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伝達の限界と國柄の重み
自身の思いを全て相手に伝える事などは到底に無理であります。
何故ならば相手に伝えるにも限界があります。 自身の思い全てを相手に伝えるにも伝達手段に限界があります。言葉や行動、仕草、表情などの伝達手段がありますがそれでも全てとなると不可能でしょう。そもそも自分自身ですら自身の思いの全てを理解などはしていないと存じます。そこで出てくるものが意思主義ということ。表示的に表面的な言葉や文章のみで物事を判断するのではなく、内心の意志を重んずる主義の事です。これは良く歴史の長い國では行われる行為です。それこそ我が國の様な……。
そしてそれを大きく捉えると伝統、文化、歴史などの積み重ねにより、其の國にもそしてそれぞれの民にとっても、常識、当たり前といった意識、思いのことです。これは長い伝統や文化、歴史があって初めて得る事の出来る代物であり、そしてその伝統、文化、歴史が長ければ長い程その意識、思いは成熟をしていきます。よつてとても貴重で其の國や其の民が安定して成り立つ為には非常に大切なものです。歴史の浅い國や異民族國家や革命國家では到底得る事は出来ません。我等は我等の正しい共通の常識を大切にしたいものです。
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2012年07月29日
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四宮さんの御話し
天皇が日本国を統治されるということは、決して権力によって支配されることではない。三潴信吾氏は「帝国憲法第一条の『統治ス』は、政治に限らず、国家・国民の活動の一切にわたっての根源者、総親たらせ給ふの意で、ここでいふ「統治」は権力作用たる『統治権』のことではない。日本古来の伝統的『やまとことば』で云ふ『しろしめす』のことである。」(日本憲法要論)と論じておられる。
「やまとことば」の「しろしめす」とは「知る」の尊敬語である「知らす」にさらに「めす」という敬意を添える語を付けた言葉である。『續日本紀』に収められている文武天皇の宣命には「現御神と大...八島國知ろしめす天皇」とある。また『萬葉集』では「御宇天皇代』と書いて「あめのしたしらしめししすめらみことのみよ」と読んでいる。この場合の「知る」とは単に知識を持っているという意ではない。もっと深い精神的意義を持つ。天下の一切のことを認識し把握するというほどの意であろう。
文武天皇の『宣命』には「天津神の御子ながらも、天に坐す神の依さし奉りし随(まにま)に、聞こし看し(め)し来る此の天津日嗣高御座の業と現御神と大八島國知ろしめす倭根子天皇命の授け賜ひ負せ賜ふ…」と示されている。また『萬葉集』巻十八所収の大伴家持の長歌に「葦原の 瑞穂の國を 天降り しらしめしける 天皇の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と しらし来る 君の御代御代…」とある。
「しらしめす」即ち<天皇の統治>とは、天津神の御命令で日本に天降って来られて、天津神の御委任で天津神の日の神の霊統を継承される現御神として、天津神の命令のままに天の下をお知りになる(お治めになる)という、きわめて宗教的というか信仰的な意義があるのである。
天下の一切の物事を「お知りになる」ということは、<無私>の境地であられるということであり、天下の一切の物事に対して深い<慈愛の心>を持たれているということである。<無私>と<慈愛>の心が無くては対象を深く認識し把握する事はできない。
大日本帝国憲法において「しらしめす」の漢語表現として「統治」という言葉を用いたのである。そしてこの「統」という言葉は統べる(統一する)という意であり、「治」は治める(本来の位置に置く)という意である。明治天皇が明治元年三月十四日に発せられた『明治維新の宸翰』に「天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆朕が罪なれば…」と仰せになっている。このお言葉こそまさしく「治める」の本質なのである。無私と慈愛というまさに神の如き御心で日本を統治されるお方が日本天皇であらせられるのである。ゆえに、「統治」のご権能を有されるお方は、天皇陛下唯お一人である。
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