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積み上げた
ガレキの
崩れるのが
楽しくて
ニヒルな笑い浮かべて
元の木阿弥
重ね合わせた
体の
まどろむのが
可笑しくて
性(さが)のままに果てて
いつもの営み
果てしない空は
見上げ果てぬ空
見果てぬ夢に答えたりはしない
広がる大地は
歩くほどに一回りして
歩き続けることを咎(とが)めはしない
6畳一間のアパートで
あてもなくギターかき鳴らす
このねじれが
いつかの次元に吸い込まれて
生きることを望んでいる
だから書くことを思い出した
私から歩き出す
それでもなお切り離せぬ体を
引きずりながら
いつか、そして今愛せる
この刹那に是(ぜ)という
*電車で思いついた言葉遊びに
今の気持ちを乗せてみた
書くことをあきらめることを
今一度思い直した
このまま歌にするには
なんとなく重たいんだけども
(というか修辞に作為が見えすぎなので
俺もこういう歌は好きじゃないし)
試作品として成り立たせるにはあまりにも安易で(推敲もしてないから当然と言えば当然)
どうしてもリズムから逃れられないから
意味が軽薄になってしまう
ただ必ずしもそれは、個人的には嫌いじゃないし
それはそれで意味あることだと考えている
特に朗読する際にはそれが重要だと思う
今月号の『詩と思想』に朗読が特集されていたけども
物理的に音になることから現代詩が遠ざかっていくことは
なんとなく人間そのものから離れていくように思えてならない
卒論が老子であることもあって
最近中国文学史、思想史を少し勉強して
唐代までに伝統的な韻律を重視した詩の技法は完成されたという
徐徐に文学的関心が散文に移っていったのだそうだ
そして20世紀初頭には口語文学(中国では白話という)の大革命があった
今日宮本輝の『流転の海』を読んでいて
やっぱり人間臭さが俺には必要だ
みたいなことを思った
まあ単純に宮本作品を読んでほっとしたと言うのが正直なとこ
卒論で老子を選んではみたものの
なんとなく人間的土壌をつくりたい
というところを本能的に感じ取ったのかな
結局老子に語られている人間あり方というのは
a kind ofから逃れられないから
それがいくら普遍性を志向していたとしても。
その前にさっさと職を見つけろというのが
喫緊の課題なのですが
後ろ髪をひかれすぎて
結局舞い戻ってしまう
といった感じ
世間知らずが御託並べて
と考える自分もいるんだけど
とまあ、なやんどります
脈絡のない今日のログでした
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