クラシック音楽とうさぎの日常

久々に。秋が深まるのでしばらくブラームスで。

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ベートーヴェン
1.交響曲第3番変ホ長調 作品55「英雄」
バルトーク
2.舞踊組曲 Sz.77

シュトゥットガルト州立管弦楽団
指揮:ローター・ツァグロゼク

REC:2004(ALTUS ALT135)

ブルックナーから少し離れて。

 ザンデルリンクやフロールなどが音楽監督を勤めた旧東ドイツのベルリン交響楽団、現ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の現在の音楽監督、ローター・ツァグロゼクの指揮による演奏。ツァグロゼクは1997〜2006年までシュトゥットガルト州立歌劇場の総監督を勤めていたがこの録音はそのときのものである。CDにはシュトゥットガルト州立管弦楽団とクレジットがあるがこれはシュトゥットガルト州立歌劇場管弦楽団である。
 一般的にはツァグロゼクといえば現代音楽の指揮者という部分で名を知られているが、ツァグロゼクは劇場のオーケストラを歴任してきた。その一方で放送局のオーケストラも指揮しており劇場における劇的な音楽と放送局における純音楽的な音楽を得意とするニ面性を持った指揮者といっていいだろう。
 2004年の10月のライヴ録音であるCDはこのベートーヴェンの第3交響曲とバルトークの舞踏組曲というユニークな組み合わせによるものである。
 現在ではメジャーとなっているノン・ヴィヴラート奏法で「さくっと」進めていく軽快な英雄交響曲は、ジンマンやガーディナー、ノリントンを髣髴とさせるものではあるがそれほど過激なものではない。劇場の指揮者らしくノン・ヴィヴラートでありながら第2楽章の葬送行進曲では遅めのテンポでじっくりと劇的に演奏される。ノン・ヴィヴラートであるがために深遠な深みに欠け、どっちつかずのやや欲求不満意に駆られる演奏であるという批判はあってしかるべきであるであろう。そのほかの楽章に置いてはおおむね、わかりやすい透明度のある新鮮な演奏で個人的にはいい演奏と思う。
 バルトークの舞踊組曲は名演である。音楽の骨格がはっきりとしっかりしていながら音楽が劇的に雄弁と語っている。集中力のある演奏でありひきつけられる。演奏も巧い。
 このCDにおけるツァグロゼク指揮による演奏はバルトークを語るには熱気がありすぎるがベートーヴェンを語るにはあっさりすぎる。2007年4月号における宇野功芳氏の月評も「前者(ベートーヴェン)は凡演、後者(バルトーク)は名演」と述べている。ベートーヴェンの英雄交響曲に関して凡演とまで酷評しないがバルトークはすばらしい演奏であると同じ意見であり同調する。

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ブルックナー 交響曲第7番ホ長調

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ギュンター・ヴァント
REC:1999(RCA BVCC-34030)

 漲る緊張感に微動も出来ぬ超越的な名演。ヴァント3度目の録音にして同曲最後の録音。バレンボイムの時にはひたすら豪華に鳴っていたベルリン・フィルもある種の規律を重んじた中ですさまじいエネルギーを帯びながら永久に響くような深いサウンドですべての部分がそれに満ちている。
 テンポもケルン放響と比べ第2楽章が1分近く早くなっている他はだいたい1分くらい遅くなっている。
 それにせよ、これほど長大な交響曲においてテンポの感覚が1分前後の相違ということは、およそ20年の歳月を経過してもなおヴァントの同曲に対するスタンスがほとんど変わりないということであり、このベルリン・フィルとの演奏を指揮する年齢、87歳を考えてもまったく老いを感じさせない若々しく、きびきびしたテンポとリズムの感覚には本当に感服するものがある。
 そしてこの演奏の深さ。すべての部分に音楽としての意味を持たせ、ども部分にも緊張感がとけない。ゆるみがまったくない。
 ベルリン・フィルという世界最高級の名器を自由自在にコントロールしているさまがこの演奏を聴くと手に取るように感じられる。
 人によっては窮屈な感覚を覚えるかもしれない。しかしこの録音はブルックナーの交響曲第7番と言う意味における形式美を究極にまで磨き上げた完璧な演奏といっていいと私は思う。
 レコード芸術、2000年5月号にこのCDの論評がある。以下、宇野功芳氏の記述に大いに賛同する。
「まさに至高の極み、神々しさの極み、いったいどのような文章を連ねればよいのか?」

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ブルックナー 交響曲第7番ホ長調

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ダニエル・バレンボイム
REC:1992(WARNER 2564 61891-2)

 先日聴いたヴァント、ケルン放響の演奏が輪郭のしっかりとした演奏に対しこのバレンボイム、ベルリン・フィルの演奏は芯のしっかりとした演奏といえる。しっかりとした芯から放射される豪華な響きは天下一品である。バレンボイムの音楽運びは実にじっくりと丹念なものになっている。ヴァント/ケルン放響の演奏に比べ各楽章とも1〜2分遅い。

 基本的にオーソドックスな演奏スタイルで以前に聴いた第5番などよりテンポの設定に違和感がなくバレンボイムのブルックナーにしては聴きやすさがある。
 第1楽章、第2楽章ともベルリン・フィルという世界随一のオーケストラを擁した演奏はまさに堂に入ったといえる名演である。第2楽章のスケールの大きさは特筆に価する演奏である。版の明記がないが第2楽章のクライマックスにはシンバル、トライアングル、ティンパニが挿入されたバージョンでの演奏でありノヴァーク版を基調とした演奏であると推察される。

 バレンボイムらしさがよく出ているのが第4楽章である。練習番号のFの部分から非常に印象的な力強いフレーズがある。そこにはimmer marking gestrichenという記譜がありとても感動的なフレーズであるのだが、バレンボイムはテンポを強烈に落とし個性的に演奏する。この旋律は練習番号のPからも再度出てくるのだがそこも同じようにテンポに揺らぎを与える。このテンポの揺らぎはヴァントではないものであった。

 Immer:同じように、依然として、Marking:がっちりした、威勢のいい、gestrichen:弾く、一音ごとに弓を返して弾く。考えてみればimmer marking gestrichenは「すべての音を同じように一音一音弓を返ししっかりと弾く」という意味でありテンポに関しての指示は基本的にはないのかなと思うのであるがバレンボイムは歴然とテンポを落とし演奏する。

 それなのに練習番号のSからは一転してテンポは速くあっさりと持っていく。70分に及ぶこの交響曲のフィナーレに関してはこの交響曲の問題(というより構成上の問題ゆえの演奏の難しさ)はあるにせよそれはないだろうと突っ込みたくなるくらいのあっけない幕切れ。

 この辺の言及に関しては全体のほんの一部に過ぎないがバレンボイムのブルックナーの演奏に対するスタンスが如実に現れた例として言及しておくことにする。ちなみにバレンボイムはこのブルックナーの第7交響曲に関して「叙事詩的な第7番(レコード芸術1999年1月号67ページ)」と発言しているということを考慮しても交響曲としてではなくまた別の次元でこの楽曲を捉えているということはこの部分を聴いても全体を通して演奏を聴いても納得できるということである。要するにこの演奏(第5交響曲も第6交響曲もそうであったが)、特に終楽章においては聞き手にとって好き嫌いがあってしかるべきスタンスであると考える。

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ブルックナー
交響曲第7番ホ長調(ハース版)

ケルン放送交響楽団
指揮:ギュンター・ヴァント
REC:1980[RCA BVCC-8917/18]

 鋼鉄で堅固な城郭を思わせる。一寸の空きもなく音楽が整然と流れていく。なるほど、これぞギュンター・ヴァントのブルックナー像であろう。どの部分においても感情に流されることなく計算されつくされたような演奏である。ブルックナーにおけるアプローチは様々であるがこのヴァントのやり方はひとつの音楽芸術としてありうるべき姿のひとつであろうと思う。ややダイナニズムにかけることがあるような気もするが整然と朗々と音楽が流れていく。
 
 線がしっかりとして輪郭がくっきりとした音楽であるがそれでいてしなやかに流れていく旋律美は特筆するものがある。どこまでも正確無比でありながら決して音楽が無機的にならない。

 私の知る限りヴァントは同曲を3回録音(当盤、ケルン放響:1980年、北ドイツ放響:1992年、ベルリン・フィル:1999年)している。このケルン放響との録音は最初の録音であり、その意味でヴァントのブルックナー像を的確にまた端的に表現した基本的なスタンスがはっきりと現れた録音であるといっていいだろう。ヴァントが70歳手前の録音でもあり晩年の神々しい演奏とは一味違う颯爽とした印象の残る演奏である。

 一点の曇りもない背筋のピンとなる筋の通ったすばらしい演奏であると私は思う

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ブルックナー
交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)

フランクフルト放送交響団
指揮:エリアフ・インバル
REC:1985[TELDEC WPCS-14201-2]

イスラエルの名指揮者、エリアフ・インバルによるブルックナーの交響曲全集からの一枚。インバルは1974年から89年までフランクフルト放送交響楽団の首席指揮者として活躍しブルックナーの交響曲全集の録音は1982年から88年にかけて行われた。

 最近では東京都交響楽団やチョコ・フィルハーモニー管弦楽団とのマーラーの交響曲の録音でも話題となっている。

 やや足早の颯爽としたテンポ、引き締まったリズムで前へ前へ音楽が流れていく。以前に聴いた第6交響曲のときとは(http://blogs.yahoo.co.jp/qq473ms9/59930903.html)かなり印象が違う。音楽にしっかりとした説得力がある。
 第1楽章はあらゆる楽節で音楽が悠然と流れ、そして語る。すべての音に意味を内包し語りかけてくるようである。音楽に身をゆだね、その移ろいにゆっくりと浸かることが出来る。とはいえまったく退屈しないのである。音楽が聴き手を大きく包んでくれる演奏である。
 第2楽章はとにかく深い演奏である。アゴーギグとデュナーミクを駆使した見事な音楽の色彩感における表現力には本当に感服する。ここまで音楽が音楽になっていることに、音楽が音楽を語っていることにもやは言葉はない。ここで奏でられている音楽の一瞬一瞬のすべてが意味を持ち、まさに音楽を語っている演奏なのだ。場面場面によって音楽が、まったく異なる音色で奏でられるので場面によって異なるキャラクターが台詞を語るようで長編の映画でも見るような感覚になる。この楽章のクライマックスである177小節目ではノヴァーク版を使用しているものの打楽器の使用はティンパニのみであり、シンバルとトライアングルはカットされている。その後のワーグナの葬送の音楽の場面におけるホルンの強烈な鳴り方は慟哭そのものの印象を受ける。とにかくすばらしい演奏である。
 第3楽章スケルツォも流れるような軽快なテンポでありながらしっかりとしたリズム感覚でしゃきっとした音楽になっている。細かい音色もしっかりと耳に捕らえることができ妥協のない演奏の姿勢に感服する。
 終楽章は脚色を一切そぎ落としたような非常に現実的な演奏を展開していく。一切感傷的になることなく冒頭にも記述したように「やや足早の颯爽としたテンポ、引き締まったリズムで前へ前へ音楽が流れていく」というものである。個人的にはもっとじっくりと音楽を進めてもらいたかった。やや物足りなさを感じる。
 この第7交響曲の難しい部分でもあるのだが、要するに、第1、第2楽章が規模としても、時間的にも巨大であるのに対し終盤の第3、第4楽章が小さい。そのため全曲を通してのバランスをとるのが難しい。インバルはまさにそのように第1、第2に力点を置き第3、第4楽章はそのスコアにあるように比較的あっさりと仕上げている。この点に関しては賛否両論あるであろう。

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