國體

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國體の萌芽・五

まづ最初に流れ出たのが、宝暦8、9年(1758〜9)の宝暦事件とそれに引き続く明和3年(1766)の明和事件である。竹内式部、山県大弐、それに赤穂藩の遺臣の子であつた藤井右門らは、皇権の回復を幕府に迫つた。しかし、幕府は、この二つの事件を通じて、尊皇論者の大弾圧を行ひ、藤井右門ら三十余名を処刑したのである。これは、後に尊皇攘夷派を弾圧した安政5年(1858)の安政の大獄に勝るとも劣らない大弾圧事件であつた。そして、この安政の大獄で処刑された吉田松陰は、長州藩の山鹿流軍学師範であり、その志と思想は「中朝事実」によつて培はれたものである。

ともかく、安政の大獄では、多くの尊皇攘夷派が弾圧されたが、中でも最大の打撃を受けたのは水戸藩である。しかも、その人的損失もさることながら、最も大きな精神的痛手を受けたのは水戸学であつた。水戸学は、尊皇思想による大義名分論に基づいて、それまでは尊皇攘夷運動の指導的役割を果たしたものの、水戸藩が徳川御三家でありながら安政の大獄で処分されたことから御三家の「名分」を損ねる結果となつたため、水戸藩としてはこれまで通りの尊皇攘夷運動はできなくなつた。そこで、「大義」と「名分」とを両立させるためには、水戸藩の藩士によることなく、脱藩浪士による運動しかない。そして、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変を起こし、遂には、隠忍自重の藩士の憤懣が爆発して藩内が分裂し、天狗党の乱(筑波山事件)を起こした。しかし、もし、水戸藩が御三家といふ「名分」を捨てれば、尊皇攘夷運動は、尊皇倒幕運動へと容易に転換できたのであるが、やはり大義名分論の水戸学では限界があり、天狗党の乱は、最後の暴発であつた。しかし、結果的には、桜田門外の変と坂下門外の変といふ二つの政治テロが実質的には御三家の水戸藩が行つたことから幕府の権威は完全に失墜し、「攘夷」が「倒幕」へと結果的には時代の大転換ができたのである。なほ、余談であるが、いつの世にも同じやうな構造があるもので、現在の支那における「反日運動」は、平成元年の天安門事件が「反日」から「反政府」へと転換したのと同じやうに、近い将来において、名分としての「反日運動」が大きな「反政府運動」へと転換して、共産党一党独裁の不条理な中共政府は、抑圧された人民による新たな「支那革命」によつて打倒されるであらう。



閑話休題。「中朝事実」は、明治維新を経て明治期までは伏流水となつてゐたが、これが大正期に再び地表へ現れる。それは、乃木希典によつてである。乃木希典は、吉田松陰亡き後の松下村塾最後の塾生であり、皇道の実践者として明治天皇に殉死した。その殉死の直前、学習院長の立場として昭和天皇(当時は皇太子)に「中朝事実」を贈られたのである。乃木希典は、昭和天皇がその後に大きく欧米への憧憬へと傾斜されて行くことを予期して強く懸念し、この傾向を食ひ止めるための諫言であり、明治天皇に殉死する形で、昭和天皇に向けて諫死した。「中朝事実」は、乃木希典の諫死奏上文であつた。これが乃木希典殉死の隠された真相である。

いづれにせよ、「中朝事実」は、尊皇運動において重要な歴史的意義を有するが、これだけで尊皇運動の系譜を語ることが乱暴な議論であることは承知してゐる。しかし、尊皇思想とその実践は、國學だけから導かれるものではなく、山鹿素行のみならず古学へと傾倒した儒学者である伊藤仁斎、荻生徂徠らの思想、垂加神道を創始した山崎闇斎らの思想などからも同時多発的に出たものであつて、さながら「一口に出づるが如し」であつた。しかし、中でも山鹿素行の「中朝事実」がその象徴的な歴史的意義と思想を有してゐたことだけは確かであつた。

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