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「断崖絶壁の温泉に行けないみたいだから、この温泉に入ろうか?」
「うん!」
滑川温泉の看板を指差すと、彼女の表情は輝き。バイクを道端に停め、僕達は温泉へと歩き出した。
激しくうねってゆく渓流沿いの道を歩いてゆくと、山の傾斜地に這いつくばるように建てられた木造二階建ての旅館が現れた。
「すごい…こんなとこによく建てた…」
二人の口から出た感嘆。
その旅館の板張りの壁面や木枠の窓組みは長い年月をかけ色褪せ、土台の石組みは何重にも重ねられ苔むし、周りの風景と見事に調和していた。
「いつも上の温泉に行ってしまうから、ここに来るの初めてだ…」
「栗っこくん!もったいない!身近にこんなにいい物があるのに来てないなんて!」
彼女にそう言われ恥ずかしくなっていく自分。
湯治場の雰囲気を漂わせる旅館。二人は石段をゆっくりと登り、軒下に着くと全身にまとわりついた雫を払い、玄関を潜った。
「すいませーん!」
忙しく動き回る音が響く旅館内、長い廊下の奥へ声を掛けると、弾んだ息の返事とスタスタと軽快に歩く音と共に廊下の奥から従業員が現れた。
「はーい!」
「入浴したいんですけど」
そう言うと、従業員は長い廊下の先を見て、申し訳なさそうな表情をした。
「あのー、いま内風呂が掃除中なので、混浴の露天風呂しか入浴出来ないんですけど…それでよろしければ…」
“えっ!ここもダメ!”
諦めた僕は彼女の方を見ると、どこか一点を見て、考え込んでいた。
「ここも駄目みたいだから、峠の茶屋に行こうか?」
そんな彼女にそっと声を掛けたが、その瞬間、彼女の表情は揺ぎ無く深い決意をした。
「私、入る!」
その言葉の意味に僕は一瞬理解出来ずに居た。
「バスタオルなんてないしタオル一枚しかないけど、大丈夫だよ!」
「えっ!混浴って…裸になるし…僕は男だってことだし…」
彼女の言葉の意味を理解すれば、理解していくほど、僕は動揺の境地にはまっていき。その時、キラキラと輝く彼女の瞳が僕を見つめた。
「たった一秒でも栗っこくんと時間を共有したいんだ」
その言葉と、瞳の前に、今まで動揺していた自分が急に恥ずかしくなり、何も言えなくなっていた。
二人は露天風呂へと向かい、長い廊下の先へと歩き出した。一歩一歩、歩く度に床がきしむ音が響いてゆく。
“交わす言葉が見つからない、いま言葉を出しても白々しい言葉しかでない”
ただ、歩いてゆく左手には客室を区切っている障子が廊下の果てまで続き、その反対側の木枠の窓。そのガラスの向こうにグレーに染められた世界が広がっていた。
廊下を抜けると、目の前には激しい爆音と共にうねり狂う渓流と共に、切立った断崖が現れた。
いつの間にか雨は小降りになり。そして自分達が旅館の裏側に出た事に気付いた。だが、相変わらず二人は言葉を交わせないままに、雨に濡れた石畳を歩き、男女別となった簡素な造りの脱衣所で分かれた。
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小説 第十二章その4
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