第三章、藤岡氏の「自由主義史観」と石橋の戦時資料
◇はじめに……………………………………………………………………‥… 11 1、戦前の「自由主義思想」をめぐる石橋湛山との急接近………………11 2、「モザイク史観」が取り持つ「大東亜戦争肯定史観」………………12 3、「昭和の戦争」に触れない「司馬史観」批判は本当か?……………13 4、石橋の「国体護持」の主張に共鳴した藤岡氏の信念…………………13 5、現代の視点から「数量データー」利用は失敗の例……………………14 6、石橋の「数量データー」から侵略戦争善政論は生まれない…………14 7、藤岡氏の「数量データー」利用の真意と国家戦略……………………15 8、「リベラリスト・石橋」の真意はどこにあるのか…………………16 9、大正期・「小国主義」の源流、石橋の思想とマルクス評……………16 10、「つくる会」教科書は国民不在、3国共同編集の「歴史」に学ぶ……17
第三章、藤岡氏の「自由主義史観」と石橋の戦時資料
◇ はじめに
「つくる会」の歴史教科書の具体的な記述、表記にもとづいて自版、扶版と他社との比較、自・版、扶・版それぞれの相対的比較を検討しました。両教科書の戦争賛美、歴史認識での変化の概略は深められたと思います。
特に、前回の歴史教科書の文科省検定及び全国的採択の結果、「つくる会」の敗北が明らかとなり、同会は分裂の事態を生みました。藤岡信勝氏らによる自由社版・教科書は、扶・版になかった「アジア解放」の戦争目的を付加し、「大東亜戦争」自体を、「日本の戦争を侵略とするのは濡れ衣」(前掲・田母神元空幕長)と同様の歴史認識へ後戻りさせました。また戦後世界の民族解放、独立の前進方向は、この世界大戦の目的のうちに具現化したものであったとする「先見性」を誇示する挙に出てきました。一体、この4年間に藤岡氏の歴史認識を中心とする思想的変遷・「心変わり」が那辺にあったのかを検討することが不可欠に思われます。
1、戦前の「自由主義思想」をめぐる石橋湛山との急接近
藤岡氏の「歴史教科書」との係わりは、前掲・山田氏の著書『歴史修正主義・・・』に詳しく紹介されていますが、藤岡氏自身は最近の文書でその動機を次のように述べています。
『新しい歴史教科書をつくる会』が発足したのは今から12年前(1997年)でした。・・・(当時)「従軍慰安婦の強制連行説」が中学校用の歴史教科書のすべてに新たに入り込むなど、・・・「自虐史観」の横行は目に余るものがありました。 (藤岡・「日本は教科書で立ち直る」(『つくる会』HP・2009年6月)
すでに藤岡氏が中心となって結成していた「自由主義史観研究会」(1995年)の「近現代史の授業改革」の実践活動として産経新聞、読売新聞などの後押しで「教科書が教えない歴史」の大々的宣伝と結んで『新しい歴史教科書』(2003年・扶桑社)を発行、この「敗北」の経験から今回の『新編 新しい歴史教科書』(自由社発行)に至りました。(「『文芸春秋』1997年2月号より)
藤岡氏は、歴史教科書に先立って結成した「自由主義史観研究会」の目的について、「あの戦争は避けることが出来なかった。…その可能性・現実性を追究する」に続き、「戦前の自由主義者の掲げていた方針が、相対的には日本の安全と繁栄に最も有利な政策ではなかったか」と位置づけ、「戦前の自由主義」について「具体的には石橋湛山」を指していることを明かにして、自身の思想・歴史観の立脚点を率直に語っています。(同前)
2、「モザイク史観」が取り持つ「大東亜戦争肯定論」
それでは、「自由主義史観」論者の藤岡氏と石橋湛山との接近はどこにあったのでしょう。
藤岡氏が「自由主義史観研究会」を発足させた当時、戦争観・歴史観といえば、戦前の日本軍国主義による侵略戦争、植民地支配に反対、あるいは反対しないまでも批判的な状況にありました。戦後の体制については「戦争放棄」を柱とする憲法を擁護する世論が一定の力を維持しつづけていました。教科書に関しては「家永訴訟」や「沖縄集団自決」問題、「従軍慰安婦」問題が教科書にも掲載される状況でした。一方で憲法改悪、安保繁栄論を柱に「大東亜戦争肯定史観」、「自虐史観」の攻勢も執拗に続いていました。そこへ「南京虐殺事件」に対する責任回避や歴史的事実を隠蔽する歴史認識が政府・文部省の「検定」によっていっそう歪められようとしていました。当然、中国や韓国から厳しい批判の声があがり、政府は検定の基準を次のように条件をつけました。
近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。
しかし実際の教科書は朝鮮などの植民地支配や戦争責任問題の記述が縮小、削除される方向が強まりました。
この戦前復古の風潮の中心に歴史認識問題が浮上、「大東亜戦争肯定論」と「司馬(遼太郎)史観)を源流とする「自虐史観」論争でした。この時点で藤岡氏は、石橋湛山に傾倒しつつも「大東亜戦争肯定論」や「自虐史観」と異なる「第3の道」を模索していた状況にありました(前掲・山田氏)。
「第3の道」といっても、藤岡氏に確たる思想や哲学などの原理的体系はなく、紆余曲折の遍歴の末に辿り着いたのが、「大東亜戦争肯定論」「東京裁判史観」「自虐史観」などを雑多に繋ぎ合わせた「モザイク史観」とでも言う他ない歴史体系でした。
この時期の藤岡氏について山田朗氏は次のように述べています。
・・・確かに藤岡氏の所論は、多くの歴史学研究者にとっては、当初より何とも怪しげに感じられた。藤岡氏の議論が、都合のよいものは、小説家・司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも外交官・岡崎久彦氏の戦略論でも何でも使うというモザイク性と、『大東亜戦争=自衛戦争論』『南京大虐殺まぼろし論』など戦後歴史学が克服してきた戦争弁明・肯定史観の類をあたかも新しい論議であるかのように取り扱って、それらを自説に取り込んでいる点に大きな原因があった。(前掲書・『歴史修正主義の克服』)
3、「昭和の戦争」に触れない「司馬史観」批判は本当か?
藤岡氏の、この「モザイク史観」ともいえる「自由主義史観」は、この後、「自虐史観」の母体となっている「司馬史観」が明治期の戦争、国家体制を肯定的に描くのに対し昭和期の戦争には批判的、否定的であるとして表面的には「決別」することになりました。一方で、当初は全面否定でなかった「南京大虐殺」について「従軍慰安婦」問題での共同闘争の必要性から「大東亜戦争肯定論」者らに引き込まれる状況となりました。最終的には、明治時代から今日に至る対外侵略戦争、膨張戦略の連続性、「大東亜共栄圏」「満蒙生命線」論を規範とするような「国家戦略」の必要性、そしてこれらを体系だった「自由主義史観」に仕上げる方法論としての「数量データーの利用」(上田氏)に一身を預けることになりました。
この最後の「数量データー」は、石橋湛山が大正末期から昭和初期にかけて日本に紹介されたアダムスミスやケインズの近代経済学を日本流の自由主義経済理論の「体系」に仕立て上げたものです。藤岡氏が石橋の主張を「日本の安全と繁栄に最も有利な政策」と見た経済体系です。藤岡氏は、これこそこれまでの歴史観の弱点を補う集大成と見込んで、自身が主張する「自由主義史観」を体系に装う一大発見としたのでしょう。これまでの「モザイク史観」では、物足りない、裏付けとなる、時々の評価で変化しない数的、物的資料となるものを捜し求めてきたのでした。
4、石橋の「国体護持」の主張に共鳴した藤岡氏
先に述べた「自由主義史観研究会」の目的の前段で藤岡氏は次のように述べています。
近代日本がおこなった戦争の評価については、日本だけが悪かったとする『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかったとする『大東亜戦争肯定史観』もともに一面的である
(前掲「『文芸春秋』1997年2月号)
一見すれば「東京・・・史観」「大東亜・・・史観」を否定するかのようにも見えますが、それぞれの史観は、「日本だけが悪かった」「日本は少しも悪くなかった」とする藤岡氏の「戦争の評価」に対応するものでないことは明白です。都合のいい設定で対象物を否定するのは自家撞着、論理矛盾もいいところです。コーヒーを飲みながら「お茶の味がしない」と言っているに過ぎません。
しかし、藤岡氏の「モザイク史観」にとって石橋の「数量データー」は、打ってつけの最良の資料となったようです。それは、石橋自身が、戦前、戦後にわたって自らの思想体系をことあるごとに「自由主義思想」と論述、戦後になって公職追放中に「自由思想協会」を設立、「趣旨書および規約」を発表しています(1957年)。藤岡氏が今回の歴史教科書発行の社名を「自由社」とし、研究会名を「自由主義史観」とした由来はこの辺りにあるのかも知れません。
石橋は、1945年、ポツダム宣言の無条件降伏を受諾、戦争終結に当たっていち早く声明を発表しました。石橋は、植民地経済と戦時経済を担う官職にあったことも忘れたとでも言うのでしょうか。次の文書は終戦から10日後に発表したものです。
(日本政府の『ポツダム宣言』無条件受諾に当たって)・・・辱(かたじけな)くも、御上一人のご聖断は神の如く、一切の論議を止揚し、戦争は終結された。而して今や万民心一にして、更生日本の建設に邁進し得るの恵に浴することになった。
(政府は)この際は仮令(たとい)一時如何なる屈辱を忍ぶも停戦の勇断に出ねばならぬ。・・・国民の苦難はとにかくとして、・・・国体護持に勇往すべし・・・。
(「社論・更生日本の針路」『東洋経済新報』1945年8月25日)
石橋が、どのような形であれ「天皇制」を残す「国体護持」を要求したことは明らかです。
藤岡氏が石橋の「数量データー」を自己の「自由主義史観」に取り入れる以上に、この「国体護持」を柱とする日本の再建の道に「前途洋々たるものもののあること必然」とする石橋の思想、歴史観に共鳴したことがうかがえます。
5、現代の視点から「数量データー」利用は失敗の例
藤岡氏は、石橋湛山に傾倒し、自らの「自由主義史観」を確立する前提に「私(藤岡)が受けてきた思想的な影響が反映」されたものとして「戦前の自由主義者・・・具体的には石橋湛山」と名前まであげて告白しています。そして「自由主義史観」の方法論の基本としたものが石橋の「数量データー」であることは前に述べた通りです。(前掲・藤岡「われを軍国主義者とよぶなかれ」『文藝春秋』1997年2月号より)
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初めまして。
偶然、こちらのブログを読みました。
太平洋戦争は、細かい分析ではありませんが、私は、江戸時代末期、黒船やロシアなどの圧迫に対する、日本の反動ではないか、と思ってしまいます。
日本は、江戸時代のああいう状態を、今も望んでいるのではないでしょうか。
本当は、黒船などの圧迫なく、平穏に過ごしたい、と言う島国根性(とは趣旨が違いますが)があるのではないでしょうか。
それが、現在の安倍首相に代表される、自民党の政策にも関係があるような気が致します。
違っているかもしれませんが。
どうも失礼致しました。
2016/9/11(日) 午後 10:09 [ おっさん ]