本能寺の変直後に活躍の広瀬兵庫助は、関ヶ原の戦いに敗れ出家!!

広瀬兵庫助からのメッセージを伝承する「広瀬兵庫助伝」です。
【「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助から長男への超難解な手紙を解読】
 
広瀬兵庫助に関する古文書3点を所蔵するN(会社社長=東京在住)から同古文書3点の展示寄託を受けた長浜城歴史博物館は、201510月に「広瀬兵庫助に関する秀吉文書の発見」として同館館長のマスコミ発表を行い(広瀬兵庫助の出自についての同館誤発表の経緯は、私のブログで公開しています)、同年11月に同館では3点の内の2点を公開展示しました。公開しなかった残りの1点が、『「関ヶ原の戦い」で敗れた広瀬兵庫助から長男への手紙』です。
 
この手紙は、兵庫助が長男の太郎宛に書いたもので、1600915日の関ヶ原戦いに西軍として出陣して敗れた兵庫助が、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内)に在住する太郎宛へ書き綴ったものです。

実物は部分的かつ結論中心の短い文章で、難解な表現もあり容易には解読できない手紙です。40年にわたる兵庫助の調査研究分析に基づいて解明した分かりやすい解説も付け加えて、下記の通り判読しました。重大な決意をした広瀬兵庫助が、秘蔵の刀を形見として太郎へ譲ることを記した遺書を兼ねた戦記書簡です。(幼少の太郎へ伝えたい内容で、現実的には美濃国の妻への書簡とみなします)
私は、武門の家柄の生まれで刀を所持する立場になったが、刀で人物を斬ることは人として過ぎたることで、無常であると考えている。
刀工【正利(坂倉関)(正利は、現在の美濃加茂市で活躍した室町時代末期の「美濃刀鍛冶」で伊勢国の村正の門人)に打たせ(広瀬兵庫助が美濃国出身で縁があり、美濃の刀工に発注した)、銘を入れさせて秘蔵(人を斬ることは無いと心に誓い)していました。 
 その後、図らずも秀吉公に巡り合うこととなり1582年には秀吉公の家臣となり、(不本意にも)数度の戦乱に出陣して多くの軍人を斬ってしまった。その数は不明です(誓に背き心が痛い) 
 秀吉公の死後、美濃国広瀬城主・近江国新庄城主の任務は解かれて、秀頼公の馬回り役(上級家臣として主君側近の親衛隊)をしていた1600年の夏に、石田三成からの催促に応じて北山・根尾(美濃の山地名)等の野武士を駆り集め、関ヶ原の北野(岐阜県関ヶ原町北野神社付近)へ鉄砲隊700余騎を中心とした部隊を整えて、1600年9月15(新暦の10月下旬)関ヶ原の戦いに西軍として出陣しました。
 午前8時ごろ少数の軍が入り乱れて戦いが始まり小競り合いが続いた。西軍の.旗色が悪くなった正午ごろになって、東軍の徳川家康に内通していた西軍の小早川秀秋(秀吉の妻おねの甥)隊が傍観したままでおり、これを動かそうと徳川隊から大砲が撃ち込まれた。
我を失った秀秋は東軍に寝返ると、戦況は大きく動き、西軍は秀秋の裏切りに途方を失って、我先にと退却したのです。 
退却する私の背後から、急に東軍の武士一騎が駆けてきたのに気づき、ふと振り返り逆に横に斬りつけ、偶然にも馬から落ちたのを見て鞍鞄を斬りつけ、武士の肩先を斬り返して逃れることができた。今日からは、「逆鞍の刀」と名付けて太郎に譲ることとします。 
 私は、これから大坂城に出向いて主君・秀頼公の無事を見届けることにしますが、(身の安全はなく)二度と無事に帰ることの無い我が命なので、この刀を別れの形見とします。
1600916日  
                                 兵庫(兵庫助は個人的な関係者へは「兵庫」を多用)
 
太郎殿へ
                                                        以上
 
補足解説①兵庫助は、手紙を書いた1600年9月16日に、自らを関ヶ原の戦いの戦死者として、近江国高山(滋賀県長浜市高山)の福順寺(広瀬の館の隣)において剃髪し位牌を祀らせています。
 この手紙は、美濃国広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内広瀬)広瀬の館に居る長男・太郎宛へ形見の刀と共に手渡されたものです。(緊急時で家臣により手渡されたと推測します。「主君・秀頼公の無事を見届ける」とありますが、実際は自らを戦死と装って身を隠すのが目的と推測され、秀頼公には会ってないと考察します。)
 
補足解説②兵庫助から約400年前の先祖・源有治(宇野有治11391221)は、兵庫助とは時代が異なりますが戦乱の世を憂い 無常を感じ、出家して仏門に入り道場(寺院)を設けて、名を「聖空」と改めて念仏教化に務めました。兵庫助も戦乱で人を斬ることに無常を感じていたことは同じ一族血統のなせる心か?そして、修行から2年後の1602年11月、福順寺(滋賀県長浜市)へ元家臣と共に密かに入り、住職「西了」と改めて念仏教化に務めました。

この記事に

【広瀬兵庫助に関する長浜城歴史博物館発表と広瀬家史料との核心部分の相違】
 
広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と長浜城歴史博物館発表との相違は、次の通りです。

1. 15831112日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について
()広瀬兵庫助は秀吉から15831112日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村、近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。
 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とあり、在所とは実家(広瀬郷の2ヵ)を指しています。
 美濃国広瀬郷(広瀬村・坂本村)が広瀬兵庫助の出身地(広瀬家当主が代々372年間受け継いできた領地)であることを秀吉が文書に記して証明しています。広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。
 
()広瀬2ヵ(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬郷を構成する広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)
「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を拝領したということではありません。

2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
()1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。
広瀬家史料には「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。信長に明け渡された領地を拝領と発表するのは、呆れた話です。
 
()広瀬家史料に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はありません。父・康則(第17代城主)は信長の家臣に攻め落とされたのに、信長によって没収された領地を戦争功績もないのに次男・広瀬兵庫助が再び信長から拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年には信長軍と戦った記録があります。これを拝領したと発表しており、開いた口がふさがらない状態です。
 
(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年の康則の討死落城から2年後の1574には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
 
()1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。
そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
 
(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。
 
(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。
当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

イメージ 1


3. 広瀬兵庫助の出身地について
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624315日に66歳で死亡しています。
美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村が広瀬郷を構成していました。飛騨国広瀬郷の広瀬家分家の出身との発表は誤りです。

この記事に

【長浜城歴史博物館「広瀬兵庫助」展示の誤解説とその影響について】
 
長浜城歴史博物館では「広瀬兵庫助」の展示公開(2015/11/112015/11/30)をされましたが、広瀬兵庫助の事績の核心部分(出身地・生い立ち・拝領経緯等々)は広瀬家代々にわたる直伝の生データとはかけ離れた全く別人の人物像でした。
 
10年程前から同館O館長へは、私から情報提供をしてきました。
それにも拘らず、同館は文献(伝聞)中心で推定・仮説によるものを採用し、歴史学者(S大学O名誉教授)O館長らによる文献崇拝の論理で公開されていました。
 
早々に長浜城歴史博物館へ指摘(2015/12/11)しましたが、館長からは「検証には時間がかかる」との回答のまま1年以上を経過しても放置されたままで、同館のHP解説は訂正されていません。
誤解説は早急に削除していただきたいと願っています。

広瀬兵庫助本人しか知らない歴史を検証するには、本人からの直伝(個人史)しかないことをご認識頂きたいと思っています。
                            
ところで、直伝(個人史)の好例ですが、『アンネの日記』は第二次世界大戦の最中のドイツによる占領下のオランダのアムステルダムが舞台となっています。
ドイツによるユダヤ人狩りを避けるために咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活をアンネが記した日記です
アンネの日記(個人史)がなければ、8人のユダヤ人達のリアルな生活は再現されませんでした。
 
これまで無名の戦国武将『広瀬兵庫助』でしたが、正しい人物評価は広瀬兵庫助からの代々直伝のリアルな記録「広瀬兵庫助史料」を活用しなければ、その人物像と存在価値は定まらないものです。
その価値観はアンネの日記(個人史)と変わらないものがあると考えます。広瀬家代々の寺院(東本願寺所属)で直伝の広瀬兵庫助史料の詳細の内容は、これまで400年間の長期にわたり門外不出でした。
 
広瀬兵庫助史料は断片的なものもあり難解な古文書「広瀬兵庫助史料」でしたが、40年以上にわたる調査・分析・研究と努力の末の成果として解き明かし、広瀬兵庫助の事績を導き出しました。

この成果を、近年ようやく最新版をまとめ上げましたので、ブログで初公開をいたしました。
これが世界に唯一の貴重な広瀬家しか知らない【広瀬兵庫助伝】です。
 
さらに400年間の門外不出を破って初公開の理由は、同館の誤発表・誤解説とは知らず正しいと信じて、真面目な歴史家・郷土史家などの歴史愛好家の皆様がご自身のブログで取り上げていただく方が相当数おられます。
同館の誤発表・誤解説状態が継続することは、広瀬兵庫助末裔に伝承される「広瀬兵庫助史料」を否定することになります。広瀬兵庫助の末裔としては全く耐えられない思いです。
 
こうした事情から、これまでの経緯を一般の皆様へ諸事情をご報告いたしまして、長浜城歴史博物館の誤発表・誤解説を認めることはできないことを明言いたします。
 
補足のご説明【長浜城歴史博物館における「広瀬兵庫助」展示解説の誤認について】 

長浜城歴史博物館における「広瀬兵庫助」の展示解説(同館のホームページ掲載)によると、兵庫助のリアルな事績を子孫に直接伝える「広瀬兵庫助史料」の記述とは重要部分において異なる点があります。
この誤報を正さないと、広瀬兵庫助の歴史の根幹部分が成り立ちません。
            【】内は当時の、広瀬兵庫助の年齢。
1.
出身地を美濃国広瀬家の分家の飛騨国広瀬家とするものは誤りです。
「広瀬兵庫助史料」によると広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。
1624315日に66歳で死亡しています。
これにより、飛騨国広瀬家を出身地とする説明ができません。

2.1572
年6月13日【14歳】、兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められて、第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。

「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
これも、飛騨国広瀬家を出身地とする説明ができません。

3.
信長の家臣に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。
信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。

同館の解説では「兵庫助が信長から拝領した領地を秀吉が追認した」としていますが、「広瀬兵庫助史料」には兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・兵庫助が信長によって没収された領地を再び信長から拝領することは100%ありえないことです。
兵庫助は、1 576年【18歳】と1580年【22歳】にも信長に対抗した行動の記録があります。

これは、信長に対抗している兵庫助に対して、信長から拝領することはありえないことを物語ります。

4.
長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年【16歳】の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年【14歳】の康則の討死落城から2年後の1574年【16歳】には落城による逃避先から美濃国広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
これは、兵庫助が美濃国広瀬家にいたことを証明し、飛騨国広瀬家の出身という説明はできません。

5. 1576
年【18歳】に、兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月【14歳】の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。

さらに、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
1580年【22歳】にも、兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。 

この記事に

長浜城歴史博物館は、誤発表で訂正せHP(ニュース欄)で公開
 
1.   長浜城歴史博物館は、201510月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、伝聞に基づく記述の文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者や歴史家の推定仮説を引用したための誤発表でした。

2.  私は、10年ほど前から長浜城歴史博物館情報提供をしていますが、広瀬家代々の直伝の史料を信頼せず、提供情報を無視の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。
 
3.   結果として、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹(出身地など)に重大な誤認があり誤発表となったのです。誤発表により別人の人物像となっています。

4. 長浜城歴史博物館館長に対しまして連絡(201512)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容で長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で解説の公開が放置されています。


5.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。

6. これを子孫の代々にわたり受け継ぎ、400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。このたび、広瀬兵庫助末裔の私が初めて情報公開しています。
 
7.   長浜城歴史博物館の誤発表の主たる原因は、広瀬兵庫助末裔の私から直伝の広瀬家史料に基づく情報を直接に同館館長へ提供してきたにもかかわらず、出自について広瀬兵庫助・直伝史料を完全無視したからです。
  出自について、同館は伝聞による不完全な情報に基づいた「豊鑑」や「東浅井郡志」に掲載された推定仮説を長浜城歴史博物館が採用し解説を行ったためです。

この記事に

400年間も門外不出の広瀬家史料情報を広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開の理由
 
1.   長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示をするにあたり、201510月に広瀬兵庫助に関する報道発表をしましたが、その内容は伝聞に基づき記述された文献(豊鑑、東浅井郡志)や歴史学者(S大学のO名誉教授)・学芸員(O)などの仮説と推定に基づく一部誤発表となっていました。
      長浜城歴史博物館へは10年ほど前から情報提供しているにもかかわらず、広瀬兵庫助の直伝の情報を無視の状態で人物像を描いたため誤発表につながったのです。
      広瀬家代々の直伝の史料を信頼していただきたかった。
 
2.   一部誤発表となった理由は、広瀬兵庫助からの直伝の史料は生かされず、広瀬兵庫助の事績の根幹部分(出身地・拝領の経緯・活躍の経緯など)に重大な誤認があります。
     誤発表により別人の人物像となっています。長浜城歴史博物館に対しまして指摘(201512)していますが、現時点においても訂正されず、誤発表の内容により長浜城歴史博物館HP(ニュース欄)で公開が続いています。

イメージ 1

3.  長浜城歴史博物館は、「広瀬兵庫助」に関する展示では、秀吉から広瀬兵庫助への文書2通が展示されましたが、広瀬兵庫助が関ヶ原の戦いに敗れ、長男・太郎に宛てた手紙1通を展示していませんでした。
     私のブログでは、広瀬兵庫助・史料の解読に成功して解説付きで情報公開しています。
     (関ヶ原の戦いの戦記と形見の刀を譲与する経緯を記していますが、広瀬兵庫助の事績を熟知しないと理解できない短い手紙です)
 
4.   広瀬兵庫助の子孫には、真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を多数・建立開基して寺院住職として代々にわたり寺院に関する過去帳(寺院における事績を時系列順に記録したもの)により、寺院一族の記録を伝承しています。
 
5.   広瀬兵庫助からの直伝の史料の存在は、広瀬兵庫助の体験の生の記録で本人以外は誰も知ることができない経験の記録です。
     これが子孫の代々にわたり受け継がれているものです。400年にもわたり門外不出だった広瀬家代々の史料情報です。
     広瀬兵庫助末裔が初めて情報公開しています。
 
6.   長浜城歴史博物館の誤発表にもかかわらず、正しい情報と信じた歴史好きのブログ愛好家の投稿記事の好材料となり、誤認記事がインターネット上で拡散されており、大変に困惑しています。残念です。

この記事に

【広瀬兵庫助は「本能寺の変」後に活躍、「関ヶ原の戦い」で敗れ仏門へ】
 
1.  広瀬兵庫助は、15826月の「本能寺の変」直
後に長浜城から逃避行する秀吉家族の警護と慰労を
して、その功が認められて秀吉の家臣になりまし
た。
 
2.  その後、約16年間にわたり近江国(滋賀県)新庄
城主と美濃国(岐阜県)広瀬城主を兼任で務め、秀吉
の他界後は秀頼の馬回り役として豊臣家を支えまし
た。
 
3. 1600915日の「関ヶ原の戦い」には、石田三成の求めに応じ鉄砲隊700騎を中心とした兵士を引き連れて出陣しましたが、戦い敗れて翌16日に自らを戦死したとして近江国(滋賀県)にある寺院で位牌を祀らせ姿を消しました。
 
4. それから2年の修行後、元家臣と共に近江国(滋賀県)にある寺院(真宗大谷派所属)へ秘かに入り、住職「西了」として仏門に仕えました。
 
5. 仏門に仕えてからの事実は、明治時代になるまで400年間も一族のみで極秘とされていました。広瀬兵庫助は、今流に言えば「個人情報保護」主義の典型でした。広瀬兵庫助の一生は、その一族のみへの直伝の史料が残されています。末裔の寺院の過去帳に詳細に記されています。これが世間の一般には、歴史家も知らない無名の戦国武将の一生だったのです。
 
6. 秀吉の伝記とされる「豊鑑」と、滋賀県長浜市北部(旧・東浅井郡)の郷土史にのみ「広瀬兵庫助」の「本能寺の変」直後の記述がありますが、超個人情報保護主義者の広瀬兵庫助の詳細情報は、これらの文献では推測と仮定に基づく内容で記述されていました。
 
7. 201510月に長浜城歴史博物館が広瀬兵庫助に関する史料を公開するにあたり報道機関への発表をしましたが、歴史学者と歴史博物館館長らの文献崇拝による誤認識の人物像や経歴でした。
 
8. 長浜城歴史博物館館長へは、私からの広瀬兵庫助直伝の情報を10年以上前から提供していたにも関わらず、同館はその情報提供を無視して、広瀬兵庫助の出自の根幹部分を誤発表していたのです。
 
9. このたび無名の戦国武将の事績について、400年間も門外不出の武将の記録「広瀬兵庫助伝」としてインターネット上に真実をお伝えするために公開させていただいています。詳しくは、ブログを、ご覧ください。
 
10. 私は、広瀬兵庫助の子孫です。広瀬兵庫助直伝の史料に基づき40年以上にわたり広瀬兵庫助の事績を調査研究して参りました。その成果を、ブログ「明るい夢を描き生きる道を ! 「広瀬兵庫助伝」」
 
 
などで、世の中の一般の皆様方にご理解を頂けるよう公開させて頂きました。よろしくお願いいたします。
 
11. 歴史の「関ヶ原の戦い」では、広瀬兵庫助の存在は影のようですが。真の存在は『「関ヶ原の戦い」に出陣し敗れた広瀬兵庫助から長男・太郎への手紙』の解読により、ブログで初公開していますので、広瀬兵庫助の真意をご理解いただければ幸いです。

この記事に

【広瀬兵庫助に関する情報共有、伝承活動、広報活動について
 
いつも、ご支援を賜りまして誠に有難うございます。 
 
【広瀬兵庫助】に関する調査分析研究では40年以上になりました。誠に僭越ではありますが、この分野を限定して第一人者であると自負いたしますとともに、私を超えて広瀬兵庫助の先祖及び広瀬兵庫助とその末裔を調査分析研究した方は存在しないと承知しております。

ところで、誠に恐縮ですが、私は高齢化が進んでおります。日々新規の投稿は気力と体力的にも続けることは少々困難の健康状態でございます。

さらに、最近は広瀬兵庫助に関する研究の情報収集と進展がなく、情報の提供や広報活動が一巡する一定の期間の周期でデータをリサイクル更新するようにさせていただいております。

イメージ 1


研究の進展や思いがかたまり新規に特別に公開したい情報などがありましたら、タイミングをみて投稿・更新をしています。
 
このような次第でありますが、ご理解を賜りまして今後とも、よろしくお願いします。
 
【広瀬兵庫助】の事績と活躍について、皆様とともに情報共有、伝承活動、広報活動を続けることにより、いにしえの広瀬兵庫助への評価が高まることを期待して頑張り続けています。

この記事に

広瀬家伝承の「広瀬家史料」と異なる部分があり、
長浜城歴史博物館の一部誤発表 
 
私は、広瀬兵庫助の末裔で広瀬兵庫助専門の研究家です。広瀬兵庫助とその一族に関する調査に基づいた広瀬兵庫助の研究史料を相当数保持し、詳細を理解しています。  
 
「広瀬兵庫助」に関する報道(2015/10/2910/30)は、様々な解説がありますが、広瀬家伝承の「広瀬家史料」と異なる部分があり、長浜城歴史博物館の一部誤発表があります
 
「広瀬家史料」は兵庫助からの伝承による確度の高い情報を相当所持しています。 
 
発表と「広瀬家史料」との異なる部分
 広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県)広瀬家本家の出身であるのがが正しく、分家の飛騨国(岐阜県)広瀬家身とあるのは誤 りです。 
 
 信長から拝領した領地を秀吉が追認したとあるのは誤りで、秀吉から正式拝領の所付(知行書)であります。領地を信長から拝領することはあり得ないことです。 
 
本能寺の変の直後、秀吉家族の逃避行先は美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館が当初の避難予定先であり、避難先として滞在したのは近江国(滋賀県)の甲津原です。  
 
秀吉の家臣として広瀬兵庫助が秀吉家族の逃避行に尽力したのではなく、逃避行に尽力した結果の恩賞で秀吉の家臣に登用されたのが正しいのです。
 
 詳細は、下記の通りです 

【広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまで】

         【】内は当時の、広瀬兵庫助の年齢
1. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624315日に66歳で死亡しています。美濃国(岐阜県)広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
(広瀬家の分家となる飛騨国(岐阜県)広瀬家の出身という記録は、広瀬家史料には全く存在しません。)

(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。また、城主の職位の場合や個人的な場合などにより名前を使い分けています。
 
広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。これは、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。
 
2.広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
1572年6月13日【14歳】、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。これも、広瀬家一族伝承の史料に詳細に記されています。
 
明け渡した美濃国(岐阜県)広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で隣村・谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年【18歳】と1580年【22歳】にも信長に対抗した行動の記録があります。
 
(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年【16歳】の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。1572年【14歳】の康則の討死落城から2年後の1574年【16歳】には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
 
()1576年【18歳】に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月【14歳】の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
 
()1580年【22歳】にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。(当時、浄土真宗のことを他の宗派からは一向宗といっていた)
 
(6)1582年6月2日【24歳】に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、秀吉の家臣となったのです。当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

3.広瀬兵庫助(西了)の没後390年余の今日、戦国武将・広瀬兵庫助の事跡を公開させて頂き、広瀬兵庫助の正統の血縁を受け継ぐ末裔としまして、歴史家・郷土史家等の執筆による書物やインターネットなどで「・・・と伝えられる」等の表現での仮説推定の記事に関しては、明らかに広瀬家伝承史料と異なる(誤認)場合には、必要に応じて修正すべきは修正をさせていただきます。
 
【広瀬兵庫助ら3兄弟は、信長に対抗して戦う】
 
広瀬兵庫助は信長に対抗して戦い、兵庫助一族伝承の広瀬家史料に次の通り記されています。
 
1.広瀬兵庫助の父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死落城
1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) の初代・広瀬康述から代々受け継がれた372年間の長期の繁栄も領地を明け渡して幕を閉じました。
信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。「東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
 
明け渡した美濃国(岐阜県)広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」とあります。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録は全くなく、後述の通り1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
この記録は、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を拝領することは100%ありえないことを物語ります。 
 
イメージ 1

 
2. 広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、信長に対抗
(1)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
 
(2)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は石山本願寺に出陣し信長に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が敗れました。(浄土真宗のことを他の宗派は一向宗と呼んでいました)
 
3. 広瀬兵庫助の生い立ちと氏名などについて
(1)
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。
1624315日に66歳で死亡しています。美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。
 
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と、戦乱の時代における複雑な諸事情で名を変えています。また、その時の立場で名前を使い分けています。
 
(3)広瀬兵庫助の兄弟は、兄・康宗(康則の長男)、弟・了玄(康則の三男)、弟・九助(康則の四男)です。

この記事に

【広瀬兵庫助に関する報道と広瀬家史料との差異】
 
広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と報道等との差異は、次の通りです。

1. 15831112日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について
()広瀬兵庫助は秀吉から15831112日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村、近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。
 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2カ村・・・」とありますが、広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。
 
()広瀬2カ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。「その方在所、広瀬2カ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2カ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を知行するということではありません。

2. 広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
()1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。
「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。
 
()明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はなく、信長の家臣に攻め落とされた康則の次男・広瀬兵庫助が信長によって没収された領地を再び信長から拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年にも信長に対抗した行動の記録があります。
 
(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年の康則の討死落城から2年後の1574には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。
 
()1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。
そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。
 
(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。
 
(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。
当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

イメージ 1


3. 広瀬兵庫助の出身地について
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624315日に66歳で死亡しています。
美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2カ村が広瀬郷を構成していました。

この記事に

【広瀬兵庫助一族の皆様への重要な最新情報のご報告】
 
  広瀬兵庫助の先祖は、岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内(美濃国広瀬郷)広瀬一族の初代当主・広瀬康述です。     兵庫助(命名時は康親で、秀吉の家臣となり広瀬兵庫助を名乗る)は、第17代当主(城主)・広瀬康則の次男になります。
 
  広瀬家史料(広瀬兵庫助末裔に伝承の歴史資料の略称)を再確認のところ、広瀬一族の初代当主・広瀬康述の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟が先祖を同じくする一族(同族)にあたることが確認されました。
 この情報は、このたび広瀬兵庫助一族の皆様へ初めての重要な情報としてご報告するものであります。 
 
 私は、広瀬兵庫助の事績について調査研究の当初におきまして、初代当主・康述の子孫で広瀬安周(別名・安近)が山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっていたことは承知していましたが、その後継を深く調査していませんでした。

 広瀬安周の子孫にあたる広瀬郷左衛門景房の弟の子孫が広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘という著名な人物を世に出していたことまで認識していなかったのです。
 重要な最新情報ご報告の詳細は次の通りです。
 
1.   美濃国広瀬郷(岐阜県)の第14代当主・広瀬康平の時代に、康平の弟である広瀬安周(別名・安近)は山梨県(甲斐国)へ移り、武田信玄の家臣となっています。

 広瀬家史料には、安周の子孫が武田家臣から後に徳川家臣となり、更にその後、井伊家臣として仕官したことが明記されています。
 歴史上の人物で、この事績に該当するのは「広瀬郷左衛門景房」のみでありますので、これが決定的な事実であることをご報告するものです。

 私見ですが、「広瀬郷左衛門景房」は、広瀬兵庫助の活躍した時代より10数年後の歴史背景がありますので、逆算すると安周の孫か曽孫に当たると推測します。
 
2.   複数の歴史書においても山梨県(甲斐国)における広瀬郷左衛門景房に関する事績として、武田家臣から後に徳川家臣となり、その後、井伊家臣として活躍していることが明記されています。

 結論として、岐阜県(美濃国)の広瀬一族情報と山梨県(甲斐国)の広瀬一族情報とが完全に一致しています。山梨県(甲斐国)の広瀬一族におかれても最新情報となります。
 
3.   広瀬郷左衛門景房の弟で広瀬将監正直は、1673年に山梨県(甲斐国)から大分県(豊後国)へ移っています。広瀬将監正直の子孫には、広瀬淡窓(儒学者)・広瀬旭荘の兄弟がいることで知られています。

 大分県日田市には、この地を中心に活躍した正直の子孫など・広瀬一族の活躍を伝える「廣瀬資料館」があります。
(文中・敬称略)

この記事に

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事