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歴史
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「式年遷宮」の精神は復古即革新=維新
四宮さんの御話し
式年遷宮は、「今即神代」「天地初発之時への回帰」「復古即革新」といふ日本伝統の維新精神そのものである。そして三島由紀夫氏のいふ「オリジナルとコピーの弁別」がない日本独自の文化感覚の精粋である。 松尾芭蕉は、元禄二年(一六八九)九月十三日に外宮遷宮を奉拝した感激を『奥の細道』で、 ... 「尊さに 皆押しあひぬ 御遷宮」 と吟じてゐる。式年遷宮には、陸から海から神都伊勢を目指して多くの人々が集ひ、神と万物万生の再生・甦り・新生を祝した。 本居宣長は、寛政度の御遷宮に際して、寛政元年(一七八九)に 「ものいはゞ 神路の山の 神杉に 過ぎし神世の 事ぞとはまし」 と詠んでゐる。 大化改新・建武中興・明治維新などわが国の変革の基本理念は〈復古即革新〉である。現状を一新し変革することと〈元初のあるべき姿への回帰〉が相互に作用し一体となる。明治維新においては、近代的諸制度の形成といふ「御一新」と神武創業への回帰といふ「復古」は一体であった。復古即革新である。具体的にいへば、徳川幕藩体制打倒は天皇中心の國體明徴化であった。 明治維新後初めての御遷宮は、明治二年度の御遷宮である。その前段階として幕末の御蔭参りの国民的盛行があった。 御蔭参りとは、御蔭年に伊勢神宮に参拝することで、特に、江戸時代以降、間欠的におこった大群衆の伊勢参りをいふ。御蔭(恩恵)のいただけるありがたい年としてのお蔭年の観念が発生し、約六十年を周期として顕著にあらはれた。季節は三月ごろが多かった。御蔭年とは、伊勢神宮の御遷宮のあった翌年のことである。 明治二年三月の御遷宮は、まさに明治維新と呼応するものとなった。そしてこの年、明治天皇は、神宮を御親拝された。天皇の神宮御親拝は史上例のないことであり、旧来の陋習を改めて、皇祖神への御崇敬のまことを御自ら捧げられることとなった。 そしてこの年の六月に、諸侯の土地人民を天皇に奉還する「版籍奉還」が行はれ、各藩主が、その土地(版)と人民(籍)とを朝廷に奉還し、改めて知藩事に任命され、廃藩置県の前提となった。七月二は、「職員令」による新国家体制が発足した。 和辻哲郎氏は、「明治維新は尊皇攘夷という形に現わされた国民的自覚によって行われたが、この国民的自覚は日本を神国とする神話の精神の復興にもとづき、この復興は氏神の氏神たる伊勢神宮の崇拝に根ざしている。原始社会における宗教的な全体性把捉が高度文化の時代になお社会変革の動力となり得たというような現象は、実際、世界に類がないのである。」(『風土』)と論じてゐる。 古代ギリシアやローマは、恒久的な神殿を建設しやうと考へたが、結局は廃墟をのこすのみとなった。日本民族は、神殿を定期的に作りかへることによって、神及び神殿を再生し続けて来た。日本の神と神殿は、永久不変であると共に永遠に新しいのである。 天皇の皇位継承にもまったく同じ原理がある。天皇の玉体・肉身の更新は、そのまま神の御霊が新たに天降られるといふ信仰である。和歌は、五七五七七といふ定型は永久に不変であるが、その定型を護りつつ常に新たなる魂の訴へがその定型を維持しながら行はれる。 皇位継承・大嘗祭・式年遷宮・維新変革・和歌には、元初に回帰することが今新しきものを生み出すことであるといふ、同一の「復古即革新の原理・理念」がある。 「祭り」とは、神人合一の行事であり、罪穢れを祓ひ清め元初の姿へ回帰する行事である。天地宇宙の更新再生が、祭りである。元初伊勢の神宮はに回帰しつつ常に新たに生まれるといふ理念・原理=復古即革新が、日本文化の精粋である。それが現実の姿として顕現してゐるお宮が伊勢の神宮なのである。 |
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『村山談話』を踏襲してはならない
四宮さんの御話し 菅官房長官は二十七日午前の記者会見で、平成七年八月十五日に出された村山富市総理大臣の『戦後五十年目にあたっての総理談話』談話について、「歴代内閣の立場を今後とも引き継いでいきたい」と述べ、第二次安倍内閣として踏襲する考えを表明した。 支那共産政府・韓国政府によるわが国に対する軍事的圧迫、わが国領土の不当占拠・侵略策謀、様々な内政干渉に対して、わが国が毅然とした対応が出来ない原因の一つは、『村山総理談話』にある。 ... この『談話』を安倍内閣が否定したら、偏向マスコミと国内の反日勢力そして支那や朝鮮が猛然と反発することは明らかである。しかし、『村山談話』を踏襲するなどとあらためて表明したことは、わが国の尊厳性・誇りそして日本民族の国民的自覚を回復し、国難を打開する道をふさぐことになる。 『村山総理談話』には、次のようなことが書かれている。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明いたします」。 『村山談話』には「国策を誤り」などと書かれているが、昭和三年から二十年までの十七年間に、総理は十四人、内閣は十五も成立しては倒れという状況であるから、一貫した国策など立てられるわけがなかった。 「植民地支配」とは、わが国の台湾及び朝鮮統治のことであるが、わが国の統治によって「多大の損害と苦痛」を与えたという事実はない。むしろその逆に、わが国の統治によって台湾及び朝鮮は近代化を遂げ発展したのである。 当時の朝鮮が独立国家として自立していればわが国は、日清・日露両戦争をする必要もなかったし、朝鮮を併合する必要はなかった。しかし、朝鮮が支那やロシアに対して事大主義(支那・ロシアという勢力の強い国に従って言いなりになること)に陥り、支那・ロシアの属国となってしまう危険があった。朝鮮半島がロシアの支配下に入れば、次は日本だ。朝鮮併合はわが国の独立と自存のための止むを得ざる選択であったし、当時の国際世論の認めるところであった。 併合後は、わが国の指導と投資により、南北縦貫鉄道の施設、多角的港湾の設定、多種多様の殖産興業、教育の普及、保健衛生施設の拡充、水利灌漑施策の充実等々、近代化建設はめざましいものがたった。これは台湾も同様である。 満洲事変は、日露戦争の結果得た満洲におけるわが国の正当な条約によるわが国の合法的権益を守り、居留民保護を主目的とし、当時混乱していた満洲の安定を図るための自衛権の範囲内の武力による解決であった。そもそも、満洲は元来が満洲民族の土地であり、漢民族の土地ではない。それは辛亥革命のスローガンが、また「滅満興漢」「反清復明」であったことによって明白である。 昭和十二年七月七日の支那事変の原因は、西安事件後、蒋介石政権が共産主義勢力と提携し反日運動を開始したことにある。この背景には、ソ連・中共による謀略があったことはいうまでもない。支那事変の発端は、蘆溝橋における共産主義者の挑発と謀略によるわが軍への攻撃である。わが国には、戦争計画など全くなかった。わが国は支那事変解決に努力したが、米英そしてソ連・中国共産党の策謀によって泥沼の戦いに陥ってしまった。満州事変・支那事変はわが国の一方的侵略ではない。 ともかく日本は、「多大の損害と苦痛を与え」、「痛切な反省の意を表し、心からおわびの気持ちを表明」しなければならないような「戦争犯罪」をしでかした国ではない。『村山談話』の歴史認識は全く間違っている。このような『談話』は一刻も早く廃棄し民族の誇りを取り戻すべきである。 |
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マルコムXの御話し
彼は一時期刑務所に入れられていたが、出所後一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には刑務所内の図書館だと答えている。マルコムは自伝で、大学や大学院を卒業している黒人を「白人に従順になるように調教されたことに気付かない哀れな家畜だ」と述べている。
現在の我が國にも誰かさんに従順になるように調教された、或いはそのことにすら気付かない哀れな家畜という奴はいるのではないのかな。
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