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尊皇攘夷の精神と現代
四宮さんの御話し
先日、ある方と懇談をしていて、心に残る話を聞いた。その方は、「日本の現状を憂え祖国を守る戦いは重要だが、その根幹にしっかりとした尊皇精神が無ければならない。明治維新は、『尊皇攘夷』を基本理念にした戦いであった。今日も戦いもそうであらねばならない」と語っていた。全く同感である。 明治維新は、西洋列強の日本に対する圧迫が強まった時、これを撥ね除けるために、「藩」といふ地域そして「士農工商」という身分制度を乗り越えて、天皇を中心とした日本國家・民族の一体感・運命共同意識を回復して外敵に当たろうとしたのである。それを「尊皇攘夷」といふ。天皇を尊び、外國の侵略からわが國を守るといふ精神である。 ... 「攘夷」とは夷狄(野蛮な外國)を討ち攘ふといふことである。西欧列強といふ侵略者、異質の文化に直面した日本民族の國民的自覚と祖國防衛・独立維持の情念の噴出である。アメリカやロシアの軍艦の来航といふ國家的危機に直面して、國防意識が全國民的に高まった時に、自然に発生し燃え上がった激しき情念である。 天皇中心の國體を正しく開顕し、天皇を國家の中心に仰いでこそ、日本國の主體性は確立され、外國の侵略を撃退し祖國の独立を維持することができる。事実、明治維新断行後、天皇を統治者として仰ぎつつ、封建的身分制度は廃止され、廃藩置県によって統一國家が建設され、帝國憲法の発布・議会政治が開始された。そしてわが国は、欧米列強の支配下に置かれることはなかった。 共産支那や北朝鮮の「傲慢無礼」な反日政策・対日侮蔑外交・軍事的恫喝が繰り返されている今日、わが國民は、「民族の正気」を回復し、屈辱と汚名を晴らす行動に出なければならない。 現代日本は、國民の皇室尊崇の念が薄れつつあり、伝統信仰が顧みられなくなりつつある。これが今日の國家の弱体化の原因であり、このままでは國家崩壊につながる。民族の正氣・日本の心を回復せしめなければ日本は危うい。 外患に当って、「神祭・神事」が盛んになるのは、わが國の伝統である。現代においてこそ、祭祀主日本天皇の真姿が開顕されるべきである。今こそ天皇を中心とした國家の回復を目指す皇道大維新運動を繰り広げねばならない。 今日の日本も内憂外患を除去するために、明治維新の精神に回帰し、明治維新と同じように、日本的変革の原理たる「天皇中心の國體の明徴化」の理念を基本とした大変革即ち平成維新を断行しなければならないと信ずる。 維新という言葉が乱れ飛んでいる。とかと、「尊皇攘夷」の精神が確立されていないで、真の維新が出来るはずがない。日本國體を破壊せんとし、祖国日本の独立を危うくしている勢力即ち社民・共産・民主党左派・小沢一派など非日勢力を一掃しなければならない。 |
歴史
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素晴らしきかな乃木将軍
宮内省主馬頭子爵藤波言忠が旧長府藩士桂弥一との世話話の中で話されたこと 藤波が尋ねた
「乃木中将はこの長府の出じゃが承知か」 知るも知らぬもない。桂は乃木の親友中の親友だが、その様な素振りを見せずさり気なく、「はい、しかし只今は休職中ではありませぬか」と答えた。すると藤波はこう言った。 藤波
「成程、乃木君は休職になっておるが陛下の御信任が異常じゃて、國に万一のことがあれば必ずお召しになることと信ずる。かつて陛下が御酒をきこしめされ、天機殊のほか御うるわしく拝した折柄、私に『乃木は他の者と心掛けが違っておる。多くの者は休職になるとか、予後備に編入されれば遠くで挙行する演習地にはでかけぬ。出掛けてもただ後方にあるのみであるが、乃木のみは決して左様ではなく如何なる遠い場所にでも必ず来ておる。来ておるのみでなく、士卒と苦労を共にしていつでも第一線にあって視察しておる』と仰せられたことがある。並々の御信任でないので、必ず万一の時に乃木さんは召されることと確信する」 と話されました。 明治天皇御製
もののふの攻めたたかひし田原坂松も老木となりにけるかな (西南戦争においてことに奮戦めざましかった乃木のことを思われて与えられた御製) この様な乃木であったから、陛下はこの御製を賜ったのであります。かくして明治三十七年五月二日、乃木将軍は第三軍司令官に新補された。そして、その悦びを乃木さんは次のように詠んだ。
此儘に朽も果つべき埋木の花咲く春に逢ふぞ芽出たき
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明治陸軍の総帥たる山県有朋卿が期待をしていた若手三羽鳥といえば、乃木希典、政治家肌の俊秀桂太郎そして、融通無碍で俊敏であり決して迎合をしないが、山県卿に睨まれる様なへまもしない児玉源太郎でありますが、私が一番尊敬をしている方は乃木閣下であります。勿論御三方共に素晴らしく御座いますが、その中でも乃木閣下は徹底して自己の信念を貫き、國軍のあるべき姿の実践を目指していた方であります。
乃木閣下の自己の信念とは、國軍の大元帥たる明治天皇が自ら下されたものである明治十五年発布の陸海軍人に下し給える勅諭の厳正な実践にあります。
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我が國において最も日本人として成熟をなされた方の御一人であります。我等現代に出現出来ている日本人は御手本とし、本物の日本人乃木希典となりましょう。それしか我が國を救う手立てはないと存じます。
西村眞悟氏の御話し
乃木希典、高貴なる明治、祖国の回復
No.775 平成24年 9月11日(火) 明治は、明治四十五年七月三十日の明治天皇崩御と、続く九月十三日の乃木希典と夫人静子の殉死によって終る。 本年は、その明治が終って百年、大正が始まって百年の年である。 明治天皇は嘉永五年(一八五二年)十一月三日にお生まれになり明治四十五年(一九一二年)七月三十日に崩御された。
乃木希典は嘉永二年(一八四九年)十二月二十五日に生まれ大正元年九月十三日に自決。 夫人静子は安政六年(一八五九年)十一月六日に生まれ希典と同日自決。
本年は、七月三十日の明治天皇崩御百年の日を過ぎたころより、上京して皇居前を通るたびに、殉死を待つ乃木閣下は、如何なる思いで毎日この道を通って明治大帝の眠る皇居に通っていたのだろうかとたびたび思った。 この時期、乃木邸を訪れた人が、蕎麦しか御馳走が出なかったと愚痴をこぼしたが、後に武家は腹を切る前には蕎麦しか食べないと教えられて粛然となったという。
昨日(九月十日)、梅田に行く途中で、西南の役以来の戦死者を葬る大阪城南の玉造の陸軍墓地を訪れた。 小雨の中で、日露戦争における戦死者の墓域にでると、明治三十七年五月、南山で戦死した陸軍少尉の墓に出会う。 そして、乃木閣下の長男乃木勝典少尉と、同じ戦場で同じ頃戦死した大阪に眠る若き将校の霊に手を合わせた。
九月十三日は、東京乃木坂の乃木邸に隣接する乃木神社で行われる御祭神百年祭に参列させていただく。 日露戦争が日露講和によって集結し、東京に凱旋する乃木大将の姿を私の祖父が観た。 その祖父が娘である私の母(明治四十二年生まれ)にその様子を伝え、母が私に語った。 乃木大将は、恥じるように下を向いて凱旋してきた、と。 世界最強と言われたロシア陸軍からは、乃木は悪魔だ、乃木には悪霊がついていると恐れられ、世界に武功を轟かせた将軍は、二人の息子とともに戦死することを願い、生きて還ることを心より恥じていた。 日露戦争が終わり、国民は乃木第三軍が遭遇した旅順と奉天の戦いがいかに困難な難戦であったかを知っていた。また、乃木が、その戦いの中で二人の息子を亡くしたことも知っていた。
乃木のように多くの親が息子を亡くしていた。
人々は乃木のことを思い、次のように歌った。 「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした方もある」 なお、静子夫人について書いておきたい。 彼女は五人の子供を産んだ。育ったのは戦死した勝典と保典だけであとの三人は皆成人になる前に夭折した。 うち一人は女の子だったが二歳で亡くなり、その墓は熊本城を望む陸軍墓地にひっそりと建てられている。 十年ほど前、その墓の周りの草をとったことがある。
明治三十七年五月二十七日の南山における長男勝典戦死の報に接し、静子は三日間泣き通し血の涙を流したと伝えられている。 しかし、同年十一月三十日の次男保典戦死の報は静かに受け止め泣かなかった。それを予知していたからだ。
彼女は、水をかぶり、伊勢神宮に参って旅順を陥落させたまえと一心に祈った。その時、 旅順は陥落させる、そして、子供は全て召し上げる、
という声を天啓のように聞いたと言われている。 写真に写る静子の顔は、蝋人形のようだ。 これが生んだ五人の子供をすべて亡くした夫人の顔だ。
乃木大将は、自分の殉死の後も夫人に生きてほしかったようだが、この人が夫の殉死後、生きるはずはない。 昨年三月十一日に東日本を襲った巨大地震巨大津波による国難の中で、本年の明治天皇崩御、乃木希典殉死百年を迎えることは、我が国に対する天の人知を超えた配慮と思える。 この二つによって、我々日本人は、一つの時代の終焉と回帰するべき場所を与えられるからである。
一つに時代の終焉とは、「戦後憲法体制の終焉」である。 昨年の巨大地震・巨大津波の国難は、津波が戦後憲法の枠を乗り越えて粉砕したことを明らかにした。 天皇陛下は、最大の危機管理者としての姿を顕され、戦後憲法では違憲とされる自衛隊の奮闘を讃えられ、国民は戦後憲法的個人主義を捨てて、乃木希典の時代の倫理に生きた。即ち、己一個の利を捨てて顧みないという倫理に生きたのである。
警察消防従事者の殉職者二百六十九柱。さらに、南三陸町の職員で死地に留まって町民に避難をマイクで呼びかけ続けた若き女性ら、身を犠牲にして人を助けた無量の人々の存在がこれを示している。
この人々は、乃木希典のもとで、この戦争に負ければ日本が滅びると知っていて、命令されなくとも自ら死地に赴いた兵士と同じである。
ここにおいて、回帰すべき民族の姿が甦り、昭和戦後期の乃木希典に対する司馬遼太郎的冷笑の時代、即ち、戦後憲法体制は終わった。 さらに、本年、明治天皇百年祭、乃木希典百年祭を迎える。
この民族の姿を示す明治天皇と乃木希典の時代がなければ、我々は今、日本人として生まれ日本人としていきることはできない。 つまり、我々日本人は、国難と明治天皇百年祭の中で、
「祖国」を回復するのだ。 明治への回帰は、即ち、祖国の回復である。 九月十三日の乃木希典殉死の日に、教育勅語を読み直し、
この勅語の精神によって、一日も早く国民教育を実施しようではないか。 なお、本日の産経新聞朝刊の「正論」は、小堀桂一郎先生が書かれている。貴重な論考である。ご一読いただきたい。 また、岡田幹彦著「乃木希典、高貴なる明治」(展転社)は、まことに名著だ。是非お読みいただきたい。
この一冊で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」がたとえ数十巻あっても、遥かにそれを凌駕している。 西村真悟事務所 |
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乃木大将は明治天皇に忠誠を尽くす心が格段に高い方でした。
7月30日に明治天皇がお隠れになり、9月13日に御大喪が行われました。
その40数日間は皇族や政府高官など選ばれた方々が交代でお通夜申し上げましたが、乃木大将は朝・晩2回の通夜をその間1日も欠かされませんでした。2、3回お通夜申し上げたという人はいても、朝・晩2回の通夜を1日も欠かさない人は乃木大将だけでした。それほど明治天皇に対するお気持ちが強かったのです。
・・・・・・
乃木大将は桂太郎首相とそりが合わないこともあり、4度も休職されますが、すぐに復職させたのは明治天皇の勅命でした。日露戦争で第三軍の司令官に任命されたのもそうです。
旅順がなかなか陥落せずに「乃木を辞めさせろ」という声があがった時に、元老の山県有朋はやむを得ず自分の部下である乃木大将を更迭しようとしました。それを「乃木を変えてはならん」とお止になったのは明治天皇でした。
乃木大将は明治39年1月14日に凱旋し、明治天皇に復命書を奏上されました。
「我が将卒の常に強敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、
弾たおれ、剣にたおるるもの皆、陛下の万歳を喚呼し欣然と瞑目したるは、
臣これを伏奏せざらんと欲するも能はず」
涙声とともに下る復命書をお聞きになった明治天皇は「これは自決するな」とお察しになり、
「朕が死ぬまで死んではいかん」とおさとしになりました。
そして、学習院長を勅命され、御孫の昭和天皇をお預けになりました。
乃木大将の静子夫人にもこのようなお話があります。
明治42年、旅順白玉山の慰霊祭に乃木大将ご夫妻が参列されました。
ここでは大変多くの部下を失いました。
乃木大将は祭文を奏上されました。
この祭文は通常は副官が書くものですが、乃木大将は全て自分で書かれました。
その時、静子夫人は遺族席の末席で目立たないように参列されていました。
やはり公私のけじめで将軍夫人、第三軍司令官の奥様としてではなく二人の息子を亡くした遺族として参列されたのです。その後、ご子息が亡くなられた場所に赴き、ビールを献酒され、夫人はこう言われました。
「息子二人の慰霊が終わったら心がすっきりした」
二人のわが子を亡くしてどうしてそんなにすっきり出来るのかと聞くと、
「公を立てれば私ならず。私を立てれば公ならず。 人生とはそういうものです」
息子二人を日露戦争で亡くしたにもかかわらず静子夫人は毅然とした方だったのです。
乃木大将の静子夫人との最後の別れの杯は明治天皇から頂いた葡萄酒でした。
乃木大将は最後の殉死に至るまで明治天皇への「忠」に徹した人生でした。
乃木大将の辞世はこのように詠まれました。
神あがり あがりましぬる大君の みあとはるかに をろがみまつる
うつし世を 神さりましし大君の みあとしたひて 我はゆくなり
乃木大将が学習院長として最後のお別れの講義を小学生にされたときに、
乃木大将は「日本はどこにある?」と生徒に質問されました。
3、4人が「東洋の東側」「緯度何度」といった地理的な返事をしたのを聞かれて、
乃木大将は「それぞれに間違いはない」、
そして、自分の胸を叩いて「本当はここにあるんだよ」
とおっしゃって、静かに壇上を降りて学習院を去って行かれたといいます。
後日、小学生の意見が新聞に紹介されました。
「西郷隆盛も武士、大久保利通も武士である。しかし乃木大将はその上の武士である」
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