ローマ書10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
アドナイ・チィドケヌ=主は正義=エレミヤ書23:6その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。
創世記15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
ローマ書3:21-28 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
ローマ 4:2-8 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4:21−25 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
8:33−4 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
まだまだ、たくさんの聖書の個所が、イエス・キリストの救いをアーメンと信じれば、義義とされることを教えています。義とされたから正しい行いに歩むことができる。今日も神によって義とされた、義の子として、明るく爽やかな笑顔で活躍を祈ります。アーメン。