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伊勢亀山城跡

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 伊勢亀山城は画像1枚目に示す様に、JR亀山駅より市役所方面へ伸びる道を約1km行くと多門櫓
(画像3枚目)に着く。 東海道五十三次の亀山宿となっていたところなので、車で行くには新名神の
亀山ICで降りればすぐである。
画像2枚目は城郭を示すものである。 赤線は現在の道路、主な建物をしめす。 ピンク色は亀山城の
建物のあった所。 本丸は池に囲まれた中央にあり、二の丸御殿が右側に、西出丸が左側に、池を挟んで
下側に西の丸、二の丸の更に右側に東三の丸があった。 本丸は亀山神社及びますみ児童公園に、二の丸
は市役所および西小学校に、西の丸は亀山中学になっている。 全体を池と堀で取り囲んだ平山城で
あった。
画像3枚目は本丸御殿を守る 東南の隅櫓である。 本城は明治政府による廃城令により殆どの建物が
取り壊されたが、この多門櫓と石垣・土塁・堀の一部は残った。 貴重な遺産である。
画像4枚目は狭間のない土塀。 普通城の土塀は鉄砲を撃つ小さい窓(狭間)あるものだが、古写真では
狭間が一つも無かったとの事。 この土塀は西の丸帯曲輪部にある。
画像5枚目は埋門である。 二の丸御殿の北側にある。
画像6枚目は西小学校の正門及び白壁の塀である。 二の丸御殿を囲んでいた塀を模してつくったもの。
亀山城は岡本宗憲が1590年入城し現在の地に築城したのが母体となっている。
その後城主は関、松平、三宅、本多、石川、板倉、松平、板倉、と代わり石川がその後11代続き明治
維新を迎える。
三宅氏が城主の時 丹波亀山城の天守を解体する様命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城天守を
取り壊したと伝えられている。
命令・伝達がどこでどう取り違えられたのか 現今の会社組織にもありえることだ。 

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伊勢亀山は戦国時代、織田信長、豊臣秀吉に仕えた関盛信が領していた。
盛信の子・関一政は美濃多良に移封され、代わって豊臣氏の家臣・岡本良勝が2万2000石で入る。良勝は、亀山城を築き、城下を発展させて検地を行なったことから確立しているといってよい。
しかし慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで西軍に与して改易された。

代わって、東軍に与した関一政が関ヶ原における功績で旧領復帰を許されて3万石で入る。一政は、亀山宿の整備や城郭の修築などに尽力した。
しかし1610年、伯耆黒坂藩へ移封され、8日後の7月27日に三河国作手藩より松平忠明が5万石で入る。1615年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぼされると、直後の6月10日に忠明は摂津大坂藩に移封され、亀山藩は廃藩となり、その領地は四日市代官の水谷光勝や津藩領として支配された。

1619年、三河挙母藩より三宅康信が1万石で入る。康信は1620年に2000石の加増を受けて1万2000石の藩主となったが、第2代藩主・三宅康盛時代の1636年、旧領へ戻された。

2019/1/5(土) 午後 11:32 [ 白フクロウの眼差し ]


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