たまたまTVをつけたらやっていた、○HK高校講座日本史。
これがわかりやすくて勉強になったので、メモメモ。
①戦争の背景
清国内では、民衆宗教義和団を中心に
「扶清滅洋=清朝を助け、西洋を滅ぼせ」を掲げた外国人襲撃運動が起こります。
清朝政府もこれを支持し、1900年、列強に宣戦を布告しました。
イギリス、アメリカ、日本など8か国が出兵し、乱を鎮圧しました。
この事件は義和団事件と呼ばれます。
ところが出兵した国の一つロシアは満州=中国東北部を事実上占領してしまいます。
その名目は、ロシアが満州地域で中国から租借していた鉄道を守るためというものでした。
満州に駐兵を続けるロシアは、日本にとっても大きな脅威となりました。
また、中国に大きな利権を持っていたイギリスも、自国の権益と衝突すると考えました。
→日英同盟
1903年、ロシアとの戦争を回避しようと考えていた元首相の伊藤博文がロシアに赴き、
皇帝ニコライ2世と会見しました。しかし、交渉は失敗に終わります。
日本の安全のためには、朝鮮半島からロシアを駆逐する必要があるとして、
小村寿太郎外相は、1904年2月6日、ロシアに国交断絶を言い渡しました。
2月8日、日本軍は、韓国と中国の旅順で軍事行動を開始。
2月10日、双方が宣戦を布告して、日露戦争が始まったのです。
日清戦争からわずか数年で、戦争の成果は消滅。
しかも義和団事件の後もロシアが満州から撤兵しなかったことは、
日本の韓国での力関係をさらに弱める問題として無視できませんでした。
日本にとって、ロシアの勢力を韓国から排除することが最重要課題となったのです。
②国民と戦争
戦争が始まる直前、日本国内のほとんどのメディアは、
「ロシアを撃つべきだ」と主張していました。
これを「主戦論」と言います。
つまり日清戦争の結果、東洋全体が危うくなってしまったというのです。
彼は別の文章で、日清戦争は結局「利欲のための戦争」であったとも言っています。
こうした反省から、戦争は「人を殺すこと」であり、それは「大罪悪」で、
自分は「戦争絶対的廃止論者」になったと言い切りました。
しかし内村は、実際に戦争が始まると、平和回復を祈る行動にシフトしていきました。
反戦は、幸徳秋水ら社会主義系の人々によって主張され続けました。
戦費だけでも約18億円で、これは戦争前の日本の国家予算、約3億円の6倍以上になります。
③戦争の結果
1905年5月、日本は、戦艦三笠が率いる連合艦隊が、
ロシアのバルチック艦隊を対馬沖の日本海海戦で破りました。
勝利が続いたにもかかわらず、日本は財政的軍事的にも限界を迎え、
これ以上の戦争継続は困難になっていました。
日本の国民は、戦争で払った犠牲に対して獲得したものがあまりに少ないとして、
講和条約が結ばれた日に東京など各地で暴動を起しました。
日本領の「朝鮮」。
1945年まで植民地支配が続くことになる。
日露戦争が始まる際、日本は満州の門戸開放をアメリカやイギリスにアピールしていました。
そこで、アメリカの鉄道王と言われたハリマンという人が、さっそく満鉄の日米共同経営を申し入れてきました。
しかし、日本は小村外相の意見でこれを断ります。
それに対してアメリカは次のように日本に苦言を呈しました。
「露国カ該地方ニ於テ実利ノ国家的独占ヲ為サントシテ失敗シタルノ企図ニ踵キ満州ニ於テ之ト均シキ日本ノ利益ノ排他的扶植ハ痛切ナル失望ノ起因タルヘシ」
つまり、かつてロシアがしたのと同じ排他的な行動を日本が満州でしている、と批判したのです。
こうしたことに伊藤博文は次のように憂慮しました。
「我当局者ニシテ門戸開放、機会均等ノ主義ヲ尊重セス切リニ利己主義ニ走レハ欧米諸邦ハ我誠実ヲ疑ヒ信ヲ吾ニ措カサルニ至ルヘシ」
「満州ニ於ケル利己政策ノ実施ハ勢ヒ清人ノ反抗ヲ招クハ勿論」
「世界ノ大勢ハ殆ト日本ヲ孤立セシメスンハ已マサルノ傾向」 (1907年)
ロシアに勝つことで日本は当時、世界の一等国になったと言われましたが、
それだけに列強の熾烈(しれつ)な争いに対応していかなければならなくなったのです。
また中国からの反発もありました。
日露戦争の時代は、列強といわれた欧米諸国が覇権を争う時代、
弱肉強食、領土や権益を拡大していくことが当然とされた時代でした。
日本はそうした欧米文明国をめざして長い坂道を登ってきました。
そして日露戦争で当時言われた「一等国」の仲間に入りました。
その過程には今にまでつながる大切な問題があると思います。
戦争はしてもしてもきりがないということ。。。
利己に走れば、孤立する。
内村鑑三といえば、軽井沢の石の教会。
いつか行こう。