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其の壱の続きです。
ーーー 以下引用 ーーーー
そのことをふまえると、日本国憲法は、第一条が存在することにより、 かろうじて国体は尊重され、
また、過去からの連続性と対立しない解釈によって運用することにより、
とりあえず有効と考えるとができると考える。
具体的には帝国憲法と日本国憲法を比較した場合、
天皇の役割はほとんど変わっておらず、天皇と国民の関係は一切変更していない。
変更したのは、重臣が決めていたことなどの一部が、国民や国会に移動しただけ。
一部政体が変更しただけと考えられ、憲法の本質的なところは共通する。
ーーー 引用ここまで ーーーー 占領憲法の第1条は、左翼思想たる國民主権を定めたものであり、皇室の破壊を内包するものである。 また、基本的人権や平和主義、平等主義などの諸原則も、フランス革命などから淵源する左翼思想、國體破壊思想に根ざすことは明らかである。
およそ、かかる基本理念を有する占領憲法が、憲法典ではないことは明らかであり、ここには大日本帝國憲法との連続性など、微塵も見られない。
かかる代物は、憲法典ではなく、憲法典としては無効である。
無限界説に立つことは、谷田川氏が立脚しているように、カール・シュミットの、いかなる道徳や慣習、伝統にも縛られない、憲法制定権力論による「主権者」「立法者」の絶対的意思をそのまま憲法典、法律などとして有効とする、ルソー思想を憲法学に導入、許容することとなる。
カール・シュミットは、ドイツにおけるルソー思想の後継者である。
伝統や歴史を踏まえた憲法典であるべきだ、というならば、なぜその最上位に規範國體を置き、これに絶対的な拘束力を持たせ、これに反する憲法典は無効である、と、真正面から立憲主義(法の支配)に立つ憲法理論を構築しないのか。なぜ、わざわざ、道徳や慣習などを捨象した憲法制定権力論などに立脚するのか。
憲法学説は、如何に高名な学者の説であろうと、通説や判例であろうと、その説が國體を守るのに裨益しないものであれば、紙くずの値打ちもない。何の役に立つというのか。
憲法学説は、いかにすれば國體を護持できるのか、の観点から組み立てられねばならないのである。
國體護持を本旨とする真正護憲論を批判するのであれば、國體を護持し得る、それに代わる憲法学説を提起すべきである。
最後に、補足程度に付言しておく。
真正護憲論とは、護「憲」、すなわち、正統の憲法典たる大日本帝國憲法と皇室典範の復元を通じて、我が國の本来の憲法たる規範國體を再認識しよう、というものである。
つまり、憲法典ではない占領憲法の無効を確認することで、我が國の不文の規範を再認識し、我が國の本来の、あるべき姿を確認し、強化し、取り戻そうというものだ。
これは、神武天皇による建國以来、或はその以前から、脈々と継承され、今もなお継承、存続している國體を再認識し、確認しようというものであって、明治時代以降の道徳や慣習などをまた復活させようというものとは、全くその趣旨を異にする。
大日本帝國憲法と正統皇室典範とは、いわば「不文の法」の顕現であり、表現であるに過ぎないのである。
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こちらも、転載させていただきます。
2012/10/11(木) 午前 10:34
>いのししさん
こんばんは
了解です。
2012/10/11(木) 午後 7:52 [ 嵯峨源氏 ]