織田信長の武将和田惟政が城の基礎を築き入城したのが1569年
惟政戦死しその息子惟長を追放して高山右近父子が入城したのが
1573年。その後時代は変わって秀吉の天下になり、1585年
右近は高槻城から明石へ転封となり、その後バテレン追放令で加賀
前田家預かりとなり、さらに徳川家康により国外追放になりマニラ
で亡くなった。1615年のことである。御歳63歳。
右近は熱心なキリスト教徒だったがためにこのような運命をたどら
ざるお得なかった。 何と言う悲劇か。 胸が痛くなります。
その後高槻城は徳川の家臣により統治されますが、永井家が十三代に亘り治め明治にいたります。
添付画像1枚目は城跡公園にある高山右近の像です。 2枚目は当時の高槻城郭の図です。これを見ますと外堀、内堀が有りその内側に本丸、二の丸、天守閣を備え堂々たる平城であったことがわかります。
高槻城は明治7年破却され、石垣の石は鉄道建設に利用され、その跡地は陸軍工兵第4連隊中部第29部隊の駐屯地(添付画像4枚目)となり、戦後は現在の高槻市立第1中学校(添付画像5枚目)となっている。 城郭内には野見神社(添付画像3枚目)があって江戸時代は永井神社とも言われた。
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