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妄(みだ)りに人の師となるべからず
又妄りに人を師とすべからず 吉田松陰先生の御言葉です。
安易に、きちんとした理由もないのに、人の師となってはいけないし、そして誰かを師としてもいけないという意味です。 原文は、この語録よりもう少し長く、
師道(しどう)を興(おこ)さんとならば、
妄(みだ)りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。 必ず真に教ふべきことありて師となり、 真に学ぶべきことありて師とすべし。 上司や教師、いわゆるリーダーのあるべき姿として、 この松陰先生の言葉を引用し、語られることが多いのですが、 この言葉を発信した松陰先生の本意は、もっともっと深いところに あるようです。 この言葉が持つ本当の意味を、 松陰研究歴40年の、川口雅昭氏(人間環境大学教授)は、 以下のようにおっしゃっています。 『 この言葉はよく一般論として、教師、上司はこうあらねばならない という引き合いにだされるが、実はそうではない 知識があるとか、品行方正、学術優秀な教師はたくさんいると。
しかし松陰のいう師弟関係とは、国家のために死ねと命令したら死ね。
死ねない人間は弟子になるな。 これに対して弟子も、先生の言うことなら死んでもいいという。
両者の思いがそのレベルで一致して初めて師弟関係となる。 』
と。 |
教育
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遠藤健太郎ブログの御紹介です。http://endokentaro.shinhoshu.com/japan/post2508/暴走する児童相談所の問題皇紀2672年(平成24年)8月1日
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye5095097.html
▲東京放送(TBS):「虐待ではない」両親が児童相談所を提訴 東京都内の児童相談所に対し、「虐待ではないのに子供(男の子)を保護されたため、子供と家族が長期間離ればなれになった」「誘拐みたいにされた」というご家族が損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしました。
審理の中で家庭裁判所は児相側のずさんとも言える調査内容を指摘し、その一例として、虐待によるとされたやけどを鑑定した医師にそもそも児相が不鮮明な写真のコピーしか渡していなかったことが判明しています。
また、保育園への聞き取りもなく、当日やけどに驚いたご両親が子供を病院につれていったことも見落とされていました。すでに家裁は男の子を家に戻すよう決定を出しましたが、それは保護から十か月も過ぎてのことだったのです。
このような問題は、私がかつて南出喜久治弁護士より強い要請を受けて静岡県内の児相による一方的な「家族の引き剥がし」を講演会(静岡市で開催)で取り上げました。しかし、行政は児相の介入拡大を図るばかりで、別に生じている問題が報じられることもありません(むしろ児相の過介入をよしとする報道ばかり)でしたが、ようやく東京放送が七月三十一日、報道番組で取り上げたようです。
教育を目的としない有形力の行使は子供どうしの虐めと同様に犯罪を構成しているのであり、決して許されません。警察が処理すべき案件に児相が過介入し、すなわち児相の本来役割を飛び越え、その結果しつけをも虐待と判断する一方で犯罪とも何ともしないまま(訴えるのが難しい状況に追い込んで)家族をただ崩壊させています。
この指摘に対し、「全国の児相においてそのような実態はない」「おまえらは出鱈目を言っている」などと市職員側に強弁されましたが、今回報じられたように実際にあることなのです。改めて申しますが、是非とも知っておいてください。 |
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皆様、いつもいろいろとありがとうございます!少し古い原稿なのですが、非常に基礎的な実験心理学論文です。
『個人の大衆性と
弁証法的議論の失敗に関する実証的研究』 この論文は、
「まともでない人が一人でも混じると、 ... その議論・討論は、もうメチャクチャになる」 という仮説(←もちろん、原稿内ではもうちょっときちんとテーゼを定義しています 笑)を検証するための、実験心理学研究です。まだ、査読が通っていないのですが、当方が手がけたいろんな心理実験のなかでも、特におもしろい結果となったもので、当方の一番のお気に入りの研究の一つです(笑)。 で、もちろん(!)上記仮説は実験で支持されました。兎に角、まともな人同士の議論では、議論がおもしろいほどにドライブして、当人が事前に思いもつかなかった次々といろんな発見をもたらしていくのですが、そんな議論の中に「一匹」だけでもまともでない人が混入すると、その議論は台無しになってしまってしまう....という大変残念な(でも、仮説通りの!)結果になりました。 ....ということで、誰彼と無く議論するのは、ホント、徒労におわるだけのむなしい時間になるのは百も千も万も承知なのですが、いろいろな事情を勘案すると致し方なく、そういう無駄な討論の場に(公衆の面前も含めて!)ノコノコでかけていくこともやむなしと自らの愚挙を許容している次第です(笑)。 .....さて、本FBは(完全公開のブログでありませんから)厳密な意味で「公共の場」とは異なりますので、この場でそういう徒労に終わることがほぼ目に見えている論争をすることは控えています..... ....で、しつこいようですがなぜ控えているのかというと、下記論文で実証されている「まともでない人との議論は無駄である」という仮説が真であろうと確信しているからです。 この世の中、なかなか難し事がいろいろございますが、これからも皆様、是非是非(!)、どうぞよろしくお願いいたします。 ....ということで、「なぜ、藤井はこのFB内で論争しないんでしょうか!?」なる疑問をお持ちの方が万一おられとしたら。。。。ということを僭越ながら想像しがてら、当方のお気に入りの実験心理学研究論文を一つ、ご紹介させていただきました。 |
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我が國には教育が無い
戦後における我が國には殆ど教育はありませんね。本来有った知育、徳育、体育という教育の殆どがありません。今の教育にあるのは、知育の中の知識の部分のみであります。後はおぞましきかな日教組教育位です。もつと言えば偏差値教育というやつですね。ただただ知識のみを頭に詰め込んでいるだけです。
そもそも知育における最大の目標は知恵、詰まりは論理的思考能力を育てる事にあるのですが戦後における知育にはそれは殆ど無いのではないでしょうか。偏差値とは頭の良さを測るものでは無く記憶力の良さを測るものであると思います。しかもこれは華僑が作ったものです。その様な偏ったものに頼る様な事ではもう無茶苦茶です。
教育では、本物の日本人を作らねばなりません。
本物の日本人とは、きっちりと知育、徳育、体育を受け、そして身に付けた者の事。 知育とは何か。
それは人間としての能力を強化する事。 徳育とは何か。 それはその能力をどの様に使っていけば良いのか。その方向を定める事。 体育とは何か。 それはその強化された能力と正しく定められた方向を実践の場できちんと使っていく為の能力の事。 であると私は思っています。
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謙遜と卑屈
現代においてはこの2つがごっちゃになり、当人としては謙遜で言っているつもりでも実際は卑屈な発言、行為でしかないことを行っている方達が現代の我が國には結構いる様に思います。 卑屈とは、例えば自分の能力が低いことや失敗をした、悪いことを行ったことがあるなどを、他人事の様に又は必要以上に御話ししてみたりする。それは自らを貶める行為であり自分自身のそういった部分の認識と強化や反省を行うという気持ちに対し、心の中のハードルを下げ妥協をしてしまうという意識の強化をしてしまう行為であると思います。
そしてそれを聞く側の人間に対しても後向きで卑屈で歪な意識を与えてしまうことになります。それでは世の中は良い方向へは行きません。世の中には常に前向きで建設的な流れ、うねりを作っていかなくては世の中は崩れていきます。当然國も傾きます。
逆に謙遜とは、自分が素晴らしいことを行い人からそのことについて褒められた場合に、いやいやその様に大した事は行ってはいませんよと言うことだと思います。
これは世の中の人の意識における常識、普通という部分を出来るだけ素晴らしいことを行うことが当たり前となる様な方向に、前向きに建設的に引き上げていくことを目的とした行為であり、世の中にとっても非常に良い影響を与えるものだと思います。
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