古城

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伊予松山城

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伊予松山城はJR松山駅の西約1.6kmの城山公園の頂上(132m)の所に天守閣を持つ平山城である。
画像1枚目は初代城主加藤嘉明である。 豊臣秀吉に仕え「賎ヶ岳七本槍」の一人である。同じ加藤姓の加藤
清正はよく知られているが、嘉明ははどちらかと言うと個人プレーを好まず、団結力を重視したので、清正の
目立ちたがり屋の影に隠れてしまったようだ。 大坂の陣では家康方に加担しその報奨として伊予20万石
を貰ったが、その後合津40万石に加増転封となり、自分の設計した城郭が完成する前に合津に移った。
世の中思うように行かぬものだ。
画像2枚目は隅櫓と繋ぎ廊下で射撃用狭間(さま)と石落としが備えてある。
画像3枚目は筒井門である。 攻めてきた敵をこの筒井門と右手の石垣に隠された隠門(かくれもん)から
急襲し撃退させた。
画像4枚目は本丸の石垣である。 遠方の櫓は太鼓櫓と言われている。この太鼓櫓で攻めてきた敵を射撃
撃退する様に造った。 この様に2重、3重に防御するよう設計されている。
画像5枚目は天守閣である。 白壁に黒板張り、唐破風を備えた優美な姿である。
画像6枚目は松山城古図である。 左下は武家屋敷でその一郭も取り囲んで堀が造られている。
天守閣は中央上部で、左下に一段下がって二の丸がある。

福山城

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福山城はJR福山駅の北側にある。 駅ホームから天守閣が見える。 画像1枚目は城郭絵図である。
内堀、外堀に守られた平山城である。 
画像2枚目は天守閣である。 五層六階で最上階は高欄付縁をめぐらしている。 現在のものは
第2次大戦後の復興天守で昭和41年に復元されたものである。
画像3枚目は筋鉄御門で伏見城からの移築である。 門の扉に帯鉄を縦に十条打ちつけたので
その名が付いた。  
画像4枚目は伏見櫓である。 これも伏見城からの移築である。
画像5枚目は天守閣最上階から国道2号線(山陽道)を撮ったもの。
画像6枚目は阿部正弘像である。 藩主は福島正則減知転封後 水野氏5代、松平氏10年、阿部氏
10代で明治維新をむかえる。 その阿部氏の7代目が阿部正弘である。
阿部正弘が老中首座に任ぜられた幕末、ぺりーの率いる艦隊が2度にわたり(1853年、1854年)
来日し、開国を迫った。
その力に屈し、日米和親条約を結び開国に踏み切る。
ところが攘夷派(徳川斉昭が中心)と開国派(井伊直弼が中心)の間で心労が重なり老中在任中
江戸で急死。 享年39歳。

墨俣一夜城

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 墨俣城は一夜城とも言われ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が3日間で築いた砦である。

画像1枚目は現在の墨俣城資料館である。 故竹下首相が「ふるさと創生資金」として各市町村へ1億円
交付した際、鉄筋4層6階建ての資料館を造ったものである。
画像2枚目は交通案内である。JR東海道線の穂積駅下車、南へ車で10分の所にある。 ちょっと不便。
画像3枚目は墨俣城の模型である。 信長は天下に覇をとなえるため墨俣に拠点が必要であった。 何度
も拠点造りを試みるが、敵方の妨害でうまく行かぬ。 そこで誰か居らぬかと配下に質したところ、木下
藤吉郎が手を挙げた。 そして画像3枚目の如き砦の計画図を作った。 堀380間、土居250間、
馬柵1800間、高塀136間、大手・搦手に木戸、高櫓5棟、平櫓3棟、殿様屋敷1ケ所、井戸2ケ所
と言うもの。
画像4枚目は木下藤吉郎の絵像である。 並外れた計画性と機転を有する人で、人を引き付けるのがうま
く、人たらしと言われた。
画像5枚目は墨俣城構築の流れを表した図である。 陣容は総勢2140人。 木曾山中の木材を切り出して船に積んで松倉まで運び、ここで加工し、加工材は平島に集積し、夜間現地へ運んだ。
現地では大工、土工、人足がそれぞれ手分けして構築に当り、木下配下の鉄砲隊75人及び蜂須賀小六
配下133人は敵方の妨害を防いだと思われる。
画像6枚目は城の最上階から北方の稲葉山城(後 岐阜城と改名)を望んだもの。 長良川の遥か向こう
の山上に見えるのが、信長が攻め落とした稲葉山城である。

伊勢亀山城跡

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 伊勢亀山城は画像1枚目に示す様に、JR亀山駅より市役所方面へ伸びる道を約1km行くと多門櫓
(画像3枚目)に着く。 東海道五十三次の亀山宿となっていたところなので、車で行くには新名神の
亀山ICで降りればすぐである。
画像2枚目は城郭を示すものである。 赤線は現在の道路、主な建物をしめす。 ピンク色は亀山城の
建物のあった所。 本丸は池に囲まれた中央にあり、二の丸御殿が右側に、西出丸が左側に、池を挟んで
下側に西の丸、二の丸の更に右側に東三の丸があった。 本丸は亀山神社及びますみ児童公園に、二の丸
は市役所および西小学校に、西の丸は亀山中学になっている。 全体を池と堀で取り囲んだ平山城で
あった。
画像3枚目は本丸御殿を守る 東南の隅櫓である。 本城は明治政府による廃城令により殆どの建物が
取り壊されたが、この多門櫓と石垣・土塁・堀の一部は残った。 貴重な遺産である。
画像4枚目は狭間のない土塀。 普通城の土塀は鉄砲を撃つ小さい窓(狭間)あるものだが、古写真では
狭間が一つも無かったとの事。 この土塀は西の丸帯曲輪部にある。
画像5枚目は埋門である。 二の丸御殿の北側にある。
画像6枚目は西小学校の正門及び白壁の塀である。 二の丸御殿を囲んでいた塀を模してつくったもの。
亀山城は岡本宗憲が1590年入城し現在の地に築城したのが母体となっている。
その後城主は関、松平、三宅、本多、石川、板倉、松平、板倉、と代わり石川がその後11代続き明治
維新を迎える。
三宅氏が城主の時 丹波亀山城の天守を解体する様命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城天守を
取り壊したと伝えられている。
命令・伝達がどこでどう取り違えられたのか 現今の会社組織にもありえることだ。 

津城

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 津城はJR紀勢本線 津駅から三重交通バスに乗り6分の三重会館で下車、国道23号線を歩いて
約200m南へ行き、歩道橋を西に渡るとお城前公園に着く。
ここの入り口に画像写真1枚目に示す「三重隅櫓」が見える。
画像写真2枚目は「城郭」を示すものである。 本丸を中心に天守台、埋門跡、西の丸、内堀の配置
が判る。
画像写真3枚目は天守台の石垣である。 富田知信城主の時 東軍に属し、関ヶ原合戦時 西軍に攻撃
され天守が焼失。 藤堂高虎が1608年伊予今治20万石から この地に22万4千石で移封を命ぜ
られ 城と町の再建にかかるが、天守閣は造らなかった。
画像写真4枚目は埋門跡である。 画像写真5枚目は内堀である。 画像写真6枚目は藤堂高虎の
馬上の勇姿である。
高虎は加藤清正と並び称せられる築城の名人。 加藤清正は熊本城が有名。 高虎はこの津城と
伊賀上野城が有名。 石垣の石積みのやり方にその特徴があると言われている。 
画像写真5枚目の内堀の石垣を見ると 下から上までその輪郭線がほぼ直線であるが 熊本城のそれは
上部に行くほど「反り」があるのが判る。
津城は高虎が入封してから11代続き明治維新を迎える。 建物は解体され、本丸の櫓、多門櫓などは
競売された。 以前からある権威の象徴は徹底的に破壊するのが革命か?

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