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【歴史のQ&A】
   第次世界大戦と日本世界
    分割支配めざした3国同盟
 
 
 
 
 
 
 
 
   ナチス・ヒトラーの世界分割・制覇を
  「世界公認」と賞賛したヒトラー信奉者 の系譜
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【靖国神社前で日独伊三国同盟条約調印の祝賀パレード・1940年】
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ソ不可侵条約がバルト・3国とポーランド分割支配へ
第二次世界大戦の契機に 第5 1、第二次世界大戦の開始
ヒトラーとスターリンのポーランド、バルト三国など北欧分割・支配が第二次大戦の契機に
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへの進攻を開始、93日に英仏は対独宣戦布告、第二次世界大戦が始まった。917日にはソ連がポーランドへ侵入し、23日にはドイツとソ連でポーランドを分割した。
独ソ不可侵条約(注①)には、独ソのポーランド分割とバルト三国のソ連勢力圏編入が書き込まれていた。独ソ不可侵条約はコミンテルン第7回大会(注②)の提起する反ファッシズム人民戦線を闘っていた人々に大きな打撃を与えた。ファッシズム国と社会主義国の同盟であったからである。**(注①:ドイツ・ヒトラー、ソ連・スターリン。この時のコミンテルン書記長・デミトロフ)(注②:コミンテルン書記長・デミトロフ)
ソ連・スターリンが「反ナチス」口実に 虐殺、暴政
ソ連は第二次世界大戦の受動的な客体でなく能動的な主体であった。さらにポーランドのカチンの森における万単位のポーランド将校の虐殺とバルト諸国におけるソ連併合反対の民族主義者の虐殺など、第二次世界大戦のソ連勢力圏において他民族の支配抑圧が存在したことがスターリン体制の罪悪として近年ソ連政権によって公式に認められた。ソ連自体も第二次世界大戦中に帝国主義といってもよい他民族への侵略を行ったのである。
出典:『日本の歴史⑳アジア太平洋戦争』(集英社1993年)
 
昨年夏(2013年)、麻生太郎副総理(財務大臣・元首相)が「ナチスに学べ」と憲法改悪への本音を口にしました。麻生氏は国民が気づかぬうちの改憲へ、歴史にない「ナチス憲法」とウソをついてナチスの手口にまで踏み込んでヒトラー・ナチスを賞賛しました。
第二次世界大戦が、当時のナチス・ドイツとスターリン・ソ連の「独ソ不可侵条約」にもとづくポーランド、バルト三国の分割占領を契機に始まったことは世界史の定説。その1年後にヨーロッパ戦争と日本の大東亜戦争を一つにして世界制覇をめざしたのが日独伊3国同盟条約でした。
1、 欧州とアジアの戦争を結びつけた3国同盟
ドイツとソ連が「不可侵条約」を結んだのは1939年、日独伊3国同盟は翌年の1940年でした。
 三国同盟条約は、ドイツ・イタリアが欧州での「新秩序建設への指導的地位を認める」(第一条)、「日本国の大東亜に於ける新秩序に関し指導的地位を認める」(2)と、日独伊による欧州、アジアでの指導権を相互に認めたものでした。第3条では3国の欧州戦争、日本の大東亜戦争へ「政治的、経済的及び軍事的に相互に援助」を協定、2つの戦争を1つの世界大戦にしたのでした。日本の対米英戦争は翌(1941)で、真珠湾攻撃の際、ナチス・ドイツは「東アジアでは日本国民がアングロサクソン(米英のこと)に打撃また打撃を加えている」と歓喜したのでした。
 
2 アジア支配権を「世界公認」と主張した言論人
国同盟が相互に認めた大東亜戦争は、日本のアジア支配のための戦争であり、柳条湖、盧溝橋事変、南京虐殺事件を含むアジア全域への戦争拡大を進めるものでした。独ソ不可侵条約を巡って「欧州情勢複雑怪奇」(平沼首相)として平沼(騏一郎)内閣は総辞職しました。日独伊3国条約の公式記録は戦後、隠滅、破棄され詳細は不明のままです。その中で独ソ接近を「ドイツとしては当然打つべき手」とヒトラーを弁護、当然視して喜んだのが戦後首相になった言論人・石橋湛山でした。石橋は、ヒトラーの世界戦略(「世界的にアーリア人種の天下形成」)をナチス登場以来一貫して賛美、3国同盟(条約)が締結されたことで「日本の東亜支配権は世界公認」(英文『東洋経済新報』)と公言したのでした。日独伊の海外侵略戦争を「世界公認」と公言したのは石橋湛山元首相だけで、大政翼賛政治に加担しました。
3、 欧米諸国から批判、石橋の「東亜支配の権利」
麻生氏が憲法改悪の意図から公言した「ナチス憲法」のウソは明白ですが、独ソ不可侵条約の前年まで駐英大使だった祖父・吉田茂(元首相)の政治経歴やナチスドイツ史を知らないはずはありません。戦後、第一次吉田内閣で石橋を大蔵大臣に招請したのも英語に堪能な吉田が石橋の「世界公認」の主張を知っていたからでした。吉田内閣の大蔵大臣に就任した石橋でしたが戦後、英文の記禄から「世界公認」の事実が発覚、GHQの指摘を受け吉田内閣は石橋を大蔵大臣罷免・公職追放処分にしたのでした。【別項・資料】  
 石橋の公職追放は、戦後の閣僚就任や対米交渉には無関係で、石橋の戦前の言論、政治的発言に限ったものでした。石橋の日独伊の侵略戦争「世界公認」論は、欧米向け英字紙に載ったため日本では公表されませんでした。石橋は同弁駁書で、「世界公認」論を、欧米各国が「不快を抱くかもしれない」と前置きして3国同盟の「大東亜に於ける新秩序に関し指導的地位を認める」(2)を繰り返しただけでした。
欧米諸国は、日本のアジア支配の指導的地位を「自然的権利」と理解
しました石橋はこの「自然的権利」については天賦人権論の「天賦」と同様に理解したのです。天賦人権論は、「人間は生まれながらにして自由、平等であり幸福を追求する権利」であり、石橋はアジア支配権を国家、民族・人種の支配・被支配の特権と論じたのでした。20世紀の時代に国家間、民族間に支配と被支配の関係があろうはずもなく、石橋は、神国日本、国家主義を体現したのです。
日独伊3国同盟から73年、麻生氏の「ナチスに学べ」は、ナチスの手口の教本にとどまらず、アジア支配の特権を現代社会に要求する国家主義思想の復活でしかありません。
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                      【2013年10月 記】

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日独防共協定

1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた。ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。
ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ。

さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。

1937年12月に南京が陥落

1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。

ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。

ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。

2017/5/7(日) 午前 8:58 [ 生活や子育てを守れる労働条件を ]


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