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わが国には、成文法以前に、國體法・立国法が厳然としてある。『現行占領憲法』はそれを隠蔽している。國體法・立国法に基づく正統なる成文憲法を開顕すべきである。
四宮さんの御話し 本来成文憲法は、政体に関する規定であり法律である。國體に関する条項は必要ないのであるが、近代成文権法として制定された『大日本帝国憲法』に國體条項が定められている。また、『占領憲法』にも「天皇条項」がある。今後正統憲法が開顕されるにあたっても、成文の形で「國體条項」が定められることとなるであろう。 しかしながら、成文憲法によって規定されていることによって、天皇が日本の君主であらせられるのではない。天皇を君主と仰ぐ日本國體は、成文法以前に厳然として永遠に続いているのである。憲法を論じるに当たっては、その前提としてこのことをしっかりし確立しなければならない。 国民主権論・主権在民論は、欧米権力国家の思想であり、天皇を祭祀主と仰ぐ信仰共同体国家日本には全くなじまない思想である。 『徴兵制』という言葉よりも『国民皆兵制』という言葉の方が良い。国を守るのは全国民の役目であり使命であり、政府から徴用されて行う事ではないからである。 若者が、一定期間規律ある団体生活を送り、軍事訓練を行うとともに、精神教育を受けることは実に大切である。 |
國體
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天皇の国家統治こそ真の日本的民主政治
四宮さんの御話し 天皇中心の國體を正しく実現する事を目的として断行された明治維新の基本的精神は、慶応四年三月一四日、明治天皇が京都御所南殿で、公家、諸侯や百官を率いて天地神明に誓われた『五箇条の御誓文』に示されている。それには、「広く会議を興し万機公論に決すべし」「上下心を一にして盛に経綸を行ふべし」「官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の五か条であり、國民の幸福を実現する政治の基本が示されている。 葦津珍彦氏は「五箇条の御誓文に見られる政治思想そのものは、決して外國の政治学理論によってはじめて教えられたものではなく、いわゆる幕末時代、約二十年の間に、日本人が政治実践の中から、自然成長的に形成されてきた日本人の政治思想であった」(『近代民主主義の終末』)と論じている。 ... 昭和天皇は、昭和五十二年八月二三日、那須御用邸で、宮内庁記者団に対して、「(『昭和二十一年元旦の詔書』の)第一の目的は御誓文でした。神格とかは第二の問題でありました。当時アメリカその他の勢力が強かったので、國民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは、明治天皇の思召しであり、それが『五箇条の御誓文』です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものではない事を示す必要があった」と仰せになられた。 天皇の國家統治は、まさに「輸入のものではない民主政治であり民主主義」なのである。天皇の國家統治をやまとことばで「きこしめす」「しろしめす」と申し上げる。天皇の統治は民の心をお聞きになり、民の心をお知りになる事が基本である。そしてそれは議会によって実現する。ゆえに、明治維新断行後において、帝國議会が開設され『大日本帝國憲法』が施行されたのである。 近代に於いてのみならず、古代日本においても、國民のために政治が天皇の統治によって実現していた。『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には次のように記されている。「天皇の曰はく、『其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の爲になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古(いにしへ)の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む、今百姓貧しきは、朕(われ)が貧しきなり。百姓富めるは朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは』とのたまふ」。 天皇が國民の幸福を祈られる祭祀を執行され、國民は天皇の大御宝であるという事が正しく実現され、萬機は公論によって決せられるという体制が真に確立する時、國民のための政治即ち民主政治が、言葉の上においてではなく、実際政治に於いて正しく実現するのである。天皇のまつりごと=国家統治こそ、真の日本的民主政治のである。 天皇は常に國民の幸福を祈られておられる。わが國の天皇は民の幸福をわが幸福とされ民の不幸をわが不幸とされてきた。わが國は君民一体の國柄である。これこそ真の民主政治でなくして何であろうか。 |
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和歌に歌われた『大和心』
四宮さんの御話し 日本の伝統的精神のことを『大和心』という。その『大和心』を短歌形式で表白した歌が次の歌である。 敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山桜花 ... 近世の国学者・本居宣長の歌である。「大和心をどういうものかと人に問われたら、朝日に美しく映える山桜だと答えよう」というほどの意である。 「朝日ににほふ山桜花」は何とも美しい。それが大和心なのだと宣長は言う。神の生みたまいし美しい国に生まれた日本人は美しいものを見たら素直に「美しい」と感動する。その「素直な心」「そのままの心」「純真無垢の心」が日本人の心なのである。それは、理智・理屈・理論ではない。純粋な感性である。嘘の無い心即ち「真心」である。大和心即ち日本伝統精神は、誰かによって作られた思想体系や理論体系ではないのである。 しかしながら、日本人はただ単に感覚的に美しいものを好むのではない。もっと深い。日本人の「真心」は一種厳粛な神々しさを伴う。「朝日ににほふ山桜花」の美しさは神々しさの典型である。日の神の神々しさを讃えている。 さらに「夕日」ではなく「朝日」であるところに日本人が清々しさ・清浄さ・潔さ・明るさを好むことをも表現している。 清らかで明るい心を「清明心」という。この清明心は、天智天皇の御製に次のように歌われている。 わたつみの 豐旗雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきらけ)くこそ 「大海原のはるかの大空に、大きく豊かな旗のように棚引く雲に入り日がさしている。今宵の月はきっと清らかで明るいであろう」という意。 何とも大らかで豊かな御歌である。この天智天皇の大御心こそが日本人の本来的に持っている精神、即ち「大和心」なのである。そして、「清明」という漢字が用いられている。日本人は清らかで明るい心を好むのである。 さらに言えば、「三日見ぬ間の桜かな」という言葉があるように、美しい桜の花は他の花々よりも咲いている時間が非常に短い。と言うよりも雨や風に当たればすぐに散ってしまう。日本人はそういう桜花の「潔さ」をとりわけ好むのである。これを「散華の美」という。 保田與重郎氏は「しきしまの大和心を人問はばと歌はれたやうに、花の美のいのちは、朝日のさしそめる瞬間に、その永遠に豊かな瞬間に、終わるものといふ。日本の心をそれに例へたのは、さすがに千古の名歌を、永く国民のすべてに吟唱される所以であった」(昭和十四年・『河原操子』)と論じておられる。 しかし、桜の花の命は、はかなくそして見事に散ってしまえば、それで消滅してしまうのではない。また来年の春に甦るのである。滅亡の奥に永遠の命がある。そう日本人は信じた。それが楠正成公の「七生報国」の御精神である。 |
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悍しき主權概念が蔓延る國、戦後日本
戦後以降我が國において導入されたのが主權という概念です。主権とは何なのか。それは簡単に言えば、現世に出現をしている人間の多数でもって御先祖様や御先祖様が作ってきたものを軽視無視し、更には子孫をも無視出来る絶対的な権利のことを言います。例えれば宗教でいうところのゴッドの立場に平気で居座っているのが現在の主権者であります。そしてその立場から基本的人権の尊重だと称して好き勝手をする。こんなものを基本原則として作成させられたのが現在の憲法なのです。
その主權概念は、今や多くの日本國民の思考回路にまで影響を及ぼしております。何を考える時もまず自分が存在します。自分の為に家族があり友達がいて、そして会社があり地域社会があり更には御國がある。これが戦後日本に蔓延る主權に侵食された者達の思考回路です。勿論個人差やそうではない人達もおられると思いますが、少なくとも無効な現行憲法を憲法として有効としそれを強引に罷り通らせ様とする者や、自分の気持ちのままに或いはその気持ちを維持したいが為に、若しくは気持ちを害されない為に非なるものを肯定したり無視をする者達。これらの人間は御國を思っているんじゃない。自分自身を思っているんだ。自分自身の利益の為に、若しくは自分が一度信じた者を裏切ることによってこれまでの自らを否定したくないが為に。そして、それは彼等も無意識の内に行っている可能性も十分にあります。何故ならば、それこそ主權概念が彼らには染み付いているからです。
我が國は、主權概念で埋め尽くされた戦後体制から脱却せねばなりません。我が國は本来ならば國體が支配する國です。國體とは何か。それは万世一系の皇統と大和言の葉の言語体型を中心に構成をされた、我が國固有の随神への古代精神と伝統文化歴史から抽出される普遍の真理の総体であります。
我等は主權概念を捨て真正伝統國家である我が國の臣民としての自律と自立をせねばなりません!
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