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國體の萌芽・弐

山鹿素行は、赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行ひ、幼少の浅野内匠頭は云ふに及ばず、後に赤穂義士の討入り参加した大石内蔵助、堀部弥兵衛、吉田忠三衛門など重立つた赤穂義士の多くは、この山鹿素行の門下生であつた。

 
他方、赤穂義士事件で討入られた吉良上野介の吉良家は、高家の肝煎(筆頭)であり、その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあつたが、その実は、幕府の使者として、皇室を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することにあつた。
 

幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、元和元年(1615)、禁中並公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止を断行した。つまり、世俗な表現を用ゐるならば、幕府は、天皇を、京都御所から一歩も出さず、公家以外は誰にも会はせないといふ軟禁状態に置いたといふことである。これは、たとへば、諸大名が参勤交代の途中、京都の天皇に拝謁する慣例を認めるとなれば、それがいづれは討幕の火種となることを幕府は恐れたからに他ならない。
 

寛永元年(1789)に幕府(老中松平定信)がいはゆる尊号事件で皇権を侵害したことが契機となり、同6年(1794)に光格天皇によつて尊皇討幕の綸旨が、四民平等、天朝御直の民に下されるまで約180年の歳月を要し、文久3年(1863)に孝明天皇による攘夷祈願行幸で行幸が復活するまで、約250年の長きに亘つて幕府の皇室軽視は続いたのである。

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こんにちは。

今日は大変驚きました。
「禁中並公家諸法度」という言葉は知っておりましたが、このような内容だとは・・・(絶句)
学生時代、日本史の授業で「江戸時代〜近代」までは教わらなかったので、殆ど内容を知りません。
ただ今、博識ブロガーさま方の記事を読み猛勉強中でございます。
今日も目から鱗でした。ありがとうございました。

傑作☆

2011/11/28(月) 午後 3:50 [ - ] 返信する

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>ことりんさん
こんばんは

そうなんですよね…。当時の幕府による皇室への不敬はかなりのものでした。江戸の世とは、日本人としての風俗などまでは、あまり破壊されなかったものの、こういったことはやっていたんです…。…そして、その禁中並公家諸法度以上の皇室弾圧法が現在の皇室典範です。

現在の憲法並びに典範は、早々に本来の形に戻すべきだと思います。

2011/11/28(月) 午後 7:54 [ 嵯峨源氏 ] 返信する

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