牧師雑感

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自分を捨てる

自分を捨てる
マタイ 16:24−25 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

弟子への三つの命令
第一は「自分を捨てなさい」。「自分を捨てる」とは、「自分自身を否む」また「自己を否定する」ことです。その自分とは古い自分のことであり、自己中心の性質をもつ自分。「古い自分は十字架で死んだ。古い自分の興味、願い、欲望、それらとはもう何の関係もない」と、古い自分とは決別することです。

弟子への第二の命令は、「自分の十字架を負いなさい」。イエス様の、十字架は強烈な現実でした。十字架はローマに反逆する重罪人を死刑にする道具で、それは拷問と死のシンボルであり、公開処刑ということにおいて恥のシンボルでした。十字架刑が確定した者は、鞭打ちなどの拷問の後、自分がはりつけになる十字架の横棒を刑場までかつがせられた。皆の面前でさらし者になりながらである。それが「十字架を負う」ということである。十字架を負った時、死の行進が始まる。ミッションという映画は、その残酷さを極限まで演じている。
普通の場合、死にたくないので、むりやり負わせられる感がある。しかし、イエス様の命令は、自発的に負うと命じられている。文字通り、自分を捨てる覚悟がなければできない。生々しい十字架刑を目にしてきた当時の弟子たちにとって、聞きたくない命令でした。イエス様がここで語る十字架は、人生で被る困難や苦難のことではない。十字架とは肉体的ハンデキャップをもっていることだ、ではない。十字架とは切れやすい夫がいることだ、癇癪持ちの妻がいることだ、言うことを聞かない息子、娘がいることだ、でもない。十字架は会社経営がうまくいっていないことだ、でもない。十字架を負うとは、自発的意志から、キリストのために犠牲を払うことである。それはかたちとして恥を負うこと、非難されること、安全を失うこと、富を失うこと、仕事を失うこと、究極においては殉教という結果にもなろう。しかし、まだ負うべき十字架はある。それは罪赦されるための十字架ではなくて、キリストのために負う十字架である。これは、自分を捨てるのを拒み、自己保身に走りやすい私たちにとってのチャレンジです。

弟子への第三の命令は、服従である。「わたしについてきなさい」は「わたしに従いなさい」とも訳せる。従うことへの要求である。先の「自分を捨て」と「自分の十字架を負って」の二つは、きっぱりとした決断を要求する命令形となっている。それに対して、「わたしについてきなさい」は、「ずっとついてきなさい」「従い続けなさい」という、継続の命令形となっている。忠誠、服従を継続すること。これが必要です。
キリストは私たちの前を歩み、十字架を負っている。それは私たちの罪のために。また私たちの模範として。そしてその御苦しみ、流される血は、私たちへの愛の証。キリストの愛のうちにとどまるために、自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従うポジションを選び取る以外にない。この場を離れたら、キリストを見失う。キリストのそば近くいることができない。自分のいのちを失うことなる。なぜなら、キリストがまことのいのちだからである。迷い続けるのではなく、決断して、自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従い続けたい。


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