三崎信吉 大和路を行く

秋雨に 濡れけむ君を 待ちわびて・・・・

歴史

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女帝の時代(2)

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持統天皇は大津皇子を無実の罪で自害に追い込んでいたため、すぐに草壁皇子を即位させると朝廷内に不満の声が上がると考え、それを避けるために自らが即位したのだといわれています。しかし、息子は大津皇子の死から3年後に即位することなくこの世を去ってしまいます。そして、これがさらなる悲劇を生む複線となるのです。持統天皇は強力なリーダーシップを発揮し、日本は律令国家へと突き進みます。しかし、ここで、この後の歴史にかかわるもう独りの重要人物が登場します。それが、天智天皇の相棒藤原鎌足の息子藤原不比等です。
 ところが、藤原は天智天皇の臣下であり反天武のはずです、それがなぜ天武朝の重臣になりえたのでしょうか。まず一つは壬申の乱では藤原氏は当然天智天皇(大友皇子)側につくはずだったのですが、この時(672年)には鎌足はすでに亡く、また不比等も13歳であったために処罰されなかったそうです。ただ、中臣氏の多くは処罰され宮中からは排除されていました。ですから、不比等は下級官人からスタートするのです。しかし、もう一つが持統天皇が天智天皇の娘であるということです。つまり持統天皇-藤原不比等のコンビは天智-鎌足コンビの再来となるわけです。
 その不比等はみるみるうちに出世し、宮中の中心的存在になっていきます。それは持統天皇が天武天皇の皇后であると同時に天智天皇の娘だということと関係があるのか、あるいは持統天皇と不比等の間にただならぬ関係が・・・。とまー勘ぐりたくもなります。

 さて持統天皇は草壁皇子の忘れ形見である軽皇子が15歳になると譲位し軽皇子を即位させます。これが文武天皇です。しかし彼も僅か在位10年でこの世を去り、後に続いたのが文武天皇の母である元明天皇と文武天皇の妹の元正天皇です。彼女たちは皇太子である首皇子(聖武天皇)即位まで中継ぎとして即位したものと思われます。しかし元正天皇の時代に不比等は亡くなり、その後に宮中で力を発揮しだしたのが、壬申の乱で活躍した天武の第一子高市皇子の息子長屋王でした。しかし、藤原不比等の四人の息子達はまだ若く、彼に遅れをとったことが面白なかったようで、長屋王と対立していきます。そして聖武天皇が即位したときに、またもや悲劇が起こります、それが左大臣長屋王の変です。長屋王の変は長屋王を藤原氏の讒言により聖武天皇への謀反の罪で詰問し自害へと追い込んだ事件で、これにより藤原氏の血を引く孝謙天皇即位が可能となりました。
 
 
 神亀六年に左大臣長屋王が天皇から自害を命じられた後に、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)のが詠んだ歌
 大皇(おほきみ)の 命恐み 大殯(おほあらき)の
          時にはあらねど 雲隠り座(ま)す(巻三 四四一)
          
 (天皇の命令を尊んで殯の宮におまつりするときではないのに雲にお隠れになった)

 これは謀反の嫌疑をかけられ聖武天皇から死を賜った長屋王に大殯(おおあらき)つまり大きな殯(死者を墳墓が出来るまでの間祭る宮のこと)にまつるときでもないのに、雲に隠れ、すなわちお亡くなりになられます。とうたったもので、
 
 「あなたは何も悪くないのに、天皇の命令を重く受け止め 自らの命を絶つのですね
  嘆かわしいことです。あなたは何も悪くないのに」
  
といった意味でしょうか?この歌からも長屋王が無実であっただろうことが窺えます。
 

女帝の時代

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歴代天皇百二十五代のうち女性天皇は10代8人(重祚したものが2名)もいます。即位順には聖徳太子の活躍した時代の推古天皇(33代)、大化の改新(乙巳の変)当時の皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代 皇極天皇の重祚)、天武天皇の妻で天智天皇の娘である持統天皇(41代)、持統天皇とは異母姉妹で息子嫁になる元明天皇(43代)、元明天皇の娘で文武天皇の姉であり、前天皇の皇后ではなく未婚で天皇になった元正天皇(44代)、そしてはじめての女性皇太子である孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代 孝謙天皇の重祚)、と続き、江戸時代に明正天皇(109代)、後桜町天皇(117代)二人が女性天皇となりました。ここで注目したいのは、万葉の時代つまり7世紀から8世紀の約200年間に8代6人もの女性天皇が即位したことです。昨年愛子内親王の即位を可能にするために審議をするといい物議をかもしましたが、実10%近くの天皇が女性だったのです。しかし、なぜ万葉の時代になぜこうも多くの女性天皇が即位したのでしょうか?
私は歴史学者ではないので、よくわからないのですが、遠山美都男著「壬申の乱」によると皇位継承者が多く居り又その資格が伯仲しているようなときに、それぞれの皇子を後押しする豪族同士の衝突を避けるという意味で即位したと考えられています。確かに推古天皇や皇極(斉明)天皇などの場合はこれにあたります。ただ、推古天皇の場合は蘇我氏の思惑が強く働いており、また、蘇我入鹿に聖徳太子の息子山背大兄王が自害に追い込まれ、またその蘇我入鹿と父蝦夷は皇極天皇の息子中大兄王(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)に暗殺され、権力闘争が絶えません。この後、天智天皇即位して、中国式の中央集権国家を目指すのですが、皇位継承問題がまたもや起こります。それは天智天皇の後を引き継いだのが息子の大友皇子(弘文天皇)だったのですが、天智天皇の弟大海皇子(後の天武天皇)がこれに謀反を起こしたのが日本古代史最大の内戦「壬申の乱」でした。このとき活躍するのが大海皇子の第一子である高市皇子です。大海皇子は彼らの活躍で勝利を収め、天武天皇として即位します。そして、天武朝に天皇の権力は最大となったようです。しかし天武天皇が崩御するとまたもや皇位継承問題が起こります。そして、万葉集ファンにとっては最大の悲劇である「大津皇子謀反事件」が起こるのです。天武天皇には先ほどの高市皇子のほかにもう独り大津皇子という文武両道の優れた皇子がいました。かれは万葉集に優れた歌を残しており、その才能を歌から垣間見ることができます。しかし、天武天皇が崩御したのちすぐに、天武天皇の皇后で大津皇子の実の叔母でもある持統天皇に謀反の濡れ衣を着せられ自害へと追い込まれます。そして、伊勢神宮の斎宮の任を解かれ飛鳥に戻ってきた大津皇子の姉大伯皇女は大津が葬られている二上山をみて読んだとされる歌が

 うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を弟背(いろせ)と吾(あ)が見む。
                              (巻一 165)
(この世に独り生きてる私は 明日からあの二上山を愛おしい弟と思い眺めましょう)                              
です。(続く)
写真は大津皇子が葬られたという二上山です。

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