愛憐抄

愛憐の恋・愛・心いっぱいのブログ。

哲学など

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 量子力学的運命解釈についてと、ポスト構造主義哲学についてを、毎日考えている。自費出版する上で、この両方をテーマにしたいが、自費出版を1回で済ませたいとはいえ、ふたつのテーマがかけ離れすぎてしまい、何を言いたいのかわからない本になってしまわないか、とても不安で何とか解決したい。いろいろ考えあぐねて、量子脳理論から導くパラレル・ワールドと人間との関わりを、ポスト構造主義的な掘り下げ方でいけるのではないか、その際に私の哲学的宇宙解釈を盛り込めば、1冊にまとめてしまえると思いつき、少しうれしくなった。パラレル・ワールドに関する疑問を解決してしまえば整理が楽になる。本の題名は「共時性と量子力学とあなたの運命」で副題が「ポスト構造主義解釈による量子脳運命選択論」ってところだろうか。不思議なことが好きな方なら一度は聞いたことがあると思われる「共時性」という言葉で目を引き、むずかしい言葉「量子力学」のあとに「あなたの運命」ともってくることで、運命についての研究だが、オカルトではなく、まじめに科学していそうだけど、でも雑誌の特集記事の題名みたいで読みやすそうだという雰囲気が狙いである。副題で安っぽさをなくしたい私の気持ちが出過ぎているかもしれない。

 ポスト構造主義と言うと、何やらむずかしそうに聞こえるが、実際にはそんなにむずかしいものではない。ポップ・ミュージックでたとえると、アーティストが考えた歌詞がひとつだけの意味だけではなく、聞く人によっていろいろな解釈で捉えられ、さまざまな感情移入がなされている。「あの時のあなたはもういない」といった歌詞があったとして、Aさんは失恋直後の寂しい思いを、Bさんは交際中に浮気した恋人の態度の冷たさから受けた悲しみを、Cさんは片思いの相手が結婚してしまった寂しさを、それぞれこの歌詞のフレーズから感じ取って、この歌に感情移入しながら聞き、それぞれの愛し方で歌を愛するのだ。こういったことは、もちろんまちがいではないし、アーティストが込めた意味がそのまま伝わることはむしろ不可能で、歌詞はアーティストの思いどおりにはならずにアーティストの思惑から飛び出して一人歩きして、アーティストの想像を超えた深い意味をもちえる可能性がある。こういった現象はポスト構造主義で「言葉の社会性」といい、ドイツのウィトゲンシュタインという哲学者が提示した。

 アーティストが作品についてよく口にしている。ファンそれぞれの受け止め方でいいと。そして、アーティストの意図した意味以上にすばらしい解釈で作品が愛されると、アーティスト自身がその神秘性に感動していたりする。ファンのおかげで自分の作品がよりすばらしいものになる。こういったことは割りとめずらしいことではない。こういった日々感じているようなまったくめずらしくないようなことを、しっかりと筋道をとおして1冊の本にすると、ウィトゲンシュタインのような評価を受けられる可能性がある。まず誰がそのことに着目し、その理論に汎用性がいかにあるかが問題なのだ。ウィトゲンシュタインは純粋に言語の解釈としてこの理論を掘り下げたが、私のたとえのように歌にも応用が利くのだ。

 目のつけどころという意味で、こんなことでもいい。なぜ標準語を使う場面で関西弁を話す人は関西弁のまま話すことが多いのか。なぜ他の地域の方言を使う人は、標準語を使う場面で地元の方言を使うことを控えるのか。私は考えた。そしてある仮説が思いついた。関西弁には方言でありながら丁寧語がある。私の地元の北海道弁には丁寧語がない。だから関西弁は標準語を使うような丁寧な場面でも不便なく使えるが、丁寧語が存在しない北海道弁では丁寧な会話が成立しない。つまり丁寧語が存在する方言を使う人は方言で話すことを好む傾向にあると思われる。これはどの方言でも当てはまるのか調査していないので単なる仮説でしかない。これをしっかり調べて証明し本などで公表しなければならない。公表して記録が残ったときに初めて評価に値する仕事をしたことになる。あとは世間の評価がどう下されるかでその仕事の意義もちがってくるだろう。

 私はポスト構造主義者である。少し気取った言い方でポストモダニストだろうか。自分がポスト構造主義の考え方を好み、宇宙観もそれであることは最近になって、哲学の入門書でわかったことなのであるが、さて自分の考え方に独自性があるのか、とても気になって仕方がない。
 ポスト構造主義を理解すればするほど、過去に読んで人生観を劇的に変えた哲学者の思想もポスト構造主義の枠にくくられる内容であったことを驚きとともに思い出す。その哲学者の名前はジッドゥ・クリシュナムルティと言って、イギリスに留学したインド人である。彼はイギリス人を中心としたオカルト系の団体に救世主としての教育を受け、大学を卒業し、信者から尊敬されている中で、そのオカルト系の団体を脱退し、哲学者に転向した。彼の思想は宗教から離れ、純粋に哲学理論を展開している。オカルト教団の高い教育を受けながら、彼はまともな人間に成長したところがおもしろいところではある。彼は日本よりも欧米での人気のほうが高い。
 クリシュナムルティ氏は経験が人間をダメにすると言う。例えば、車の運転は経験を積めば積むほど、腕を過信したり、事故によって過剰な恐怖心を抱いたり、さまざまな問題が後から生まれる。経験を捨て、運転技術を純粋に知識として扱い、それ以上でもそれ以下でもないと知ることが先だと言う。経験によって、上手な自分を想像するから過信するのだ。事故が忘れられないから恐怖がつきまとうのだ。知識は道具として扱い、必要以上に依存しないことが自分を見失わないことだと彼は言うのだ。
 私にも自分の哲学的思考に彼のような独自性が果たしてあるのかどうか模索している。
 自分の宇宙観を振り返ってみると、ひとりひとりがイメージしている世界観がちがうものであるから、自分が何かを語る時、自分がイメージしている世界観と相手のイメージしている世界観の差が問題になる。差が大きければ大きいほど、自分の言いたいことの意味が伝わらないことを意味する。ここで私が考えるコミュニケーションの実際のモデルはこの問題について解決することで、新しい世界観、宇宙観を説明できるのではないかと考える。
 自費出版しよう。量子力学と共時性で運命を考える理論も自費出版する予定だが、ポスト構造主義的宇宙解釈もおもしろい。

「適当」の意味から

「適当」という言葉は、トラックバック先にあるように悪い意味と良い意味があります。おそらく口語体では「いいかげん」といった悪い意味で使うことが多く、文章では辞書にあるような「ちょうどいい」という意味に使われるのでしょう。
「適当」に似た正逆含む言葉は日本語に多いですね。「いいです」「結構です」も肯定と否定の両方に使えますものね。これはもしかすると哲学的に正逆はひとつのことを表していて、捉え方のちがいだけなのかもしれませんね。すべての事象をそう捉えることで、小さなことに悩まない人間になれるような可能性があるかも。「好き」の言葉にも正逆の意味が込められているような気もします。
 実はクリシュナムルティという哲学者の思想を語り合う掲示板で「新しい芽」と名乗る方が仰っていた言葉に似たような意味の深い発言がありました。

「認めてくれないので苦痛を感じるのと、認められて快楽を感じるのとは、まるで別のことみたいだけど、認められたい欲求の、同じものの両面なのですか」

 これは何年も前に見た書き込みで、当時の私は意味がわからなかったのですが、何かすごいことを言っていると思って、この書き込みだけパソコンに保存しておりました。すると今回の正逆の両方の意味が込められた言葉の発見に何か似ていることに気づいたのです。
 私たちは言葉でものごとを考えますが、その言葉の中に深層心理が隠れているかもしれません。何か解決できないおおごとにでくわしても、正逆の意味を反転すると本音や解決策が見えてくるかもしれません。

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