|
しかし、御所落成を機に、寛文3年(1663)、後西天皇は遂に退位され、霊元天皇が即位された。幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言はざる聞かざるの政策をさらに徹底することになる。そして、この禁裏御所御定八箇条の発案は、まさに吉良上野介によるものであつた。
かくして、元禄14年(1701)3月14日、勅使、院使の江戸下向の折、その饗応役の赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城・松の廊下において高家筆頭(肝煎)吉良上野介義央に対し「天誅」の刃傷に及び、その結果、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家断絶。その後、赤穂義士は、臥薪嘗胆して吉良上野介に対し主君が果たせなかつた「天誅」を全うした。そして、これを成功に導いた吉良邸の構造と吉良の上野介の在否に関する最重要の情報を提供した協力者には、國學の四大人の一人である荷田春満がゐた。これが赤穂義士事件の秘められた尊皇運動の真相である。 この事件により山鹿素行の「中朝事実」は、國體護持の実践力が付与され、以後、これが伏流水となり、幕末へ向かつて、さらに、昭和へ向かつて流れ出る。 |
國體
[ リスト | 詳細 ]
|
ところで、後水尾天皇(慶長16年〜寛永六年・1611〜1629)は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与へたことに抗議して退位された。そして、明正天皇(和子の子、興子内親王、7歳)が即位されることになるが、その陰には吉良家などの高家の暗躍があり、その他の女官の皇子は悉く堕胎や殺害されたと伝へられてゐる。以後は、後水尾上皇が院政を行はれて幕府と対峙され、その後の後光明天皇、後西天皇、霊元天皇はいづれも後水尾上皇の皇子である。
承応3年(1654)には、後西天皇が即位されたが、それと前後して、国内では、突風、豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、暴風雨、津波、火山噴火、堤防決壊など異常気象による自然災害や、何者かの放火とみられる伊勢神宮内宮の火災、京都御所の火災(万治4年・1661)などの大きな人為災害が次々と起こつた。そこで、幕府(四代将軍家綱)は、これに藉口し、これらの凶変の原因は後西天皇の不行跡、帝徳の不足にあるとして退位を迫つたのである。その手順と隠謀を仕組んだのは、高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家側)の放火によるとの説が有力である。 これに対し、赤穂浅野家は、豊臣秀吉の五奉行の一人であつた浅野長政の末裔で尊皇篤志が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあつた。そもそも、山鹿素行が赤穂藩へ配流されたのは単なる偶然ではない。赤穂浅野家が幕府に山鹿素行の配流先として強く願ひ出た結果であつた。 ともあれ、幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでゐた。そこで、製塩事業で藩財政が豊かである赤穂浅野家などの尊皇派大名の財力を削ぐことを目的として、京都御所の放火を企て、あるいはその火災を奇貨として、禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)に浅野内匠頭長直(長矩の祖父)を任じたのである。これにより、赤穂浅野家は、その後莫大な資金投入を余儀なくされるが、これを尊皇実践の名誉と受け止め、赤穂城の天守閣を建てられないほど藩財政が著しく逼迫することも厭はず、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。 |




