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思想
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人と意思疎通を行い御互いの気持ちや考えを分かり合うことは大変ですね。何度も会いそして何度も意思疎通を繰り返してやっとかなりの部分まで分かり合える。そうして初めて先生や生徒という一方通行的な関係性などをも超えた真の友情が生まれます。そして、その関係性に志を同じくすることを加えればその相手は同志となります。
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我々は、人間としてのあるべき姿、理想に向って進んでいくことは大切だと思います。その意味で、キリスト教・儒教・仏教の説く教えには意義があると思います。しかしなかなか実行できない教えが多いことも事実です。
四宮さんの御話し イエス・キリストの『山上の垂訓』に次のような言葉があります。 「『目には目を、歯に歯を』といへることあるを汝らは聞けり。されど吾は汝等に告ぐ。悪しき者に逆らふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。下着を取らんとするものには上着をも取らせよ」 ... これはなかなか実行出来ない教えです。もしもキリスト教徒の右頬を理由なく打ったら、彼等は果たして左頬を向けるでしょうか。牧師さんや神父さんでもそのようなことはしないのではないでしょうか。 キリスト教国であるアメリカは、真珠湾攻撃を行った日本に対して、日本中の都市に空爆を行ない、広島長崎に原爆を落し、幾十万の無辜の日本人を殺戮しました。「目には目、歯には歯」以上の報復をしたのです。「汝の敵を愛せよ」「右の頬をうたば、左をも向けよ。下着を取らんとするものには上着をも取らせよ」どころではありません。 国家にしても個人にしても相手が殴って来ないようにすることが大事です。それには防衛体制を整えることであります。そして殴ってきた敵、あるいはまさに殴ろうとしている敵に対しては、今はやりの言葉で言えば、無慈悲に対応すべきでありましょう。 |
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明治維新の精神
四宮さんの御話し 今日、多くの政治家や政治勢力が「維新」という言葉を使っている。 わが國有史以来未曾有の大変革であるところの明治維新の基本精神は、慶應三年十二月九日、明治天皇『王政復古の大号令』に示されているように「諸事、神武創業の始に原(もと)づき、……至當(しとう)の公議を竭(つく)し、天下と休戚(きゅうせき)を同く遊ばさる可(べき)き叡念」ということである。「休戚」とは「喜びも悲しみも」という意である。「万事、神武天皇御創業の根本精神にたちかえり、……積極的に筋の通った公正な論議を尽くして、天下の民と喜びも悲しみも共にされるという御心……」というほどの意であると拝する。 ... 慶應四年八月二十七日に京都御所紫宸殿で行われた明治天皇即位式の『宣命』には、「方今(いま)天下(あめのした)の大政(おほまつりごと)古(いにしへ)に復(かへ)し賜ひて、橿原の宮に御宇(あめのしたしろしめし)し天皇(すめらみこと)御創業(おんことはじめ)の古(いにしへ)に基き……」と示されている。 明治天皇は、さらに、 「橿原のとほつみおやの宮柱たてそめしより國はうごかず」 「橿原の宮のおきてにもとづきてわが日本(ひのもと)の國をたもたむ」 と詠ませられている。 明治維新の基本精神は、「神武創業への回帰」すなわち、神武天皇が大和橿原の地に都を定められた精神に帰ろうということである。この精神に基づいて大変革を断行したのである。明治維新そして明治期の日本近代化は、実に神武創業への回帰の精神がその根底にあったのである。 ただし、明治維新の基本精神たる「神武創業への回帰」とは、時計の針を昔に戻すということではなかった。 「諸事神武創業の始めに原(もとづ)き」とは、「復古」の精神であり、「至当の公議を竭(つく)し」「旧来の驕惰の汚習を洗ひ」とは、「革新」の精神である。議会政治を開き民意をきこしめす精神が示されてゐる。「神武創業の精神」に基づいて旧体制(幕藩体制)を根本的に変革し、封建体制を解体し、廃藩置県を断行し、身分差別をなくし、さらには憲法を制定し、議会を開設するなどの大変革を行ったのである。ここに、外国の革命とは全く異なる日本的変革すなはち維新の根本がある。 今日維新を口にする人々にあえて言いたい。神武天皇御創業の御精神への回帰そして尊皇攘夷の精神なくして維新はあり得ないのである。 |
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日本民族の自然観
四宮さんの御話し
自然と人間との関係において人類は大きく二つの立場を持っている思われる。自然を征服し支配し造り変えるという対し方と、自然を離れず自然に即し、自然と共に生きるという対し方である。ユダヤ教・キリスト教・マホメット教という一神教は前者、神道と呼ばれる日本固有の宗教、そして仏教・ヒンズー教などは後者である。 自然と共に生きるということは自然の命と人の命を連続したものと見るということであり、自然は神から生まれたという信仰つまり自然の中に神を見るという信仰から出てくる精神である。 ... 世界各地の神話は、人類最初の男女神はまず最初に人間を創造している。キリスト教の『創世記』には「はじめに神は天と地とを創造された」とあり、「神は自分のかたちに人を創造された。…神は彼らを祝福していわれた。『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ、…すべての生き物とを治めよ』。」と書かれている。神は創造者であり、天地自然や人間は創造された物であるということは、<神>と<天地及び人間>とは<別個の存在>であるということである。そういう考え方からは、自然は神や精靈が宿る神聖な存在であるという信仰は生まれない。 また、人間は大地を服従させ、すべての生物を支配することを神から許されたのだから、人間が自然をいかに造り変えても構わないし、また生物を生かすも殺すも人間の自由である。近代科學技術・機械文明による自然の造り変え・自然破壊が何らの罪悪感無しに行われてきた思想的根拠は実にここにある。 ところがわが國の神話は、伊耶那岐命と伊耶那美命の「むすび」によって國が生まれたとする。自然も國土も神から生まれたのだから神の命の延長である。また、日本の創世神話は単に「大地の創造」ではなく「國土の生成」である。伊耶那岐命・伊耶那美命がお生みになった大地は、無國籍にして名前もない土の塊としての大地ではなく、國土であり生まれた國には神の名が付けられているのである。大八洲は神の住みたもう國土として把握しているのである。つまり天地自然を神として拝んだのである。 このような信仰は、自然と人とは相対立する存在とは見ない。神と人と自然には命の連続性があると考え、國と人とを一体のものとして把握する。ゆえに、日本人は本来自然を尊び破壊しないという生き方をとってきている。日本人の自然観は、人間が自然を征服し作り替え利用するという西洋の自然観とは断然異なるものである。 日本民族は、神も國土も人も、共に靈妙なる一体的生命存在として把握しているのである。日本民族においては本来、「今」がそのまま「神代」だったのである。「神代」とは遠く遥かな過去の時代のことではなく「今」なのである。現代の混迷と危機を打開するために、「今即神代」の精神を回復すべきである。 |


