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支那共産政府・韓国政府によるわが国に対する軍事的圧迫、わが国領土の不当占拠・侵略策謀、様々な内政干渉に対して、わが国が毅然とした対応が出来ない原因の一つは、『村山総理談話』にある。
 
四宮さんの御話し
 
安倍内閣の菅官房長官が『村山談話』を踏襲するなどとあらためて表明し、高市早苗政調会長の発言を批判したことは、わが国の尊厳性・誇りそして日本民族の国民的自覚を回復し、国難を打開する道をふさぐことになる。
 
『村山総理談話』には、次のようなことが書かれている。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明いたします」。
  
「村山談話」には「国策を誤り」などと書かれているが、昭和三年から二十年までの十七年間に、総理は十四人、内閣は十五も成立しては倒れという状況であるから、一貫した国策など立てられるわけがない。
 
「植民地支配」とは、わが国の台湾及び朝鮮統治のことであるが、わが国の統治によって「多大の損害と苦痛」を与えたという事実はない。むしろその逆に、わが国の統治によって台湾及び朝鮮は近代化を遂げ発展したのである。    
 
当時の朝鮮が独立国家として自立していればわが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかった。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して事大主義(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本だ。朝鮮併合はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。
 
併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。
 
満洲事変は、日露戦争の結果得た満洲におけるわが国の正当な条約によるわが国の合法的権益を守り、居留民保護を主目的とし、当時混乱していた満洲の安定を図るための自衛権の範囲内の武力による解決であった。そもそも、満洲は元来が満洲民族の土地であり、漢民族の土地ではない。それは辛亥革命のスローガンが、また「滅満興漢」「反清復明」であったことによって明白である。
 
昭和十二年七月七日の支那事変の原因は、西安事件後、蒋介石政権が共産主義勢力と提携し反日運動を開始したことにある。この背景には、ソ連・中共による謀略があったことはいうまでもない。支那事変の発端は、蘆溝橋における共産主義者の挑発と謀略によるわが軍への攻撃である。わが国には、戦争計画など全くなかった。わが国は支那事変解決に努力したが、米英そしてソ連・中国共産党の策謀によって泥沼の戦いに陥ってしまった。満州事変・支那事変はわが国の一方的侵略ではない。
 
ともかく日本は、「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明」しなければならないような「多大の損害と苦痛を与え」た「戦争犯罪」をしでかした国ではない。『村山談話』の歴史認識は全く間違っている。このような『談話』は一刻も早く廃棄されるべきである。
 
 

乃木さん(再掲)

日本史上、親しみを込めて「さん」づけで呼ばれる英雄は多くはありません。
「さん」づけで呼ばれているその一人が西郷隆盛です。そして、もうひとりは明治から昭和の三十年代頃まで「さん」づけされていた乃木希典です。明治から国民が真に愛したのは伊藤博文でも坂本龍馬でもなく、西郷さんであり、乃木さんでした。
 
明治十年、西南戦争で西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲しました。
乃木は主力を率いて小倉を出陣し、夜行軍で熊本城の植木で薩摩軍と遭遇しました。
戦闘は凄まじい白兵戦となり、乃木は一時撤退を決意しました。その時、天皇陛下から授かった大切な「連隊旗」を敵に奪われてしまったのです。
陛下への忠義を自分の支えとしようとしてきた乃木にとって、軍旗喪失という軍人にあってはならない失態を犯したことは、乃木の心に重くのしかかりました。
乃木は恥辱のあまり、自分から死地に何度も入り、あえて薩摩軍の正面に立ち、敵弾にあたって死のうとしました。この乃木の異常な行動はやがて明治天皇の耳にも達しました。
すると明治天皇は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職からわざとはずすように命じられました。
明治天皇は乃木の責任感の強さに対して深く人間としての信頼の念を寄せられたのでしょう。
 
明治という時代に我々日本人が一番大切にすべき日本人の心が光り輝いた瞬間ではないでしょうか。
それは、陛下の軍旗を喪失した恥辱の臣に対して、明治天皇が乃木のまごころを知り、親が子を抱きしめるように許されたのです。そして、国民がこれを知り、共感することによって、己を虚しくしても大義に殉じる という明治の精神を確立したように思えます。
後年、乃木は明治天皇の後を追って殉死を遂げる際、この軍旗喪失への謝罪を遺言の第一に挙げています。

 
 
 
 
明治二十七年、日清戦争が勃発すると乃木は歩兵第一旅団を率いて出陣。
乃木の属する第二軍第一師団は堡塁と砲台に守られた旅順要塞をわずか一日で攻略しました。
蓋平の戦いでは桂太郎指揮する第一軍隷下の第三師団を包囲する清国軍を撃破するなど目覚しい活躍を遂げ、名将振りを世界に示しました。
乃木は「将軍の右に出る者なし」という賛辞を受けて凱旋帰国しました。
その後、台湾総督に就任した後、帰国し、新設の第十一師団長に任じられます。乃木はこの新設の師団の将兵を厳しく鍛えると同時に、深い慈愛をもって接したので、多くの将兵から信頼を得ていました。
 
真夏の炎天下、この師団の工兵隊が橋を架ける訓練をしていた日のことです。
気づくと乃木が一人で対岸の河原に立ち、こちらを見つめています。
やがて正午になり、兵士達が弁当を食べると、乃木も握り飯を頬張り、兵士が河原に寝転んで休息をとれば、乃木もそうしました。作業再開後、乃木は再び午前と同じ河原に立ち、夕方作業が終わるまでその場を立ち去りませんでした。最初は監視されていると思って緊張していた兵士達も、乃木が自分達とあえて困苦をともにしようとしているのだと気づき、感激しない者はなかったといいます。この第十一師団こそ、のちの日露戦争の旅順戦で乃木司令官の下、勇猛果敢に戦った師団の一つです。
わが身は常に兵士とともにある
乃木の指揮官としての姿は日本人が最も愛する名将の姿そのものであったといえます。
 
日露戦争後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は金子堅太郎子爵に「旅順砲台は今日世界の学術機械を応用した堅牢無比の砲台で、ヨーロッパやアメリカの軍隊ではこれを陥れることは思いもよらぬ。この難攻不落の旅順を陥れるのは世界でも日本の兵隊のみである」と言わしめたのです。
その難攻不落の旅順を落とした乃木大将が「日露戦争の英雄」として、長野師範学校で講演を求められた時のことです。
乃木大将は演壇には登らず、その場に立ったまま、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と、ひとこと言ってから絶句し、止めどもなく流れる涙を、延々と流しました。
これを見た生徒と教師らも、ともに涙を流し、慟哭したといいます。
乃木大将自身、息子二人も戦争で亡くしていましたが、それには一切触れず、少しも己の功を誇ることなく、多くの将兵を死なせた責任を痛感して慟哭する乃木の姿に人々は感動したのです。
「悪が栄えたためしはない」「因果応報」「撒いた種は刈り取らねばならない」「極悪人は畳の上では死ねない」という言葉があります。悪事を行った人は必ずその報いを受けるという意味の言葉です
四宮さんの御話し
 
ところが、幾百万幾千万の人々を殺した金日成・金正日父子、毛沢東、スターリンという二十世紀におけるもっとも残虐無比なる独裁者は、この世においては、裁きを受けることなく病死しました。(もっともスターリン・金日成には他殺説もあります)
 
私にはこれが不思議でなりません。金日成、毛沢東、スターリンの三人は、政敵を殺すのみならず、多くの無辜の国民大衆をも虐殺したまさに悪魔のような人物です。この者たちはきっとあの世で厳しい裁きを受けていると信じます。
 
... また、我が國の「革新勢力」と言われてきた勢力、「進歩的文化人」「リベラル」(実はリベラルとは全く逆の共産主義独裁思想に毒されている連中)と言われる人々は、スターリンのソ連、毛沢東の共産支那、そして金日成の北朝鮮を礼賛してきたのです。そうした人々(政党で言えば社民・共産両党、民主党左派、メディアで言えば『朝日』など)にその責任をとってもらわねばなりません。
 
ところが、スターリン・毛沢東・金日成を礼賛した勢力の系譜を引く者共が今日においても、「靖国問題」「戦争責任問題」「憲法」「国防安保」などで祖国の歴史を貶め、祖国の独立と安全を危うくしているのであります。
 
ともかく、共産主義を信奉し、日本に革命を起こそうとしてきた勢力は、二十世紀最悪の独裁者スターリン・毛沢東・金日成と同根でありその手先であるのです。そうした勢力はまたまだ力を持っています。
 
 
四宮さんの御話し
特定の民族を差別し排撃するのは良くない。レイシズム批判は結構だ。しかし、戦後朝鮮・韓国人がわが国及びわが国民に対してしでかしてきた無法行為・悪逆非道行為を忘却してはならない。この歴史的事実を今日の日本国民は正しく認識しなければならない。正しくこれを若い世代の人々に伝えなければならない。李承晩ライン廃止までの日本人抑留者数・拿捕された日本船舶数及び死傷者数は次の通りである。 抑留者数:3929人 拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人。こうした事への批判と怒りの表明は決して民族差別ではない。
我が国のかたち、天皇陛下の御臨席
西村眞悟衆議院議員の御話し
 
 昨日の東日本大震災二周年追悼式についてさらにお伝えしておきたい。
 それは、
 「天皇陛下の御臨席」
 ということである。
 ここに、我が国の戦前と戦後の一貫性、太古からの姿がある。
 この一貫性とは、天皇と国民の絆に顕れている。
 そして、この絆は、二年前の被災地に、また、昨日の追悼式に顕れていた。
 世界は、二年前の東日本巨大地震と津波のすさまじい被害に驚いたが、さらに驚いたのは被災地の日本人の姿だった。
 この世界が驚く被災地の日本人の姿と「天皇の御臨席」は不可分だった。
 
 日本人は、天皇との絆のもとに秩序を維持する民族である。
 このことは、昨日の追悼式にも顕れていた。
 参列した世界各国の外交官は、日本人以上に明確に感じ取ったはずだ(けがらわしい支那が、参列していなくてよかった)。
 天皇は、我が国の苦難の中における最高の危機管理者であり統治者である。それは、
「神聖にして侵すべからざる」存在である(大日本帝国憲法第三条)。
 事実、昨日もそうであった。
 追悼式は、天皇皇后両陛下御臨席、次に官房長官の開式の辞そして国歌斉唱と発災同時刻の黙祷で始まった。
 天皇皇后両陛下の御臨席は、午後二時四十分頃。
 式に出席する衆参議員は、午後一時三十分に国会正門前に集合してバスに乗り会場に向かった。会場到着は一時四十分頃。総理や閣僚もその頃到着し着席。多くのご遺族や多数の在京各国外交官も着席。
 そして、天皇陛下のご到着まで四十分間、深い静寂のなかで全員が御臨席まで待機していた。
 その間、まことに充実した時間だった。
 この静寂の時間によって被災者の霊と式場が一体化した。
 
 そのうえで、式場は最高の祠祭者であり危機管理者である統治者即ち天皇陛下をお迎えしたのである。
 この式場の秩序と静寂は、かつて「ことある時」に示された日本人の姿と同じ「底」から生み出されている。
 その同じ「底」から生み出された姿を、三つ記しておきたい。
 「底」とは、「ことあるとき」に顕れる日本民族の血に根ざす原始無限流動の力だ。
1(二年前の東日本被災地)、
 東日本被災地の学校の屋上に「SOS」を発見し、そこに着陸したアメリカ軍救援ヘリの女性機長の話。
「私はためらいながら着陸した。何故なら、アメリカを含む世界の國では、例外なく被災地に着陸した救援ヘリには被災者が殺到し収拾がつかなくなるからだ。
 しかし、その学校に着陸してみると、一人の老紳士が静かにヘリに近づいてきた。そして、三百人の被災者が居るといった。
 救援物資を渡すというと、整然とバケツリレーでそれを受け取った。物資の奪い合いなど全くなかった。
 暫くすると、彼はもういいと言った。まだあるからとさらに渡そうとすると、彼はきっぱりと断って、他の被災者に渡してあげてくれと言った。
 この日本人の姿は、アメリカ軍の公式記録に記載される」
2(昭和十九年、ビルマ戦線)、
 「日本軍の潜入攻撃の大胆さと、最後まで戦う勇敢さは驚嘆すべきものがあった。
 第三十三師団の部隊は、如何に弱められ、疲れ果てても、なおかつ本来の目的達成のために猛攻を繰り返してくる。第三十三師団のこのような行動は、史上その例を見ざるものであった。
・・・この企画を遂行した日本人の最高の勇気と大胆不敵さは、疑う余地なく、日本軍に比肩すべき陸軍は、他の如何なる國にもないであろう・・・」(英印軍第14軍司令官W・スリム中将)
3(昭和二十年、フィリピン戦線)、
「戦場であいまみえた仲でなければ、相手の偉大さは分かりません。あなた方日本軍の精強に私たちは驚嘆しています。
 さきにヨーロッパ戦線で日系市民志願兵で編成された第442部隊が樹てた偉大な業績は米軍内の驚異の的になっています。
 私たちはこの戦場で、その実際を身を以て痛感しました。・・・」(フィリピン戦線で日本軍と交戦した米軍師団長が降伏の処理を済ませた第十九師団長尾崎義春中将と参謀長に語った言葉)、以上二編、「日本兵法研究会」、家村和幸主催より。
4(昭和二十二年、昭和天皇佐賀県行幸のおり)、
 行幸先の道で、ソビエトに日本共産化を洗脳され日本赤化の為に速く帰国させられたシベリア抑留者が「引き揚げ者」という標識を掲げて集まり天皇の戦争責任を問責しようと待ちかまえていた。
 昭和天皇は、その「引き揚げ者」の前で深々と頭を下げられ、次のように言われた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だっただろうと思うとき、私の胸が痛むだけではなく、このような戦争があったことに対して深く苦しみを共にするものであります。
 皆さんは外国において築きあげたものを全部失ってしまったことであるが、日本という國があるかぎり、再び戦争のない平和な國として新しい方向に進むことを希望しています。
 皆さんと共に、手を携えて新しい道を築きたいと思います」
 
 昭和天皇のこのお言葉に接し、引き揚げ者一団は泣いた。
 そして、その中の一人が、陛下に次のように言った。
「天皇陛下様、ありがとうございました・・・
 天皇陛下様も苦しんでいらっしゃることが今分かりました。
 今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。
 天皇陛下様と一緒に私も頑張ります」(「天皇さまが泣いてござった」しらべ かんが著、教育社より)

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