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私は小学3〜4年生の頃に願いがかなうコツを発見した。当時は純粋に神様を信じていたので、家の神棚にお願い事をして、願い事が聞き入れられたと勘違いしていた。聞き入れられた時と聞き入れられなかった時のちがいに気づき、聞き入れられるように日々過ごしたのだ。ほとんどの事は実現できた。所詮小学校中学年のお願い事だから、小さな願い事ばかりで欲張った願い事はひとつもなかった。聞き入れられなかった願い事の共通点は、可能性が極めて低い願い事の場合、簡単であるはずのコツが難しかった。どうしても願い事を聞き入れられたかった時に、自分の後ろめたい事を解決するという交換条件を提示したところ、その願い事は偶然か必然かわからないがかなえられたので、私が約束を果たさなければならなかったのに、後ろめたい事を解決するという黙っていれば自分しか知らないことをもし失敗した場合、自分が悪いとわざわざ知らしめる事になるので怖くてできなかった。それから私は神棚の前に素直な気持ちで座って手を合わせることができなくなった。
親が離婚して母親とともに引っ越してからは、我が家には神棚がなくなった。母親は有名な新興宗教団体の信者であったので、神棚は祭らないそうだ。離婚する前も父親と母親ともども新興宗教団体の活動に参加していたので、離婚してからは神棚は祭らないというのはおかしいと思い、なぜ神棚があったのか聞いてみると、あれは新築後の世間体を考えて神棚を飾っていただけで中身は空だったという。私は愕然とした。小学生の頃のあの願い事はなぜかなえられ続けたのか母親に聞いてみた。母親は仏壇のご本尊様が代わりにかなえてくれたのではないかと首をかしげて言う。私は納得できないままそうかもしれないと考えるしかなかった。
高校2年生の冬に神の声のようなものを聞いたというか体験した。古文の授業中のことだった。ある意味催眠状態のようなものであったと思うが、その状態の真っ只中でたくさんの真理や道理やいろいろなことが確信とともに次々と閃いていく感じだ。これが悟りかと驚きながらも、体がガタガタと震えだした。なぜか心の中で、お金で苦労したいからまだ悟りたくないという感情がこみ上げてきて、落ち着こうと必死になっていると、震えが少しずつ止まる中で閃いたいろいろなことが次々と忘れられていく。あせってできるだけ記憶にとどめようと努力できたものは2つだけだった。3つ覚えていたはずだが1つはすぐ後で記憶から消えてしまった。残った2つのうち1つは「善悪は両方必要である」ということと「男女は平等である」という内容でなぜか確信とともに記憶に残っていた。直後であれば理由も説明できたが、興奮していたために感情はかき乱されていて、次の体育の授業でクラスメートの球技の試合を観戦中に友人ふたりに夢中でこの体験を話した。なぜ「善悪は両方必要である」のかは哲学的過ぎて、倫理に反するので戸惑いが残る。
25歳になって、借金の返済のため自営業を始めたところ、協力者に裏切られて多額の借金を残したため、生命保険で返済しようと自殺を試み、なぜか失敗して私は生きている。自殺の決意の前に数ヶ月に渡り、試験的に親の新興宗教団体の仏壇を熱心に拝んでみた。その新興宗教団体の世間での評判は悪かったので、珍しく誠心誠意であったと思う。自殺決行に至ったわけであるから、もちろん願い事はかなえられなかったのだ。死に追いやられる事態に陥っても救ってくれない偶像は意味がないという結論と、小学生の頃の願い事がかなえられた際の法則性を振り返り、願い事がかなえられるかどうかは自分自身にあると結論づけた。
今の私は無宗教であるが、無神論とも言い切れず、有神論とも言い切れない。神は自然法則そのものという実感がある。人が神を人格化するのは、そのほうがイメージしやすいからだろう。自然法則に善悪はない。天災で人がなくなっても、なぜその人が死ななければならなかったのかに理由はない。願い事がかなうかかなわないかも自然法則なので、世の中で悪人が幸せに暮らせるのも、願い事の実現に自然法則が働くので善悪が関係ないからなのだ。自然災害はある程度防ぐ努力ができる。被害を最小限にすることができる。願い事もかなえられる自然法則を知れば、願い事が実現できるよう努力することができる。私に今、できること、今、求められていることは、その自然法則を世に知らしめることだと信じている。そのために、オカルト的な提示はしたくない。科学的な考察を試みたセンセーショナルな内容にして、より多くの人に知ってもらいたい。なぜ不幸なのか、なぜ不平等なのか、どうしたらいいのか、みんなに伝えたい。
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私も仏壇に願い事をしていたことがあります。願い事がかなったという実感は一度もなかったような気がします。信じ方が足りないのではないかと、いろいろと努力しました。信じれるようなことが何も起こらないのに先に信じろというのは、どう考えてもおかしいですよね。私も、宇宙や自然の驚異に神を見る思いがします。それにつけ、信じろ、礼拝しろ、信じないと天国に入れてやらない、などと下らぬことを神がいうわけないだろうと言いたくなるのです。
2005/5/4(水) 午後 0:15
神様は願いことをかなえるものではないと思います。 願いごとをかなえるのは自分自身です。「自分」はとにか生きています、神の導きで。もし、自分に不誠実に暮らしていれば、ため息を付い(しかし笑いながら)見守っている存在。もし、自分に誠実にあれば「頑張れ」と言ってくれる存在。世の中に起こった全てが自分にとって「意味あること」になっているはず。 心の中に、自分のためだけに存在する(宗教は人が作ったものですが)。 信仰はひとりひとり違います。百人いれば百の神様がいる・・・。
2005/5/5(木) 午後 1:54 [ Popula ]
「願い事を叶えるのは自分自身」というのは私も同意見です。そのため自然法則のようなものと考えています。何か身体的な技術を上達させる場合、自然法則を無視した練習法は不可能であることと似ています。身体的な技術の上達を神頼みにするといった意味に似た解釈はなさらないで下さい。
2005/5/5(木) 午後 8:59
あなたがイメージされている神の導きが、まるで見守ってくれているかのように感じる理由は、まさにそこにあります。「願い事を叶えるのは自分自身」は普遍的な法則なのです。神のごとき導きは自分自身だったのです。
2005/5/5(木) 午後 9:02
仮に神がいるとして、彼がひとりの人間の行いに一喜一憂するとは私は考えていません。神が存在するなら、彼が全能であるなら、すべての創造神であるなら、時空も作りたもうたでしょう。神は時間を超越し、時間に縛られず、過去と未来を同時に見るでしょう。人間一人の一時の感情に一喜一憂するとはどうしても思えないのです。
2005/5/5(木) 午後 9:06
神は自分と独立して存在するものではないと思います。いわば母なる存在(仏教でいうところの阿弥陀様)で、自分の心と切り離しては存在しない。(多くの宗教ではいつの間にか、自分の心の外の存在に解釈されてしまったが、本来は心の中に存在する心の思いのこと。
2005/5/6(金) 午前 10:58 [ Popula ]
そういう意味では、神の存在はコジツケですね。 でも、信じて勇気がでてくればメッけもん。 自分の魂の存在さえ科学で証明不可能なんだから、心の中の話なら自分の都合のよい解釈をすればいい(どうせ神は物理空間(科学で理解できる世界)には存在しない。
2005/5/6(金) 午後 5:29 [ Popula ]
明日の朝太陽が上る保証は何もない。でも、安心していられるのはなぜでしょうか。
2005/5/6(金) 午後 5:39 [ Popula ]
人が明日また太陽が昇ると安心していられる理由は、冷たい言い方で悲しいのですが、パブロフの犬と同じ理由です。
2005/5/7(土) 午後 10:09
願い事といっても利己心ではなくて、家族の幸福や健康など日常的なことです。「信じて勇気がでてくればメッけもん」でも不幸が続く方がいらっしゃいます。幸福が続く方もいらっしゃいます。そのちがいに法則性があるのですよ。
2005/5/8(日) 午前 1:15
残念ながら、いろんな人の心の中の幸福、不幸を比較する(科学的?)手段はありません。それから、神という存在は自分にのみ意味のあるものです。冷たい言い方をすれば、他人のことは知ったことではないのです。 私は自分に対して「不幸だ」と思っているより「これはなにかの神様のサインだ。幸福への1ステップだ」と死ぬまで信じていた法が得(徳?)です。
2005/5/8(日) 午後 7:34 [ Popula ]
幸福・不幸を比較する科学とは申し上げていません。神を証明する目的の理論でもありません。私はあなたの得(徳)を否定しているのではなくて「みなさんが得(徳)と感じるは限らないですよ」と問いかけたのです。今回の議論が私の本来の目的ではないので、肩の力を抜いて、結論を急がないでください。気分を害したのなら、本当にごめんなさい。
2005/5/12(木) 午前 0:38