さしあたって

日々のニュースについての感想と意見

趣味・その他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

近況;
30日の晩には大騒動の目に合いました。
実はこの二日間ほど体調が悪かったのです。何をするにも、よっこらしょとかけ声を掛けねばならぬほど、疲労感があり、パソコンの前ではめったに眠らないのに2日間とも、午前も午後もパソコンの前で寝てしまい、何とも嫌な思いで目が覚めたものです。
娘達が来ていたのですが、昼すぎから、蒲団の中にもぐっていました。寝たり起きたりの連続でした。

晩飯も食べる気になりませんし、お風呂も入る気にもなりません。薬だけ飲んでじっとしていました。

本当に寝ようと安定剤を呑んだあとぐらいでしょうか、急に便意を覚え、トイレに駆け込みました、2日分ほど溜まっていたので、それはそれでいいのですが、例の背中から寒くなりだし、冷や汗をかいて、視野が狭くなってくるいつもの奴です。これはヤバイと思い、後始末をし、立ち上がろうとしたら、ひっくり返っていました。

トイレから這い出して、階下にいる妻を大声で呼びました。しばらくして上がってきて、横たわっているのを見ると「どうしたの」「気分が悪くて動けない」と身体をうつぶせにして横たわっていました。

次に猛烈な吐き気に襲われました。この前あった、下し吐きと同じ状態でした。吐き気がいつまで経っても収まりません、洗面器を抱えて横たわっていました。30分ぐらいそうしたでしょうか、今度は便意が襲ってきて完全な下痢便です。トイレの後、腰もずっと痛かったので、座薬を入れてもらいました。

それからやっと、収まり加減でになりましたので、ベッドに移りました。
そういうことで、エライ目に合いました。

80%以上の確率で、分子標的薬の副作用と思います。

今日は一日、薬を止めようと思っています。

イメージ 1

俳優、西田敏行(62)と三國連太郎(86)が26日、東京・丸の内ピカデリー1で行われた映画「釣りバカ日誌20 ファイナル」(朝原雄三監督)の初日舞台あいさつに出席、沸き起こった異例のカーテンコールに号泣した。

ハマちゃん&スーさんコンビで国民的人気だったシリーズも、22年でついに完結。登壇時から瞳を潤ませる西田は「愛してくださったみなさんがいたからこそこの日があります」と感無量の表情。「14年もハマちゃんに愛され続けて本当に幸せでした」とハマちゃんの妻、みち子さん役の浅田美代子(53)が涙を流せば、三國は「あふれるばかりのみなさまに観ていただき、身に余る光栄です」と喜んだ。

共演者らと鏡割を終えて退場すると、場内からは「ハーマーちゃん! スーさん!」の大合唱。“大漁”の声援に応えて再び登場した西田は「舞台あいさつでカーテンコールなんて前代未聞。本当に…みんな、愛してるよーッ!!」と号泣。あまり泣かない三國も、「これからも映画を愛してやってください」と人目をはばからず涙をこぼし、日本映画史に残る名作との別れを惜しんだ。;
(サンケイスポーツ電子版)


寅さんほどではなかったが、映画もよく見たし、漫画もよく読んだ。

浜ちゃんの無責任な軽快感が何とも言えない。
一昔前の「スーダラ節」の世界だが、今はそんなことは世間も許してくれないので、規格ギリギリの辺境の地に住むサラリーマンである。社長と釣り仲間というのが、あり得ない現実に若干のリアリティーを持たせてくれる。

寅さんは、ある意味「人生ドラマ」だが、「釣りバカ」はそこまではいかない「行楽ドラマ」だ。
映画もいいタイミングで、ファイナルを迎えたのではないか、漫画もマンネリぎみである、若干「人生ドラマ」味をしめすファイナルになっているか。

イメージ 1

「蒲団」
主人公を師と慕う女学生が上京、教えを請うが、彼女に京都時代の恋人がいることが判明。師という立場と女性を見るという立場で主人公の心は揺れ動くが、彼女と恋人が親密になるに連れて「監督者」の役目も逸脱しそうになり、二人の「肉の関係」を知って、彼女を故郷に帰すことにする。残った彼女の蒲団に顔を埋め彼女慕う気持ちを確認する。

鏡花の文体と花袋の文体ではかなりの差がある。鏡花は伝統の文体、花袋はいわば翻訳風の文体だ。翻訳体の文体の方が自分には親しみが持てると言うことは、日本語そのものが現在の流れの中では、翻訳体の文脈に変わっていることを示しているのではないか。

「百夜」
花袋最後の作と言われている。花袋は晩年向島の芸妓小利と知り合い、老いらくの恋の炎を燃やすのであるが(そして最終的には結婚する)、その愛欲と苦悩をつぶさに書いたのが、この小説である。老境にいたって、なお恋愛とは何かを追求した彼の執念にはすざましいものがある。日本の自然主義小説は「趣味の悪いリアリズムだが、度胸だけはある」と加藤周一が言った所以である。
「一人の道−世間の交わらない恋愛−どんなにその周囲のものがその破壊力を逞しくしても、びくともしない恋愛−あの震災の最も大きいものがあって、あらゆるものが滅びても破壊されずに到達する恋愛−そういうものは、この世には望むべくない、あまりに理想であろう。それは痴人のたわけた夢にしか過ぎないかもしれない。しかし島田(主人公)達はそれを捨てる必要は少しもないのであった。死ぬまでそれを把握することが当然だった。火の中でも、水の中でも−またどんなに複雑に影響されてくるその周囲の巴渦の中でも−死ぬまでは−こんな風に島田は考えるのだった。」これが(結果から言うと余命幾ばくもない)老境の男の執念だった。
小説の中では老境の男と元芸妓(家族ごと生活を見てもらっている)の完全純愛物語なのだが、何かそこに収まらぬ納得できないものがある。実はこの男、妻も大きな子どもも何人もいる家族の主人なのだ。一方でその立場でありながら、もう一方で純愛というのは本当に成り立つのか。
最初は初々しい夫婦でも子供が産まれて、妻の関心が全部そちらの方に取られ、男の方も当然と思い、夫婦の感情はひからびてしまう。そしてよそに女を求める。これは男の勝手な言い分に過ぎないのではないか。封建的男女間が主流の中では、「恋愛」もこういうあだ花に終わってしまっているのである。

イメージ 1

泉鏡花は、「恐い話」「因果のある話」の名手である。

「外科室」
貴婦人が胸の切開の手術に際して、自らのうわごというのを恐れて麻酔を拒む。名医が、決意してメスを使うが、夫人は自分の手でメスに力を入れ自死してしまう。(名医もこの後自殺か)。場面変わって9年前に、名医がこの女性を見そめるシーン。

「照葉狂言」
主人公、貢が「姉上」と呼ぶ美少女が隣に住んでいる。貢は孤児で叔母に養われているが、美少女お雪も継母なので、二人の間に姉弟のような愛情が通っている。街へ旅回りの能狂言「照葉狂言」が巡ってきた。貢は、ここの女役者小親に愛され、やがて養子となって一座に加わる。八年の月日が………。生まれた場所金沢にもどってくると、お雪は婿養子に虐待されている。貢との思い出のある松の木を切らせなかったと聞き、お雪が自分を忘れていなかったことを貢は知る。お雪を救えない自分へ与える罰として、小親からも別れ、旅に出る。
この話、考えようによっては、貢に随分都合のいい話。貢はお雪のみならず、小親からも女としての愛情を受けている。いわば三角関係の解消のために自分の姿を消したとも言える。母と死に別れ周りの女性から可愛がられる作者の幼年時代の体験を反映させた作品かも知れぬ。何より会話が美しい。地の文の文語体はもう一つ読みにくいが、会話を拾っているだけで、充分に意味がくみ取れる。

「高野聖」鏡花の代表作。
峠抜けの道を間違えた薬売りを主人公の僧が追いかけるが、その道は大蛇が横切るし、木からは山蛭がボトボトと落ち人の血を吸うひどい道で、やっと谷川のほとりの一軒家につく。家には白痴児と美しい女が、僧は一夜の宿を頼む。二人は谷川に降り身体を洗うが、女に身体を撫でられると、得も言われぬ心地の良さ、女も裸体で誘惑にかかるが、コウモリや猿が邪魔にはいる。女の家で楽しく一夜を過ごし、後ろ髪引かれる思いで出発するが、馬売りから帰ってきた親父と合い「よく無事で」といわれる。
実は馬は、薬売りが動物に変えられたもの、猿やコウモリもそうだった。何故僧は動物に変えてしまわれなかったのか、僧の心が女に響くものがあったのか。
かつて女は医者の娘で、手術に失敗した子を哀れんで、その子の家で住むようになるが、大洪水で村の全てが流れ去り、子供と親とその娘だけが生き残り生活しているのだった。鏡花得意の怪奇譚である。

「高野聖」は口語体であるから、苦労なく読めるが、話の展開の早さに戸惑うことも。

「眉かくしの霊」
旅行者が遭遇した怪談。深夜、人のいないはずの風呂で湯を使う音がする。また、かつて姑から苛められた美しい女の怨念が池畔で化粧する女のお化けに。

鏡花を読んでいると、人は言葉で考え、人は文体で思考するということをつくづく感じる。江戸庶民はたぶん句点や読点のない、最初と終わりが充分判別できない文章のような発想をしていたのではないか。その文体の中に入って理解しなければ、当時の人々の思考は理解できないのではないか。
また鏡花の作品は花柳界のもとともに怪談・奇談の類が多い。現代からいわせると迷信であるが、当時には、日常生活の話題に、怪談・奇談がもっと入り込んでいたのだろう。

イメージ 1

幸田露伴の「五重塔」、これは口語体というよりも、当時最新の文語体文章、江戸末期の講談師の名演技を彷彿とさせるものだ。文章に慣れていくに従って、独特のリズムで読みとられ、快い気分となる。
五重塔建立にあたってどうしても自分の手で行いたく、上人に直談判するのっそり十兵衛、親分源太との対決、上人は「譲り合いの」精神を二人に説諭する、源太に心の変化が起こり持ち合いで行うことを提案するが、それを承知せぬ十兵衛、源太は激しい怒り、十兵衛は諦め全て源太に託そうとするが、二人の心の中で微妙な変化が起こり、ついに十兵衛が一人で行うことに、十兵衛は文字どおり一心不乱になって五重塔建立に全身全霊を注ぎ、ついに塔は完成する。
突然に来る大風、周りは心配し、塔を見に行くように勧めるが、動かぬ十兵衛。嵐の去った翌日、五重塔は瓦一つ飛ぶでなく、完璧な姿で建っていた。
文体で話の緊張感が伝わってくる、読むものを引き込まずにはいない文章技術だ。

露伴「風流仏」、露伴最初期の作品で、文体がさらに文語調。仏教用語なども入ってやや難解。
仏師珠運は旅中に美しい孤児の花売り娘に魅せられ、宿屋の老夫婦の薦めもあって結婚を決意するが、その夜、娘は家出。出世して子爵となった父親が現れたからである。珠運は等身大の娘の仏像を作る。娘の婚約を新聞で知り、煩悩が生じる。愛執を一切断ち切ろうとうとして、仏像にナタを振り上げるが、それを下ろすことはどうしてもできない。珠運の心が乱れたとき、像が彼に絡まってくる。お辰(娘)は、今ここに甦り、珠運とともに天上に行く。
最後の解決の描写は仏教的解決で、実際彼らが、心中を果たしたのか、二人で手を取り合って逃げたのか、そのあたりがよく分からないのがミソかも知れない。
この作品も、露伴の文体の中に入ることができたら、興味を持って読める作品である。

露伴「頼朝」、日本人は判官びいきになり勝ちであるが、歴史をそういう視点で決して見るのではなく、頼朝には大将の気性があったこと、彼の周りにはそれだけの機運があったことを知らなければならない−−という、やや教化的目的を持った小説であり、その点露伴のお説教を聞いているような感じもある。
露伴の文章は江戸「文学」の最も良質なところを受け継いだ文体ではなかろうかと思っている。もともと日本語の文章は「、」や「。」がなくて、上から下へと次々と展開し、その展開を読む中で主語と述語を類推し、文章の展開を把握していくものだと思っているが、露伴の文章の展開はまさにそれで、一方話の内容も仏教的説話が次々と出てくるのが特徴であり、こういった世界が江戸庶民の精神文化ではなかったのではないか。

頼朝は父の愛情を一身に受け、優しい心根に育って行くが、異常な体験と数奇な運命の中で命を長らえ、仏教心が一層厚くなっていく一方、青年時代に数々の裏切りを受け、自分の命を狙われる体験などを通じて、心も段々沈潜していく。
そして平家打倒の気運が高まった時、それを逃さず一大決起して、大石が転げ落ち全てのものを踏み潰してしまうように、怒濤の人生を送る。
大将としての気性と周りにそれだけの気運があったことが、頼朝の人生となったという教訓を導き出している。

露伴の小説を読んでいると、明治の下町にすむ知識人の教養と倫理観というものを感じる。教養とは漢籍が中心で、仏教書も含まれている。そこから明治人の倫理観が生まれてきたのだろう。鴎外や漱石は、外国留学で西洋の新知識を得て、それと日本的教養の狭間で苦闘した。露伴にはそういう経験がないので、江戸から受け継がれる教養の上に立った太い倫理観で彼の人生を送っていくのである。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事