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2012年11月05日
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護憲・改憲こそもう古い皇紀2672年(平成24年)11月5日
遠藤健太郎ブログの御紹介です。
http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012110301001312.html
▲47NEWS(共同通信):橋下代表、「古い政治体質排除」 維新躍進で たちあがれ日本の平沼赳夫代表と東京都の石原慎太郎前知事、大阪市の橋下徹市長らの会談が三日、京都市中京区にある某ホテルで開かれたことは早速報じられていますが、はっきり申し上げて橋下市長が一人で話し合いそのものを台無しにしました。
彼らの連携が報じられた最初から申していますが、それはありえません。失礼ながら日本維新の会があまりにも使い物にならないからです。橋下市長に言っていただかなくても、平沼代表と維新の松野頼久副代表なんかが同列に座れるはずはないのです。
出自批判にさらされてきた橋下市長を私は二度にわたって擁護しましたが、同時に公務員労組問題への対処以外の教育基本条例を含むほぼすべての政策には徹底して批判してきました。そのせいで「古い『真正保守』とか言っている人たちには早く退場願った方がいい」なんてことを言われる筋合いはありません。
どうやら「合理性を感じない人とは政治はやりたくない」という口のきき方から察するに、現世個人の理性と意思と心情をもってあらゆる社会的存在の意義を絶対的に規定するような共産主義革命家の思想に通じるものが橋下市長にあり、その金銭感覚も含め、やはり大阪府知事選挙立候補時から私が指摘してきた通りの人だったと改めて感じます。
このような人は「古い新しい」を言いたがるのも一つの傾向であり、あえてその土俵に上がって申すなら占領憲法(日本国憲法)の改正という主張こそもう「古い」のです。
その証拠に何度でも申しますが、旧護憲派とも言うべき「皇室(日本)解体」の主張にはすでに醸成された改憲派が存在します。彼らに言わせれば日本共産党も社民党も「古い」存在価値を失った解散させるべき党なのだそうです。これは私が極左論壇の或る方に直接伺いましたから間違いありません。
占領統治期以降のわが国には「自国を取り戻す」ための政策がありませんでした。自民党政治も所詮は改憲してでも成す占領憲法体制の保守であり、野党はこれに護憲で反対していればよかったのです。これこそが変わりようのない古い政治であり、橋下市長が一つはっきりと正しいのは「今の政治が動かない最大の原因は憲法だ」というご認識です。
ならば法学の清水澄博士に始まり米国法学のジョージ・ランボーン・ウエスト博士でさえ指摘していた占領憲法の無効を、私たち多くの日本人には隠されてきたその真実の証明を国会で成すべき勢力の結集こそ新しいのではありませんか。(せいぜい六十余年前だが)古くからある法理論と向き合うことが新しいというわが国の現状を直視しなければならないのです。
新党を作ろうという時に人を寄せつけないような発言をしたたちあがれ日本のほうにも問題はありましたが、原子力発電や環太平洋経済連携協定(TPP)といった各論の一致はなくとも憲法認識で一致できない「烏合の衆」など絶対に作るべきではありません。民主党がまさしくその「反面教師」であり、もう二度とこの種の政党に政権を掌握させてはならないのです。
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天皇の「國見」の意義
四宮さんの御話し
日本人は「見る」といふ言葉を大事にした。「見る」といふ視覚が、人間が外界や環境を捉へるのに最大の感覚なのである。見ることによって環境を正しく捉へ対応することが出来る。「存在」は本質的に「見る」ことを前提にする。見えないものは存在しない。霊魂や魂は見えないが、肉眼では見えないだけであって、霊眼では見えると信じられた。 「見る」といふ言葉と感覚がいかに重要に考へられているかは、「味を見る」「触って見る」「やって見る」「話して見る」「嗅いで見る」といふやうに視覚以外の感覚を表現する場合にも「見る」といふ言葉が使はれることによっても明らかである。 ... 従って、「見る」とは単に視覚の事だけではなく、対象物と一体になる、支配する、といふ意味も含まれる。上御一人の行はれる「國見」とはまさにそれである。 「國見」とは単に天皇が日本國の景色を眺められるといふのではなく、國土と一体となられ、國土を祝福し、そこに住む國民をの幸福を祈られる行事なのである。「國見」とはただ単に景色を眺めるのではなく、天皇が國を見渡して五穀の豊饒と民の幸福をお祈りし祝福する行事である。 「目は口ほどにものを言ひ」といふ言葉もあるごとく「見る」といふのは、対象物を認識する上で大切な行為である。天皇統治の事を「みそなはす」(「御覧になる」・「見る」の尊敬語)といふ。荒木博之氏は、「上代人にとって<見る>とは『対象物の神性に感応し、その対象物を飽かず見ることによって、その神性をその清浄さをおのれが本性にとりこむこと」(『日本人の心情論理』)と解した。この論を引用して大原康男氏は「<見る>は…単に空間とかかわる視覚に尽きるものではなく、そこには鎮魂儀礼の要素が含まれている…」と論じてゐる。(『現御神考試論』) 天皇が神聖なる天香具山に登られて「國見」をされることは、天皇が行はれる國土讃嘆の農耕儀礼・祭祀である。新しい年の始まりを知らせる「春のことぶれ」(春が来たことを広く知らせること)・天地一新の行事である。 祭祀主であり現御神である天皇が「國見」をされ祝福されることによって、國魂・國土が新たなる靈力を発揮し吹き返し新生する。國土が國が始まった時の若々しい命の姿に復元し新生し豊かな稔が約束されるのである。天皇が「國見」をされることによって國土の新生と五穀豊饒が實現する。 つまり、「國見」は大嘗祭と同一の意義があり、天の神の地上における御代理即ち現御神(あきつみかみ)たる天皇が、國土に稲穂を豊かに實らせるといふ天の神から命じられた最大の御使命を實現するといふ天皇の統治にとって重大意味を持つ祭祀なのである。 |
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