ヤマハ2スト気まぐれ日記(時々TWと山遊び)

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   第四章 絶望の毎日
 
 
暗闇の中、疾走し続けるTW200
 
身体中で風を切り裂く音が寂しげに響く…。
 
もうタイムカードを押さなくてはいけない時間が迫り、アクセルを握る手に力が入った。
 
闇に閉ざされた県道、いつもの通勤路。東北本線を左に並走し、踏み切りを越え今度は本線を右に見て、陸橋を越え再び左へ戻った頃、爆音を連ねた貨物列車が、今にも僕を追い越さんとばかりに脇に並んでいた。
 
何十両も連ねた貨車、いっぱいに積載されたコンテナ。連結をきしませ、一台の電車が牽引していく。
 
その必死な姿を見ていると、いつの間に遠い日の記憶を辿っていた。
 
「もっと頑張れ!」「人より努力しろ!」繰り返された言葉…その言葉に僕は育てられた。
 
急かされて煽られ、僕はいつも全力を尽くしてきた。
 
そして、紙に印刷された順位や数字が全てだった。
 
目標を達成出来なかった時は、容赦ない叱咤激励。
 
そして達成した時は…。
 
「よし!よくやった。その調子で頑張って次はより上を目指せ!」
 
その時の両親の喜ぶ顔…その頃はそれを見る事だけで全てが満たされていた。
 
見上げれば雲を突き抜けどこまでも延びてゆく階段。群集の中、ひたすら早足で歩く自分が居た。
 
“そうさ、僕は人より努力した…そのお陰で良い学校にも行け、いいポジションにもいる”
 
気が付けば、足元には転がり続ける人達。
 
“努力しないからさ…”
 
ある意味での優越感。人々は僕の前では風景のように流れていった。でも、心のどこかに空虚な風がいつも吹いていた。
 
そんなある日だった、高校二年の時に書いた作品が、全国学生文学コンクールで最後まで競り合い、準グランプリに輝いた。
 
「すげーなー!お前ってこんな才能あったんだ!」
 
「いや!絶対お前の作品の方が面白いよ!」
 
その時、流れゆく風景は僕の前に立ち止まり…いや僕の存在に気付き、今までに無い喜びが心の奥底から湧き上がっていた。
 
以来、僕は文学の魅力に惹かれ、小説に傾倒するようになった。
 
“これが本当の自分なんだ!”
 
親や先生が進めるがままに僕はそのまま東京の大学へ進学していった。だが日増しに文学への熱意が燃え上がり、ついに大学二年の夏に中退して文学へ挑戦を始めた。
 
思えばその日以来だろうか…親と連絡を取っていないのは…。  
 
“きっと上手くいく…今までがそうだったように、人より努力すれば良い結果は出る!” 
 
しかし渾身を込めて書き上げた作品はノートの片隅に書かれたパラパラ漫画のように目を通され、その後に放たれた言葉は…。
 
「何か足りない」「もっと刺激があって色気がないと…」
 
そう言われ叩きつけられた原稿は机の上で散らばり、その向こうでは、先日文学大賞を取った制服姿の女の子が素知らぬ顔で通り過ぎて行った。
 
書いても書いても、同じ事の繰り返し。気が付けば僕は都会で転がり続けていた。
 
線路を外れた僕はどこへ行くのだろう?軌道から外れてしまった列車のように、進むことが出来ずもがき苦しんでいるのだろうか?
 
気が付けばもう会社だ…。列車の尾灯は遠ざかっていた。
 
“そうだ、僕はまだまだ頑張らなくては…”
 
 
辺りが暗闇に包まれた田園風景の中、水銀灯の明かりが燦々と輝き、巨大な工場を照らしていた。
 
その工場の中へ駆け足で飛び込み、契約社員と記された棚からカードを抜き取りタイムカードを押し、重い扉を押し開けると、広々とした工場の中、整列された何百台もの製造機械の大爆音が響き渡っていた。
 
自分が働くラインへ向かい、引継ぎを済ませると仕事が始まった。
 
次から次へと材料が置かれ、製造機械へと流していった。
 
機械から出てくるのは未完成の小さな部品…矢継ぎ早にその部品は次の工程に持っていかれ、焦って材料をセットして機械へ飲み込ませる… 
 
製造機械は“ハタラケ!ハタラケ!モット!ハヤク!”と大合唱しているかのように、限界まで回り続ける高周波音が響き渡る。 
 
「はあ〜…僕はこのまま一生終るのだろうか…」
 
溜息をつき辺りを見渡した。 
 
その製造機械に、翻弄され背を丸めながら油まみれになり不器用に働く人が居た。
 
テンパっている表情…材料を落下させぎこちなく拾い集めていた。
 
そんな彼の背には上司からの厳しい視線が突き刺さり、その光景に僕の口元は微笑でいた。 
 
別の方向に眼を移すと工場内の片隅から立ち上がる煙。それは製造機械の後ろに隠れ、煙草を吸っている数人の男。 
 
「今日俺は最初3万飲まれたけど、後でリーチがかかって10万勝ったよ!!」
 
「俺は5千でいきなり来たぜ!!」
 
「そう言えばあいつ何威張っているんだ!!」
 
「何もしないくせに、ゴマすって出世して!」
 
「でも女を見る目がエロだよあいつ!」
 
「ギャハハハッ!」
 
今日も同じようにパチンコと会社の不満の話で盛り上がっていた。
 
そんな奴等を無視して必死に働く僕の肩を誰かがポンと叩いた。
 
そこには厳しい顔をした上司が居た。
 
「ごくろう!昨夜、休んだウエノクンの替わりに頼んだ工程管理の仕事…チェックシートの生産数と材料の数量が合わなかったぞ!今度から気を付けろよ!」
 
「はい…」
 
工場の片隅にあるガラス張りの管理棟では僕より三ヶ月先に職場に入ったウエノが、ニヤリとした表情でチラリこちらを見て、器用にパソコンのキーボードを叩いた。
 
「だめだ…これじゃ僕は転がり続けるだけだ…もっと努力しなくては…」
 
頭をうな垂れ現場に入り、忙しく働き続ける機械達に眼が回るほど右往左往翻弄され働きまわり。仕事から解放されると疲れた身体を引きずり眠りだけの生活が待っていた。
 
身体が拒絶しても次の日は会社に向かった。
 
ここまでしなければ生活が出来ない…それもあった。だが、それ以上に「努力しろ!もっと頑張れ!」過去から言い続けられた言葉に支配され…自分自身囚われていた。
 
「これが現実なんだ、人は夢だけでは生きてはいけない…」
 
自分自身の何かを捨て、ただ黙々と働いた。 
 
そんな姿に上司は再び僕の側へ寄ってきた。
 
「お前はあいつらとは違うな」
 
その言葉の先には、生産が上がらない油まみれの彼と、製造機械の陰に隠れて煙草の煙を巻き上げている奴等の姿があった。
 
「いいか、あいつらは敗者だ!」
 
「…?」
 
「いまお前に任せているのは、この工場の重要なラインだ!この調子で頑張ればいずれはここの責任者として頑張ってもらうからな!」
 
上司に力強く肩を叩かれ、喜びと義務感が僕の中で湧き上がり。その先には上へと上昇していく階段が開かれていった。
 
やがて契約期間という名の下に彼等は会社を去っていき、残った僕は勝者となり、広々とした工場で去って行った人の分まで仕事をこなしていた。
 
でも、捨てられぬ夢がいつか認められ、こんな生活とサヨナラする日を心の隅で夢見て…。
 
…とここまでが昨日までの僕だった…
 
今夜は違っていた、今まで自分の中の義務感から急かされて働いていたのが、彼女とマイクさんと過ごした今は身体が自然と動いていた。
 
何かに触発されたように…。
 
 
時は2000104日…。
 
その翌々日に鳥取、島根方面で大地震が起き、甚大な被害が発生した。
 
そしてバブルがはじけ、どん底に落ちていたこのクニは、これから這い上がろうと意気込むが、行く先が見えない闇の中へと踏み入れるのだった。
「じつはあと数時間で仕事に行かなくてはいけないんだ」
 
「えーっ!仕事なの!」
 
この言葉を繰り出した途端、瞬く間に彼女の表情は曇った。
 
「俺のテント貸すから、今夜はここに泊まれよ!」
 
「そうそう!一日くらいずるしちゃえ!」
 
真剣に説得をするマイクさん。その後ろで彼女が悪魔のように囁いていた。
 
しかし、僕は無理に笑顔を作りこの場をやり過ごそうとした。
 
“こんな何も出来ない自分自身が腹立たしい…”
 
「栗っこくんは土曜日からは休みなんだろ!んーだったらみなみちゃんがここに土曜までゆっくりしていきなよ!!」
 
そんな僕を見兼ねたのか、今度は反転して彼女を説得始めた。
 
「うーん」
 
マイクさんの説得に迷う彼女。
 
そのマイクさんの言葉は、僕の気持ちをそのまま反映させていた。
 
「ほら!栗っこくんも一緒に引きとめよう」
 
マイクさんは僕に協力を仰いだ。だが僕は下を向いた。
 
僕が一声掛けたら、彼女はこの場所に居てくれそうな感じだった。
  
でも、日本一周と言う彼女の夢…それにいまだ果たせぬ僕の夢を重ねていた。
 
だからこそ彼女には夢を達成して欲しかった。
 
「ねぇねぇ!すごーい!!これぜーんぶマイクさんが作ったの!」
 
感激ではしゃぐ彼女の声に顔を上げると、テーブルを覆っていた布がめくり上がり、そこからは美味しそうな料理が現れていた。
 
新鮮なキウイとトマトを添えたポテトサラダ。濃厚なクリームサラダにはコーンがプカリ浮かび、サバの味噌煮からは甘い香りが僕達の胃袋をキュンキュンさせていた。
 
「おっ!そうだ!冷めないうちに食べてくれ!」
 
マイクさんのその一言より先に、僕と彼女の手が料理へ伸びていた。
 
「うま〜い!」
 
「こんな豪華な料理、この旅で初めてだよー」
 
僕と彼女の反応に、マイクさんは満面の笑みをたたえていた。
 
「ハハハ!そのサバは味噌と生姜で煮込んで、魚の生臭さを取ったんだ」
 
説明するマイクさんの言葉に二人は頷き、料理への感動は深まるばかりだった。
 
その僕達の背景にはレストランから流れる洋楽のオールディズのナンバーが心地良く耳へ溶け込み。見上げると、葉が散った桜の枝の隙間からは無数の星が輝いていた。
 
まるで季節はずれの花見みたいに…。
 
「そーだ、年齢当てしょうか!」
 
どうゆう話の流れになったのか?いつの間にか年齢当て大会が開催される事になってしまった。
 
最初は言い出したマイクさんからだ。
 
目じりには小じわがあるものの生き生きした眼に、黒く焼けた肌には張りが十分あり、身体だって引き締まったものだった。
 
「三十代後半!」
 
「うーん、私は四十なったばかりとみた」
 
僕と彼女の答えにマイクさんの口元からニヤリ笑みがこぼれた。
 
「残念、四捨五入したら五十になってしまう、四十七だよ」
 
「えっ!」
 
「とてもそんな歳に見えない!!」
 
僕と彼女の口から驚きが出た。
 
「じゃあ、次はみなみちゃんの番だ!」
 
マイクさんの一言で彼女に視線を注いだ。
 
活力ある彼女の大きな瞳に、小麦色の肌はとてもきめ細やかで、まるで赤ちゃんの肌のようだった。
 
「んー、二十台半ばだな」
 
「二十五、六かな?」
 
マイクさんと僕の答えに、彼女の頬は不満げに膨れた。
 
「なーんでそう簡単に分かっちゃうのかな〜!二十六です!少しは若く答えてよ!!」
 
そんな彼女とは対照的に、僕とマイクさんは手を叩き喜び合った。
 
 
「じゃあ、最後は栗っこくんだ!」
 
その一言で、二人の視線が僕へと集まり、なんともくすぐったい感じがした。
 
もう二十八になる僕だが、この幼い顔立ちのせいで、いつも実年齢より若く見られていた。
 
僕の予想だと彼女とマイクさんは二十三、四と答えると踏んでいた。
 
「栗っこくんは今年成人式の年齢だろう」
 
「それは違うよ!今年高校を卒業したばかりだよね!」
 
“えっ!”
 
余りの実年齢の開きに、年齢を答えるのを一瞬ためらった。
 
「…もう…二十八なんだ…」
 
「え〜!若い!!」
 
「うっそー!」
 
反響が一斉に押し寄せて来た。
 
「若く見られていいなー」
 
「いや、結構困ることばかりだよ…」
 
「そうかなー」
 
羨ましそうに僕を見ている彼女だったが、その気持ちに素直に喜ぶ事は出来なかった。
 
年齢で決められてしまう人の上下関係…見下されたり、なめられたり…こんな顔立ちのせいで何度嫌な事に遭っただろう。
 
でも、眼の前に居る二人は無垢な笑顔で、こんな僕を受け入れてくれた。
 
それは年齢、地位、名誉、貧富の差、ちょっと大げさかも知れないけど人種や宗教…の壁の無い不思議な世界で僕達は心を許し、どこまでも心を交えていた。
 
「栗っこくんの名字を教えて」
 
不意にマイクさんに名字を聞かれ答えた。
 
「うんーそうか、栗っこくんの先祖は信濃出身で、宮城に居るという事は、仙台藩の伊達家に仕えた由緒ある家だな…」
 
遠い昔の先祖の話を情感を交えマイクさんは語り始めた。
 
自分自身の先祖の由来や、彼女の先祖がどこからやってきて、どうして奄美に根を降ろしたのか。
 
それはまるで、社会化の授業で先生が教科書の本題から脱線し、勢いがついた話が止まらず暴走しているみたいで、その話の行き先を、僕と彼女はワクワクしながら聞いていた。
 
楽しい時はあっと言う間に過ぎて行った。
 
気が付くと会社に行かなければいけない時間が迫っていた。
 
「時間、大丈夫?」
 
「うん、もう行かなきゃ」
 
時計を気にする僕を、彼女は気遣ってくれた。
 
「じゃあ、今夜はどうも…ごちそうさまでした」
 
立ち上がり彼女とマイクさんに深々と一礼すると、その足でTWの元へ向かった。
 
ふと、隣には彼女が…。
 
「今夜は栗っこくんのおかげで楽しかったよ…」
 
「うん!僕も今までに無いくらい楽しかったよ」
 
彼女がその距離以上に近く感じた。
 
「今度の土日はどの辺り走っている?」
 
“もう一度…会いたい”
 
僕の中、揺らいでいた。
 
「三日後か〜」
 
考え込む彼女。
 
その糸よりも細く、千切れそうな希望に期待を託していた。
 
「明日と明後日は蔵王辺りでのんびりしながら美味しいもの食べて…」
 
細い糸を手繰っている僕。彼女が行動範囲に居る事を必死で祈った。
 
「…その頃は猪苗代湖でキャンプしているかなー」
 
“宮城の隣、福島県だ!”
 
「じゃあ、テント持って猪苗代湖に行ってみようかな〜」
 
「本当に!!私待っているよ!」
 
笑顔が二つはじけた。
 
その日に彼女がそこに居るかは不確定な約束だった。でも実現しそうな気がした。
 
「じゃあ!」
 
「じゃあ!」
 
別れの言葉を交わすと、僕は現実の世界へと向かった。
 
結局、あの心地良い不思議な空間の謎も分からず、心地良い空間に飲み込まれてしまっていた。
 
ただ、また彼女に見送りをされる僕だった。
 
バックミラーには手を振る彼女の姿がいつまでも映っていた。
 
 
夜の兵糧山キャンプ場。白く輝くレストランの窓の明かりがキャンプ場を照らし、芝生の上に張られた小さなテントと、そこに寄り添うセローの姿が闇の中に浮かんでいた。
 
“静かだ…”
 
駐車場の隅に止められたキャンピングカーのキャビンの窓からは光が溢れ、その窓へ近寄った。
 
「こんばんは…」
 
「おう!」
 
キャビンの窓からは湯気と胃袋をキュンキュンさせるいい香りが溢れ出し、そこからマイクさんの顔ががひょこっと出た。
 
「やっぱり来たか!」
 
「えっ!やっぱりって?」
 
「ハハハ!まーいーから、じゃあ一緒に飯食うぞ!そー思って、三人分準備したからな!」
 
“どーして?何故!?”
 
 「すまないが彼女を呼んできてくれ!」
 
 そう言うとマイクさんはニヤリ含み笑いをして、手元では慌しく調理を進めていた。
 
僕はそのマイクさんの不思議な言動に首を傾げながら、彼女の元へ向かった。
 
キャンプ場の中央に組まれた小さなテント。その内側から柔らかな灯りが揺れていた。
 
大人一人が横になるのが精一杯サイズの可愛らしいテント。
 
だがその前に立った途端、僕の心臓は大きく脈打ち出し、その場に固まってしまった。
 
“どうしてしまった僕…何をこんなに緊張しているんだ”
 
自分に言い聞かせても身体が思うように動かなかった…。 
 
「おーい!みなみちゃーん、彼氏が来たぞー!」
 
そんな僕の様子を見かねてか、キャビンで調理するマイクさんの声が僕の肩口を越えて飛んだ。
 
“いや…彼氏って…それにみなみちゃんって…?”
 
するとテントのファスナーがゆっくりと開き、そこからあの暖かな笑顔の彼女が現れた。
 
「あっ!やっぱり来たんだね!」
 
僕を見るなり、彼女からも“やっぱり”と言う言葉が飛び出し、僕は更に不思議な感じに包まれた。
 
「やっぱりって…どうして僕が来るの分かったの?」
 
「マイクさんが、あの男の子は今夜来るよ!…って予言していたんだ!」
 
「えー!どうして分かったのかな〜?」
 
「さー、何故でしょう?」
 
その時、彼女から心の底から嬉しそうな笑顔を見せ、その笑顔になぜか僕はドキッとしていた。
 
「ところで、さっきマイクさんが言っていた“みなみちゃん”って…何なの?」
 
「私が南の島から来て、これから南の方角へ走っていくからマイクさんが“みなみ”って呼んでいるんだよ!」
 
「へぇ〜、それでみなみちゃんか〜」
 
「じゃあ、ちょっと支度するから先に行ってね!」
 
彼女は再びテントの中へ潜り込み、僕はマイクさんの元へ戻った。
 
するとキャンピングカーの脇にはテーブルと椅子がすでにセッティングされ、キャビン内のキッチンでは、まるで一流シェフのような軽快な包丁さばきと鮮やかな手つきで調理をしているマイクさんがいた。
 
キャビンの窓に手を掛けつま先立った格好で、その光景に見取れていた。
 
「すごい!」
 
魚をきれいに三枚に下したかと思えば、次の瞬間には野菜を一瞬のうちに細かく刻み、その間にも鍋の様子をチラチラ見る隙の無さ。
 
我を忘れ見入いる僕だが、肩口をチョンと小突く感触がして、振り向くと隣に彼女が僕と同じような格好で窓に手を掛け、思いっきりのつま先立ちでキャビンを覗き込んでいた。
 
「すごい!!思わず見入ってしまうね!!」
 
「うん」
 
 
感心して見取れる二人。だがキャンピングカーの下に何か気配のようなものを感じた。
 
「あれっ!足元に何かいるみたいだよ!」
 
「えっ!この下に?」
 
 恐る恐る身を屈め、キャンピングカーの下を覗き込んだ。
 
するとそこには白い小型犬が身を潜めていた。
 
それは胴や四本の足は細く枯れ、毛艶もくすんでいる老犬だった。
 
「あっ!ワンちゃんだ!」
 
彼女は老犬にそっと手を伸ばした。
 
だが老犬は前足をぐっと前方へ伸ばし、背筋を怒らせ、全身を震わせながら二人を睨んだ。
 
「そいつとは十年来の付き合いで、俺の旅の相棒さ…」
 
テーブルに料理を並べながら、マイクさんは老犬の事を語り出した。
 
「そいつの名はパシル」
 
「パシル…珍しい名前だ…」
 
「そいつはもらったというか、預かったと言うか、拾ったというか…まーいろいろ訳ありでね…」
 
そこでマイクさんの話は途切れ、まだこの言葉の重さの意味に気付かぬ僕はそれ以上聞くことは無かった。
 
「おいでパシル」
 
彼女がそっと差し出した両腕と愛情に満ちた眼差しに老犬は身体をすり寄せ、彼女に優しく撫でられていた。
 
その様子に僕も老犬に手を差し出した。
 
だが態度は一転し、再び背筋を怒らせ吠え出した。
 
その急変ぶりに、慌て必死になるが、必死になればばるほど老犬の怒りは高まり、僕は焦る一方だった。
 
「ハハハ!嫌われたね!」
 
「…なんで?」
 
「ハハハ!パシルはキャンパーの匂いが分かるのさ!」
 
「何!それ?何なのマイクさん?」
 
キャンプ場に笑い声が響くと、テーブルに着くようマイクさんは手招きをし、何も手伝うことが出来なかった二人は照れながら席に着いた。
 
テーブルには彩り鮮やかに料理が並べられ。僕は早速、持参した地酒をテーブルに上げた。
 
地元の小さな酒蔵で丹精込めて造られた日本酒、栗駒山。
 
宮城県、岩手県そして秋田県と三県を跨ぐ秀峰の名を冠している。決して有名な酒蔵ではないが、この日本酒の味だけは僕のこだわりだった。
 
栓を開け、とろりとした甘く清々しい香りが辺りに広がると、みんなの顔は期待で微笑み。それぞれのマグカップに酒が注がれた。
 
早速乾杯を決めカップは傾けられていった。
 
“マイクさんやみなみちゃんの口に合うかな?”
 
上目遣いで伺う僕の横で、カップに注がれた日本酒は飲み干されていった。
 
「んー!こりゃすっきりして飲みやすい!」
 
「今までは日本酒は全然苦手だったけど、これは美味しい!日本酒のイメージが変わっちゃった!」
 
空になった二つのマグカップ。
 
三人の表情は輝き、再びマグカップに日本酒が注がれると、そのカップの中では、ランタンの灯りがゆらゆら揺れ輝いていた。
 
「本当…このお酒美味しいー」
 
「くり…こま…やま…かー」
 
「へぇー栗駒山」
 
彼女とマイクさんは深緑色のビンを街灯の明かりに照らし眺めていた。
 
「栗か…そう言えばここに来る途中に“栗っこ農協”ってあったな」
 
「私も見たよ!栗っこ農協」
 
「栗っこかー」
 
一升瓶を囲んだ二人の顔が微笑むと、次の瞬間その笑顔が僕の方へと向けられた。
 
「じゃあこの瞬間から君は栗っこだ!」
 
「えっ!何それ?」
 
「栗っこくんよろしくね〜」
 
もう出来上がってしまったのか、ニヤけている二人に肩を叩かれ、その時から僕は“栗っこ”と呼ばれる事になってしまった。
 
しかし、この暖かな雰囲気に流されてしまいそうな僕はには言わなくてはいけないことがあった。
 
第三章 季節はずれの花見
 
 
木造二階建ての古びたアパート。外壁は傷み、脇に設置され2階の部屋へと登る鉄の階段は錆びだらけになっていた。
 
すでに陽は落ち、辺りは暗くなっているのに、どの部屋にも灯りは点いておらず、ひっそりと静まり返っていた。
 
このアパートは来月の始めには取り壊し工事が始まり、来年には鉄筋モルタルのアパートが建つ事になっていた。
 
残った入居者は僕一人だけ…今月末までには退去しなければいけない。
 
でも、毎日をギリギリの生活でなんとかしのいでいる僕には行き先などなかった。
 
暗く冷え込んだ部屋に灯りを点けると、栄養剤が転がるちゃぶ台のぽっかり空いた空間が寂しげだった。
 
今まで書き上げた小説は佳境を迎え、もう少しで完成するはずだった。
 
“これが完成したら、自分が向かうべき先が見えるはずだった…”
 
でも気持ちは落ち込んではない、むしろ身体からエネルギーが溢れんばかりに湧き出ていた。
 
“奄美大島…エリカ…
 
なんていい響きがする名前と地名だろう。
 
“会いたい…もう一度だけでも…”
 
抑制出来ない感情。僕は狭い部屋の中を早足でグルグルと回っていた。
 
ふと部屋の片隅に眼をやると、置き忘れた携帯に着信が入っていた。
 
それは今夜の深夜勤務の早出出勤の依頼だった。
 
“今日もか…”
 
深い溜息が出た。
 
毎日休む暇が無いほど早出出勤に残業…でもそうしなければ生活は維持できないのだ。
 
“僕は拘束されていく…そうだ、行かなきゃ…行かなければ僕はこの世界から落ちてしまう…”
 
睡眠不足の身体と頭。重くなりかけた瞼をこすり、時計を見た。
 
“仕事まで四時間だ…ミスは出来ない…身体を休めなきゃ…”
 
 “でも会いたい…”
 
その時、アパートはガタガタと揺れ。小刻みに振動する窓の外では列車に積載されたコンテナが通過していった。
 
その乱立した金属音が僕の頭の中をかき乱し、遥か遠くの方では遮断機の叫び声が響いていた。
 
やがて、パンタグラフから飛び散る火花と、後尾車両の赤い尾灯が南の方角へと遠ざかっていき。その光景を見ているうちに、心に刺さっていた迷いは消え、大切に保管していた地酒を冷蔵庫から取り出すと、TWに飛び乗り、暗くなった道を走り出した。
 
闇に隠れたアスファルトを照らし、僕はただひたすら走った。
 
“あんなに初対面の人と親しく喋れる自分は今まで居ただろうか?”
 
“あの感じ…彼女やマイクさんから感じるあの心地良い不思議な感じは何だろうか?”
 
“いったい僕はどうしてしまったんだ…”
 
彼女やマイクさんにはまっている自分…。そして僕はあの心地良い空間へと向かって走っていた。
 
綺麗に手入れされたブドウ畑を感心して見ていたら、ブドウ畑の農家から両手で抱えきれないほどのブドウを分けてもらい、毎日ブドウだけの食事が続いた山梨。
 
誰も居ない広々としたキャンプ場に昼間到着して、酒を飲み早々と寝込んで、朝眼が覚めたら、周囲一面足の踏み場が無いほどテントが張り巡らされ、しばらく身動きが取れなかった夏の北海道。
 
山菜を採取しながら旅を続ける旅人と仲良くなったら、お礼に数種類の薬草を教えてもらった、四国での旅。
 
閉鎖されて藪だらけになったキャンプ場で、原始の生活をしている人が居ると言う、石垣島。
 
彼女と男性の口からは次から次へと日本全国での出来事が飛び出し、僕は聞くことで精一杯だった。
 
だけど、僕にとってその未知の土地の様子や光景を、彼女はそっと優しく手に取るように教えてくれた。
 
“もっと旅していたなら…”
 
自分の口からは後悔が出た。
 
でも、この二人の間の空間はとても心地良い居心地だった。
 
空席だらけのレストランの窓から暇をもてあましたウェイター達が、物珍しそうに僕等を眺めていた。
 
今知り合ったばかりなのに、何十年も付き合いがある友と出会ったかのように、僕等の間を暖かな時が流れていった。
 
“この中年男性…どこかで見たような…”
 
「あっ!マイクさんだ!俳優のマイクさんにそっくりだ!」
 
突然の僕の思い出しに、彼女と男性の目は丸くなっていた。
 
俳優のマイクさんはかなりの年配の方で、純然たる日本人だが、風貌はどこか日本人離れしていて。
 
本業の俳優や音楽活動に止まらず、サーフィンや料理に至るまでその趣味もどれも超一級で、男の優しさと強さを持ち合わせた人だ。
 
「俺があんなに格好良くないだろう」
 
「あっ!言われてみたらよーく似ている」
 
照れる男性。彼女は男性の顔を覗き込むと、首を大きく縦に動かした。
 
その瞬間、何故か僕等は笑い合っていた。この時から男性を“マイクさん”と呼ぶようになった。
 
「あっ!もうこんな時間だ。そろそろ帰らなきゃ…」
 
「えっ!もう?そう言えば空が紅くなり始めている」
 
こんなに楽しい時間を過ごしたのは何十年振りだろうか?…笑顔が止まる事がなかったせいか頬が痛い。
 
「ちょっと待って!」
 
バイクへ向かった足を止め振り返ると、息を切らした彼女がカメラを持ってそこに居た。
 
「旅の思い出に出会った人を撮っているんだ!」
 
「えっ!僕も?」
 
「君も大切な思い出だよ」
 
満面笑みを湛える彼女に、ほんの僅かの出会でしかない僕は戸惑った。
 
「じゃあ俺が撮ってやるから、彼氏と彼女…並んで」
 
“彼氏と彼女って…”
 
マイクさんの気遣いで、彼女とのツーショットを撮る事になり。TWとセローをバックに僕と彼女は並んだ。
 
「ほらほら!二人もっと側に寄って!」
 
マイクさんの指示に従い側に寄ると、肩と肩が触れ、風でふわり舞った彼女の髪が頬をくすぐっていった。
 
「さー微笑んでー!撮るぞー!」
 
その言葉以前に顔はほころび、笑顔の二人はフレームの中へ納められた。
 
「じゃあ、ここに住所と名前書いて!私の住所これに書いておくから!」
 
渡された厚い手帳。そこにはいくつもの筆跡で記された無数の住所と名前が綴られ、その残されたページに僕の名が加わった。
 
「これが私の住所と名前だよ」
 
“ 鹿児島県名瀬市 …奈村エリカ…”
 
「 名瀬市 って、鹿児島のどの辺りなの?」
 
「鹿児島からずーっと離れた南の島。奄美大島だよ…」
 
「アマミオオシマ!?凄い!」
 
その奄美と言う地名に、どこまでも突き抜ける青い空と、財宝のような珊瑚礁が眠る海がどこまでも果てしなく広がっていくエメラルドブルーの光景が浮かんだ。
 
「そうでもないよ…奄美は何も無いところだよ…」
 
「でも、いつか行ってみたいな〜」
 
その時、彼女は一瞬沈んだ表情をした。だが単純に喜んでいる僕を前に、すぐにいつもの笑顔に戻った。
 
TWを跨ぎ、帰路へと就こうとした時。
 
「ねぇ…君って独り者のフリーなの?」
 
「うん、そうだよ」
ちらり伏目がちの横目で僕を見る彼女に、くすぐったい感じがした。
 
そしてキャンプ場を去って行く僕を彼女は見送ってくれた。
 
“チラリ見るバックミラーには彼女の姿がいつまでも…” 

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