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こんばんは
私は最近、人々を観察していました。 すると案の定と云いますか、当たり前と云いますか。組織にて、或いは一時的にでも一緒に何かを行う。そう云った中で、上手くいく場合と上手くいかない場合がある分けですが上手く行く場合の特徴は常に自分一人ではない、自分はあくまでその組織、或いは一時的にでも一緒に行い目的を達成させる為の集まりの中の一部であり、役目、役割を出来るだけ正常に果たしていく、機能させていくことのみならず。御互いに御互いの長所、短所を理解した上で、心身共に御互いをフォローし合いことを進めて行く人の集まりの方が最終的に目的を早く達成出来る。
しかしながら、逆に自分が自分がと突出する或いは自分さえ良ければと云う人間ばかりの組織、或いは一時的な集まりにしろ。そういった場合は、目的を達成させることが非常に困難に見えました。何故ならば、この場合は協調、親睦の気持ちもなく、ただただ決り切った事を各個人でやるだけであり。組織や集まりにおける他の人達との間には、壁の様なものを作ってしまっている。それぞれが個人の力だけで、それぞれの役目を果たそうとするものだから能力が低いものがいた場合は、相当に目的を達成するに時間が掛ってしまう。若しくは降参である。そして、場合によっては揉め空中分解する。例外もあるでしょうが、大体この様な場合が多いです。
これを理解していない日本人が、現在には結構います。
しかしながら、逆にこれを出来る人も結構いるみたいですので、出来る人は自信を持って進んで頂きたい。逆に出来ない人は個人の限界を知りそして協調、親睦の気持ちを持って協力していくことの価値、素晴らしさを知って貰いたいですね。 そして、この違いがある意味農耕民族と狩猟民族の違いでもあると思います。
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西村眞悟議員の御話し
乃木希典、静子、殉死の日
No.891 平成25年 9月13日(金) 百一年前の本日、すなわち大正元年(一九一二年)九月十三日、 乃木希典と夫人静子は、 崩御された明治天皇のみあとをしたひて、 御大葬の弔砲が鳴り終わる頃、礼法どおり刀によって殉死した。 警視庁医務員作成の「乃木将軍及同夫人死体検案始末」は、 乃木将軍と静子夫人の遺体の状況をつぶさに記載し、その死にざまの見事さを讃えている。 乃木希典、辞世 神あがり あがりましぬる 大君の みあとはるかに おろがみまつる うつ志世を 神去りましし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり 静子、辞世 出でまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき この殉死の七年前の明治三十八年に終わった日露戦争に動員された陸軍将兵の総数は延べ九十四万二千、死傷者二十二万三千である。 乃木希典は、第三軍司令官として旅順要塞攻略の任務を与えられ、明治三十八年一月一日、六万人の犠牲を出してそれを陥落せしめた。 さらに、第三軍は、直ちに北上し、三月一日から開始されたロシア軍三十二万が集結する奉天への総攻撃に際し、 日本軍最左翼からロシア軍を包囲するために最先端、最先鋒に死闘を繰り返して突出するという役割を果たし続け、ロシア軍の奉天からの退却と奉天会戦勝利の切っ掛けとなった。 この奉天会戦の死傷者は七万人である。 翌明治三十九年一月、乃木希典は満州から凱旋帰国した。そのときの乃木将軍を観た私の祖父は、娘(私の母、明治四十二年生まれ)に後年言った。 乃木将軍に、勝利の凱旋という様子は微塵もなくひたすら頭を垂れて恐縮している風情だった、と。 そして乃木将軍は、明治天皇の前で、「旅順の攻城には半歳の長日月を要し、多大の犠牲を供し・・・臣が終生の遺憾にして恐懼措く能わざるところなり・・・」と復命して涙を流した。 天皇は、その様子から乃木の意図を察せられ、 「乃木、朕より先に死してはならぬ」と言われたという。 その後、乃木将軍は、よく学校などに招かれて講演をせがまれることがあった。 その時の演壇に立った将軍は、 「私が乃木であります。皆さんのお父さん、お兄さんを殺した乃木であります」、とまず深々と頭を下げた。 明治四十五年七月三十日、 明治天皇が崩御され、 九月十三日の御大葬の弔砲がなる頃、 乃木将軍は備前長船の名刀兼光を握って腹を十文字に切り裂き、 その腹を襦袢で覆いボタンをしっかりと止めたうえで、刀を持ちかえて自らの首をかっ切った。 このようにして、嘉永二年生まれの長州藩士乃木希典は、 明治天皇の朕より先に死んではならんというご指示を律儀に守り、西南戦争以来の長年の願いであった死を遂げたのである。 そして、楠木正成と同様に、 その至誠は永久に我が国に生きる。 |




