な主題です。「放蕩息子の帰還」や「ダビデを待つバテセバ」「エルサレム陥落を嘆くエレミヤ」「目をえぐられるサムソン」「十戒を砕くモーセ」などがたくさんありますが、ここでは、「エマオでのキリスト」をご紹介しましょう。


夕闇迫るエマオの宿での復活のキリストの顕現。意気消沈した2人の弟子にご自身を表したキリスト。そのパンを裂く様子で、主イエスだと彼らは悟りました。わたしたちも、聖餐や礼拝においてキリストの現臨に触れて生きる力が与えられるのですね!


「彼が物質欲にまみれていた半生から聖書一巻を手元に生きた晩年はまさしく私のレンブランド光線は『聖書』なんだ、と言っているように思えるのです。」(若き日のKaba先生)


レンブラントはわたしの大好きな画家の一人です。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

昔、田舎の家に「家の光」という月刊誌がありまして、
その最初の方のページに世界の名画が載っていました。
小学校6年生のときに、ゴッホの「自画像」か「スモモ畑」の
絵があって、その斬新な、絵の具を叩きつけるような
表現に幼いながら感動し、自分の持っていた水彩の絵の具を、そのまま
指でべたべたと塗りつけて、描きました。先生にほめられて自信を持ちました。
あの時の、人生に対する、チャレンジというか、冒険心と言うか、
自分の主張をしながら人生を創造するんだという感覚が、
青春の第一ページだったような気がします。

ゴッホの絵は糸杉とか燃えるようなひまわりが有名ですが、今日は
初期のころの絵をご紹介したいと思います。


ゴッホは後期印象派の代表的画家といわれます。現在は高い評価を得ていますが、
生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だけ。それでも生活していけたのは
弟テオドール(通称テオ)の援助があったからだそうです。

彼は、1853年3月30日にオランダ南部のズンデルトに生まれました。祖父、父共に敬虔な
牧師でした。彼には兄がいたのですが、数週間で死に、両親は、ヴィンセントに、その兄の面影を求め、この幼い時のゆがみが彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたようです。彼は性格が激しく、家族を含め、他者との接触が苦手で、一人で過ごす時が多かったようです。

1869年から美術商の伯父の手伝いをしたが、失恋により美術商への熱意を失い退職。
それから、牧師を目指し貧しい人々の為に、自らも貧民のような生活をしながら献身的
に奉仕。しかし、あまりにみすぼらしい有様に、1879年に伝道師の仮免許を剥奪され、
暫く炭坑に留まり伝道の補助を行ったそうです。全くゴッホらしいというかなんというか・・・。

1880年、26歳のときに、に画家となる事を決心し、ブリュッセルでデッサンの勉強を
始めました。1881年に実家に戻り、自宅に画室を作り、画家となりました。

後にゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をすることになりますが不和となり、
ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われ、自らの左の耳朶を切り取り、
女友達に送り付ける等奇行が目立ち、自らサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院。
1890年7月27日にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃で自殺を図り2日後に
死亡。37歳という短い生涯でした。
まじめで、一途で、情熱的で、自己主張の強い、そして、病気という厳しい37年の歩み・・・・。
彼の命の燃焼には、胸が痛くなるような、人生の不条理を感じますね・・・。
短い生涯の間に、彼は800点の油彩画を残しました。


「悲しみ」1882年
同棲していた女性クリスティーヌ(愛称シーン)がモデルと言われています。彼女はゴッホにあった時にすでに妊娠していたそうです。心優しい彼は娼婦のシーンを幸福にすることを使命と思いましたが、なしえませんでした。

1884年 「職工」 ヌエネン時代
暗い部屋で一日中、織物をしている当時の人々の生活を描いています。

「靴」1886年 パリにて
何気ないモチーフを深い視点で捉え、大胆に力強く描いていますね。

1888年アルル時代の自画像。

ゴッホの生涯は、激情と悲惨と優しさと病気とがまじりあった劇的な生涯でした。
今、聖書に生きていると思っている自分には、とても複雑な、割り切れない
思いを感じるところが多々あります。

最後に聖書の絵を掲げます。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

15分前の、今晩のNHK迷宮美術館と言うクイズ番組で、
少年期のピカソのデッサンとか、坂本繁二郎のことや青木繁との
ライバル意識などやっていて、こちらの書いたのと
かなり重なったりして不思議に感じました。
ゴッホもピカソも坂本繁二郎も、お母様の愛情に
支えられたようです。
お母さんの愛情は、世界で一番強いですね!

この絵はピカソの10代の絵だけれどモデルはお母さんでは
ないようですね。どうだったかな?しかし、描写も色彩も
すばらしいですね!

ボナールの色彩

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

わたしは西洋絵画の中では、ボナールが一番好きです。1970年のころ、よく東京でボナール展が開催されました。美術館で、彼の絵をずーッと見ていると、彼の色彩に、酩酊したような陶酔感を覚え、終わりのころはくらくらしました。

いくつかの画集を参考に彼の生涯を追ってみます。
ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867年10月3日 - 1947年1月23日)は、ナビ派に分類される19世紀〜20世紀のフランスの画家です。後期印象派とモダンアートの中間点に位置する画家です。ボナールは、日本美術の影響を強く受けたことから「日本的なナビ」と呼ばれました。また、室内情景などの身近な題材を好んで描いたことから、ヴュイヤールとともにアンティミスト(親密派)と呼ばれています。

1867年、陸軍省の役人の子として、パリ近郊フォントネー=オ=ローズに生まれました。1887年、大学の法学部に入学しましたが、そのかたわらアカデミー・ジュリアンに通い、ポール・セリュジエやモーリス・ドニと出会いました。1888年にはセリュジエを中心に、後にナビ派と呼ばれることになる画家グループを結成しました。「ナビ」は旧約聖書の「預言者」を示すヘブライ語で、時代を先取りすると言う意味を持たせたようです。ちなみに旧約聖書は「律法(トーラー)」「「預言者(ネーヴィーム)」「諸書(ケスビーム)」で成り立っています。ネーヴィームはナビの複数形です。
彼は1890年、日本美術展を見て感銘を受け、以後の作品には日本絵画の影響が見られると言われます。

1893年、後に妻となる女性、マリア・ブールサン(通称マルト)と出会いました。これ以降のボナールの作品に描かれる女性はほとんどがマルトをモデルにしているそうです。マルトという女性は、病弱な上に神経症の気味があり、また、異常なまでの入浴好きで、一日のかなりの時間を浴室で過ごしていたそうです。それで彼がマルトを描いた絵は、浴室の情景が多いのだそうです。しかし、それにしても彼の晩年のすばらしい浴槽の作品群はマルトとの出会いから引き出されたとは人生の不思議ですね。

ボナールの絵の平面的、装飾的な構成にはセザンヌの影響とともに日本絵画の影響と見られています。一部の作品に見られる極端に縦長の画面は東洋の掛軸の影響と考えられ、また人物やテーブルなどの主要なモチーフが画面の端で断ち切られた構図は、伝統的な西洋美術には見られないもので、浮世絵版画の影響と思われています。ボナールの画面は1900年頃からそれまでの茶系を主調とした地味なものから、暖色を主調にした華やかな色彩に変化します。光を浴びる裸婦」などはその記念碑的作品です。ボナールの華麗な色彩表現は、マチスと共に「色彩の魔術師」と呼ばれています。
転機となった作品は「光を浴びる裸婦」です。

ボナールは、病弱なマルトの転地療養のためもあり、1912年にはパリ西郊ヴェルノン、1925年には南仏ル・カネに家を構え、これらの土地でもっぱら庭の風景、室内情景、静物などの身近な題材を描きました。日常的な世界の中に、天国のような輝きと色彩の構成で陶酔を覚えるような画面を作り上げます。
1947年、ル・カネで地上の生涯を終えました。

 彼の色彩や洗練された感覚は、日本人に特に愛されているのではないでしょうか?
わたしが絵描きを目指していたころ、1970年前後でも、大きなボナール展が、4回あったのを覚えています。晩年のサーカスの馬とか花の咲いた木や坂の上からの町の風景などは、濃厚なる色彩の夢の世界へとわたしたちを誘いますね。
 わたしの一番好きな絵はボナールのものです。

最後の絵は、裸の自画像です。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
ps2**62000
ps2**62000
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

標準グループ

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事