偏竹林史館

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死者の目でこの世を見る・井上ひさし
 
二〇世紀が終わるころ、しきりに言われたのが「二〇世紀は戦争の時代」ということだった。来るべき二一世紀はそうではない時代になってほしいという願いがそこには込められていた。しかし、現実はそうではなかった。冷戦は収束したものの、民族対立と宗教対立が複雑に絡み合い、紛争と戦争は収まるどころか、ますます燃え盛って止まることを知らない様相を呈している。
井上ひさしが生きた時代は、いわばこの二〇世紀から二一世紀にかけての混迷の時代である。いま、その井上の残した戯曲を思い起こすと、彼が作品を通じて語りかけてきた思い、なにを願い、作品を書き続けてきたのかがより鮮明なものになる。ことに3・11以降においては、である。
たとえば、『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』はいうに及ばず、「昭和庶民伝」三部作(『きらめく星座』『闇に咲く花』『雪やこんこん』)、「東京裁判」三部作(『夢の裂け目』『夢の泪』『夢のかさぶた』)、さらには最晩年の作となった『ムサシ』にしても、そこに通底するのは、戦争の空しさ、悲しさ、暴力と報復に対する怒りと痛切な思いである。しかも、それを眺める井上の目は、けっして情緒的なものではなかった。「東京裁判」三部作に流れるテーマは、被害者でもあり加害者でもある「庶民」、さらには昭和天皇の戦争責任にも及ぶ冷めた眼差しだった。現に、井上は、
「あの戦争は『強盗どもの喧嘩』でしょう。英、米、仏といった強盗がアジアを縄張りにして荒らし回っていた。そこへ新入りの強盗が登場して、『ここは全部、おれの縄張りだ。出て行け』と云った。そこで大喧嘩。東京裁判は勝った強盗が負けた強盗にお灸を据えただけのことで、誰も強盗行為そのものを裁いちゃいないのです。強盗どもと、その行為を裁くことができるのは、彼らに荒らされたアジアの人々と、国民ですが、さてその国民にも裁く資格があるかどうか。いったい誰が責任を取るべきなのか。やっぱり庶民にも戦争責任はあるんです。」(「別冊文藝春秋」182号)
と語っている。
井上の、この双方向的見方は、あの戦争を単なる一方的な責任論で終わらせる限り、本当の戦後にはならない、という思いあってのものだ。戦争はそれを行なった権力者にも、それを許し、流れを受け入れた庶民にもある。ここのところを誰もが自覚しなければ、あの悲惨な戦争のとらえ返しと本当の自省はありえない。
言い換えれば、庶民の政治的無関心が呼び込む「戦争体験」の空洞化現象に対する強い危機感が晩年の井上にあったということができる。そして、この思いの底に置かれていたのが、
「ぼくの作品は小説も芝居もそうですけど、死んだ人に可哀相だったねっていうのが多い。その気持ちを自分なりに受け継いで、その時どう悔しかったか、というのを表現して、慰める。御霊信仰みたいなもんですね」(『劇談 現代演劇の潮流』)
という、「思い残し切符」を手に死者となった人たちへの切なる思いだったのである。その思いは当然のことながら現在へ向けてのメッセージとなる。
死者の目でこの世を見る。井上の作品の根底にあるのはこの目だ。
そういえば、彼の作品には、『イーハトーボの劇列車』はいうに及ばず、『頭痛肩こり樋口一葉』『父と暮せば』『紙屋町さくらホテル』など多くの作品に死者たちが登場する。もちろん、そこに登場する死者たちは必ずしも戦争の犠牲者ばかりではない。ないが、井上は、それらの死者の巫女となってその思いを伝え続けたといっても過言ではない。いや、死者といえば、井上の作家としてのそもそもの始まりからして死者は存在していた。それは、あの『ひょっこりひょうたん島』だ。
意外に知られていないが、『ひょっこりひょうたん島』は、じつは死者の世界なのである。「まさか」と思う人も多いだろうが、そうではないのだ。
『ひょっこりひょうたん島』は、遠足に出かけたサンデー先生と子どもたちが火山の噴火に遭遇、島が流れ出し、そこへいろんな人物たちが漂流し、さまざまな出来事が展開するというものだった。が、本当は、冒頭の噴火で全員が亡くなっていたのである。つまり、『ひょっこりひょうたん島』は、死者のつむぐ物語世界だったのだ。お話の中に「ご詠歌」や「四国霊場物語」が出てくるのもそのためである。
しかし、いまになってみれば、この物語は漂流する日本そのものにも見えてくる。地震と原発を乗せて漂う迷走日本。そして、徐々に高まる武力行使への欲求。井上の目は、生前すでにいまを見通し、虚構の平和日本の中に潜む内なる敵との「孤独な戦い」を行なっていたのかもしれない。
 
 

オンシアター自由劇場

「自由劇場」抄 レンとサムとデコがいた
 
 何事であれ、煎じ詰めれば、人と人との出会いということになる。出会いが熱を放ち、大きなエネルギーとなる。もちろん、それが逆に作用することもある。演劇もその例外ではない。いや、むしろその最たるものといっていいかもしれない。モスクワ芸術座がそうだった。ダンチェンコとスタニスラフスキーの出会いがなければモスクワ芸術座は生まれなかった。おなじく、我が国において小山内薫と二代目市川左団次が出会わなかったなら、一九〇九年に創立された「自由劇場」も生まれることはなかったろう。これは、一九六六年に創立、一九九六年に解散した「自由劇場」もまた同じである。高校時代からの友人であるレン(斎藤憐)とサム(串田和美)がいて俳優座養成所にはデコ(吉田日出子)がいた。おそらく、この三人の出会いがなかったら、紆余曲折を経て三十年の長きに渡る「自由劇場」の歴史はなかったろう。
 ところで、この「自由劇場」という名、いまでは誰もが国産のものと思っているようだが、出自は日本のものではない。もともとは、フランスのアンドレ・アントワーヌ(一八五八〜一九四三)が一八八七年にパリに創設した劇団名である。それを日本で最初に使ったのが小山内薫と二代目市川左団次だった。ちなみに、この時の旗揚げ公演は、イプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(森鴎外訳)。それまで「正劇」と銘打ちながら翻案ものの域を出なかった翻訳劇全盛の演劇界に一石を投じたのがほかならぬ自由劇場だった。それも、リアリズム演劇の始祖と目されるイプセンの代表作を本格的に上演しようという野心的な試みが行われたのである。もっとも、舞台そのものは、いまだ女優のいないこともあって女形を使うなど、識者にとってはいまイチの面もあったものの、その若々しい情熱に満ちた舞台は多くの観客を魅了し、その後の新劇史に大きな影響を与えたことは誰しもが知るところだろう。 
 ただし、この日本における初代「自由劇場」は諸々の事情により一九一九年に解散。その後、しばらくこの名を名乗る劇団はなかった。しかし、一九六〇年代初頭に再び「自由劇場」の名が復活する。程島武夫の「劇団自由劇場」だ。だが、この劇団の活動期間は短く、やがて「転形劇場」へと発展解消することになる。そして、一九六六年に六本木に開場したのが本稿の主役「アンダーグラウンド自由劇場」(前期)なのである。
 創立メンバーは、俳優座養成所十四期と十五期生の佐藤信、串田和美、清水紘治、樋浦勉、吉田日出子、河内美子、地井武男、古川義範、溝口舜亮、村井国夫、佐藤博、斎藤憐の十二名に観世栄夫が加わっての総勢十三名。いまから思えば、錚々たる面々である。場所は首都高速に面したガラス屋の地下室。客席わずか六十ほどの小劇場だったが、とにもかくにも自前の劇場を持ったという嬉しさは、何者にも変えがたいものだった。創立メンバーの串田は後に、「用がない時は、表通りに面したその地下室への入り口にイスを置いて座り、道行く人をながめて、ここが僕らの劇場です、よろしく! てな気分」(「幕があがる」)だったと回想している。
 劇団名は、「文字通り地下室という意味もあるけれど、同時に地下活動という意味もあって、既成の演劇に対して新しい演劇を打ち出していこうという自分達の気分にぴったりに思えた」(同)ことから命名されたという。もちろん、アントワーヌや小山内らのことも知ってのことである。
 とにかく狭い。幕もない。客席と舞台とが超接近し、客席すべてがかぶりつき。役者の顔はおろか汗までが丸見え。逆にいえば観客の顔だって同じである。そんな空間で芝居をしようとすれば、これはもう既成のものではない自分達の表現法を探さなければならない。
 旗揚げ公演は佐藤信作、観世栄夫演出、朝倉摂美術によるギリシャ悲劇を元にした『イネメス・地下鉄』だった。観客は、十四日間の上演で三百数人。入りはよくなかったが、この狭い空間での舞台は、他の新劇の舞台ではけっして味わえない臨場感溢れるものだった。以後、「ヘンリイ四世」「ヒロシマのオイディプース」「皇帝ジョウンズ」「あたしのビートルズ」と立て続けに五本の作品を上演。次第に演劇界の脚光を浴びることになる。
 劇作家・斎藤憐が登場するのはこの直後だ。六七年十二月、当時人気絶頂の白土三平の劇画「赤目」の世界と現実とをクロスオーバーさせた処女作「赤目」が観世栄夫の演出で上演され、一躍注目されたのである。いや、注目されたのは斎藤だけではない。主演の吉田日出子は、二役を演じたこの舞台と「わたしのビートルズ」での演技で紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。そして、斎藤の第二作、イリヤ・エレンブルグの同名の小説を元にした「トラストDE」が六九年に上演されることになるのだが、その前に、「自由劇場」にとって大きな岐路となる出来事が起きている。
 というのは、「自由劇場」、発見の会、六月劇場が地方公演のための連絡組織「演劇センター68/69」を結成するという動きがあり、「トラストDE」は、山本清多の「バーディ・バーディ」、佐藤信の「鼠小僧次郎吉」とともに、二週交替で、自由劇場で上演されることになったのである。
 六九年といえば、いうまでもなく七〇年安保闘争、そしてベトナム反戦、大学闘争と世情騒然としていた時期だ。その熱い政治の季節の風に乗り演劇センターは、黒テントをあつらえ、既成の演劇鑑賞組織にノンを突き付けたのである。その地方公演用に作られたのが、ペーター・ヴァイスの「マラー/サド」をモチーフにした「翼を燃やす天使たちの舞踏」(作:佐藤信、斎藤憐、山本清多、加藤直)。演劇センターは、これを持って七〇年九月から全国公演の旅に出た。思えば、これが分岐点。旅が終わった時点で、「自由劇場」はいったん解散することになってしまう。
 簡単にいえば、テントでの活動を続ける者と、そうでない者とに別れてしまったのである。テントに残った者達は「黒色テント68/71」を名乗り、テントを離れた草野大悟、吉田日出子、串田和美、斎藤憐たちはフリーとなる。ただ、串田だけが残された劇場に戻り、やがてそこに吉田が戻り、プロデュース公演などを続ける。再び劇団を組み、新たに「オンシアター自由劇場」(後期)を名乗ったのは七五年四月の「遥かなる鼓笛」以後のことだ。その間、斎藤はテレビの仕事をし、芝居からはしばらく遠ざかる。その斎藤が、作者として串田たちと再び「自由劇場」で作家として仕事をするようになったのは、六六年の劇場開場から数えて十五年目の一九八〇年のことである。それが、小劇場演劇最大のヒット作「上海バンスキング」だった。
 初日の観客はわずか三十数名。しかし、舞台が始まるやいなや、観客はたちまちスイングするジャズと疾走する歴史の渦に巻き込まれ、吉田日出子演ずるマドンナやシロー、バクマツの有為転変に一喜一憂。舞台が終わった時には、はるかなる時間旅行から舞い戻ったような気分になったものである。
 第一稿を、斎藤はわずか三日で書き上げたというが、それは斎藤自身のたまりにたまっていた演劇的思いの発露でもあったろう。しかもそこには、成蹊高校演劇部時代、吉祥寺でダンモを一緒に聞いたサムがいて、「歌姫」デコがいた。さらには、楽器をこなす俳優達がいた。音楽と芝居とがこんなにも馴染み、そしてその底に重いメッセージを抱えた舞台はそうあるものではない。斎藤憐は、この作品で岸田戯曲賞を、自由劇場は紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞した。
 劇作家、斎藤憐の復活である。以後、斎藤は矢継ぎ早に、戦争や政治に翻弄された庶民や抵抗者たちを主人公にした作品を、「自由劇場」や、さまざまな劇団に提供することになる。「黄昏のボードビル」「クスコ」「バーレスク1931」「グレイクリスマス」「東京行進曲」「朝焼けのマンハッタン」……。さらには、劇作家協会を立ち上げ、かと思えばこの国の近代の闇を鋭く突く名エッセイ集「昭和名せりふ伝」までも上梓する。
 「一点突破全面展開」とは古いことばだが、まさにそう思わせる活躍ぶりなのである。なかでも、「上海バンスキング」は、繰り返し上演を重ね、その上演回数は「オンシアター自由劇場」が解散する一九九四年夏の最終公演までに四百三十五回を数えている。挿入歌はCD化され、二度までも映画化され、写真集も出た。まさに一世風靡。この間、「自由劇場」も波に乗り、六本木を離れ博品館劇場、さらには一九八九年に開場した渋谷のシアターコクーン(芸術監督・串田和美)に本拠地を移し、一九九六年のファイナル公演を迎えるまで数多くのヒット作を生み出すことになる。そして、その最後を飾ったのも、斎藤憐の「黄昏のボードビル」だった。
 劇団の解散に際して斎藤は、「劇団はその創立メンバーが年を取りへたばった時解散しておかないと、残された俳優の集まりは、目標を失った廃船となって漂流することになる」(「戦後演劇の終焉」)と書いた。小劇場のみならず新劇も含め、この三十年の間に多くの俳優難民、廃船となりつつある劇団を見つめて来た斎藤ならではの言葉だろう。
 鮮やかな解散。思えば、この劇団からはじつに多くの演劇人が巣立っている。初期創立同人はもちろんのこと、後期「自由劇場」からは、大森博、真名古啓治、小日向文世、笹野高史、余貴美子が、さらには研究生から柄本明、佐藤B作など個性豊かな役者たちを輩出している。これもまた、イデオロギーに支配されない自由闊達な表現、観客を刺激し、楽しませるエンターテインメントを志向した「自由劇場」ならではのことだろう。
 〇三年、サムはまつもと市民芸術館芸術監督に就任、毎年のように話題作を提供し、再びフリーとなったデコは、映画や舞台で活躍。レンは「春、忍び難きを」(〇六年)で紀伊国屋演劇賞個人賞と鶴屋南北賞を受賞するなど相変わらずの健筆を奮っている。
 
追記 それにしても、この「自由劇場」という名ほど、不思議な生命力を持つものもない。二〇世紀後半に消えたこの名は、二一世紀早々に再び蘇る。創立五〇周年を迎えた劇団四季が新たに劇場を浜松町に建設、「自由劇場」の名を掲げたのである。
 日本で最初に「自由劇場」を名乗ったのは二代目市川左団次と小山内薫であることはすでに述べた。その左団次の甥が浅利慶太。しかも浅利の父は小山内とともに築地小劇場を立ち上げた創立同人だった。約一〇〇年の時を経て、「自由劇場」の名は再びその最初期の縁者の手に戻ったことになる。染め替えて後日のお目見得。まさに「不連続の連続」という歴史の綾を思わないわけにはいかない。
 
◆NHKの演劇番組打ち切りに抗議する人は下記アドレスに投稿しよう!
「NHKふれあいセンター」 https://cgi2.nhk.or.jp/css/mailform/mail_form.cgi
 
日露演劇会議 http://www.jrtf.jp/
 
4.劇団四季 
劇団四季は、1953年、慶応大学在学中の浅利慶太、日下武史、藤野節子ら10名によって「今世紀を代表するフランスの劇作家ジャン・ジロドゥとジャン・アヌイの作品の上演を目指して」結成された。平均年齢21歳という若い劇団だった。旗揚げ公演は翌54年1月。アヌイの「アルデール又は聖女」。ついで6月にアヌイの「アンチゴーヌ」、12月にジロドゥの「間奏曲」を上演し注目を浴びた。その後、「ハムレット」、ラシーヌの「アンドロマック」、ピーター・シェーファーの「エクウス」「エレファントマン」など次第にレパートリーを広げた。しかし、なんといってもターニングポイントとなったのは、ミュージカルへ路線への転換だろう。
1964年、四季はブロードウエー・ミュージカル「ウェストサイド物語」(日生劇場)の来日公演を機に、歌・踊り・演技の強化に乗り出し、72年に「アプローズ」でミュージカル上演に挑戦、74年には「ウェストサイド物語」を、79年「コーラスライン」を上演し、「ミュージカル劇団四季」のイメージを鮮明にした。83年には「キャッツ」の本格ロングランを成功させ、さらに制作費14億をかけた「オペラ座の怪人」公演にも成功した。いまや、劇団四季は、全国8ヵ所に専用劇場を持つ、東宝・松竹をもしのぐわが国最大のパフォーミング・アーツ・カンパニーとなっている。
2003年には、四季劇場「春」「秋」(写真)の隣に「自由劇場」を建築・開場。ストレートプレーを中心に上演するなど、経済と芸術の「二元の道」を堅実に実践している。いまも、かつても「演劇では食えない」というのが常識だが、浅利はその常識を覆しつつあるのだ。ちなみに、浅利慶太は、築地小劇場の創立メンバーで、後に松竹に移り2代目市川左団次の訪ソ公演にも尽力した浅利鶴雄の子息で、2代目左団次は大叔父にあたる。(つづく)
 
3.民芸
民芸は、最初、1947年に「民衆芸術劇場」として結成されるが、49年にいったん解散、50年に「劇団民芸」として再出発している。このため前者を第1次民芸という。創立者は、滝沢修、宇野重吉、北林谷栄、岡倉士朗、森雅之、清水将夫、山口淑子などである。前記「第1次民芸」の出発となった演目は、戦後再建された「新協劇団」(現在の東京芸術座)との合同公演「破戒」(島崎藤村作)。第2次の旗揚げ公演は、チェーホフの「かもめ」だった。以後、民芸はアンサンブルを基調に、武者小路実篤の「その妹」、三好十郎の「炎の人」、A・ミラーの「セールスマンの死」、「アンネの日記」などを上演、劇団経営の基盤を固め、3大新劇団の1つに数えられる存在となった。1954年には、俳優の組織的養成を行うために「劇団民芸・水品演劇研究所」を設立、奈良岡朋子などを輩出している(1958年廃止)。
1988年に宇野重吉ががんに倒れ、2000年に滝沢修が死去するという不幸に見舞われたが、現在は大滝秀治、奈良岡朋子を中心に劇団活動を行っている。
以上の、文学座・俳優座・民芸を指して3大新劇団というが、これらはいってみれば、築地小劇場などの新劇運動やプロレタリア演劇の流れから生まれた劇団である。しかし、1954年になって、学生劇団出身の有力な劇団が登場してくる。それが劇団四季だ。(つづく)
 
2.俳優座
戦前に結成、上演活動を行っていた文学座は、いってみれば戦後演劇を担った最長老劇団ということになるが、じつは戦前に結成された劇団がもう1つある。1944年に千田是也、青山杉作、東山千栄子、岸輝子、東野英治郎、小沢栄太郎らによって創立された俳優座である。俳優座は、「過去の新劇運動を反省し、俳優術の再検討を通じて演劇表現のアカデミズムを確立」することを目指し、1946年3月、第1回公演としてゴーゴリの「検察官」を東京劇場で上演、戦後のスタートを切った。以後、俳優座は、真船豊の「中橋公館」、太宰治「春の枯葉」、モリエール「賢女気質」などを矢継ぎ早に上演する一方、「俳優座こどもの劇場」を発足させ、「森は生きている」「りこうな嫁さん」を上演するなど多角的な活動を行った。
1949年」には、「俳優座演劇研究所」を設立、その付属機関として「俳優養成所」を設立。演劇人の育成に着手し、ここから多くの優れた人材を送り出した。そして、ここから育った演劇人によって多くの劇団が作り出されることになる。たとえば、青年座、仲間、新人会(現・朋友、俳小など)、三期会(現・東京演劇アンサンブル)、同人会、青俳、自由劇場などだ。俳優養成所は、昭和後半を担う演劇人の揺籃の場所となったのである。もっとも、この養成所は、途中で閉鎖。養成の場は、玉川大学や桐朋学園に移されることになる。
一方、1954年には、新劇団中で初めての自前の劇場「俳優座劇場」を六本木に完成させた。これは、戦後の上演活動拠点だった三越劇場が1952年以降使用できなくなったことを契機に、自主運営による自前の劇場の必要性を痛感したことによる。その費用作りにため、千田を始め、主力俳優が率先、映画出演を行った。杮落としはアリストパネスの「女の平和」。客席数は400だった。80年に改築。現在の客席数は300となっている。(つづく)
 

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