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プロコフィエフ
1.「シンデレラ」 第1組曲 作品107
2.「シンデレラ」 第2組曲 作品108
3.「シンデレラ」 第3組曲 作品109
4.スキタイ組曲「アラとロリー」作品20
5.バレエ組曲「ボリステーヌ(ドニエプル)の岸辺で」作品51bis
ウクライナ国立交響楽団
指揮:テオドレ・クチャル
REC:1994(NAXOS 8.550968-9)
「シンデレラ」組曲(第1〜第3)
先日聴いてはっきりしない印象をもった(http://blogs.yahoo.co.jp/qq473ms9/42030688.html)プロコフィエフのバレエ「シンデレラ」の組曲バージョンを個人的に評判の悪いNAXOSレーベルにおけるテオドレ・クチャルの指揮、ウクライナ国立交響楽団の演奏で聴く。
今まで聴いてきた交響曲録音に比べると格段に印象はいい。録音が格段にいい。演奏もたっぷりと分厚いサウンドで聞かせてくれるのでこの曲の持つエッセンスがよく感じられ堪能できる。
イギリスのオーケストラによる模範的でお行儀の良い演奏(つまり、先日聴いたプレヴィン指揮のロンドン響の演奏)とは一味違っていて自由な感じで思い切り演奏されている雰囲気だ。
同じ音楽を聴いてもここまで印象が違うものなのか?有名な「シンデレラのワルツ」でクチャルは微妙にテンポを変化させるなどして実に仕事が細かくこの楽曲に関しての掘り下げが深く聴いていて面白かった。
交響曲において響きすぎる録音に泣かされたがここではこの点も改善されていて実にいい音楽になっている。プレヴィン、ロンドン響のスタイリッシュでスタンダードな演奏よりもクチャルとウクライナ国立響の演奏はこの楽曲に対する指揮者や演奏家の愛情が感じられ大変共感する。熱演で感動する。
最後にプロコフィエフの「シンデレラ」は全曲版も組曲版も演奏時間や雰囲気もそれほど変わらない。むしろエッセンスが凝縮している組曲版の方がいいかもしれない。
スキタイ組曲「アラとロリー」
先日、チェリビダッケの指揮、シュトゥットガルド放響の名演に接してしまっているので期待せずに聴いてみたがしなやかでそれなりのポリシーを持った演奏といえよう。
第2曲の「チュジボーグと悪鬼たちの踊り」はチェリビダッケの濃密で鬼気迫る演奏とはまた異なり、荒々しくも音質は柔らかで音楽的側面を前面に押し出す演奏である。
第3曲の「夜」における前半の妖艶な部分における演奏も管弦楽の紡ぎだす精緻な音色に驚かされる。チェリビダッケの演奏とは異なり肩の力を抜いてこの妖艶さを堪能できる。
このスキタイ組曲におけるクチャルの演奏は普遍的な側面も残しつつ聴き手を納得させる雰囲気をもつ大変ユニークなスタイルを持つ演奏といえる。何よりも「シンデレラ」同様、録音が格段に良くなっていて印象は良い。
バレエ組曲「ボリステーヌ(ドニエプル)の岸辺で」作品51bis
こちらの作品は1931年に作曲された同名のバレエの組曲版。全曲版だと40分程度の作品の聴き所を6曲の組曲としてまとめたもの。
1931年の作曲というとソ連に戻る少し前の作品であり、第3交響曲や第4交響曲といったパリ時代の強烈なモダニズムと「ロメオとジュリエット」や「ピーターと狼」などに代表されるソ連に帰郷した後の旋律美にあふれた叙情性とのちょうど端境期の作品であるといえる。
第2交響曲の失敗やパリにおける自身の評価の低下によって作風の変化を模索しているときの作品でどことなく作曲者のもどかしさが感じられるようでもある。
前作のバレエ音楽「放蕩息子」作品46(http://blogs.yahoo.co.jp/qq473ms9/41256324.html)では前衛性と叙情性が同居したような作品であったのに対しこの作品では前衛性がほぼ姿を消し比較的耳に馴染みのいい楽想が支配的だ。
その意味においてこの作品はプロコフィエフの作風に関しパリ時代における前衛性の終焉を告げシンプルで叙情性豊かな新しい作風への出発点となる重要な意味をもつ作品といえるだろう。
それを証明するかのようにこの「ボリステーヌ(ドニエプル)の岸辺で」で聴くことの出来る旋律部分には、限りなく後に続く名作「ロメオとジュリエット」を予感させるエッセンスのつまった音楽となっていて興味深い。
演奏はややオンマイク気味の厚い響きが気になる。輪郭がここにきてまたはっきりとしなくなってきてしまった。
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