旦那と私の最終章

最愛の旦那が逝ってしまった。再び会える日を待ちながら

無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

新疆ウイグル自治区のカシュガルで4日起きた爆弾テロの報に、日本関係者も動揺を隠せなかった。

同日、北京国際空港に到着した日本オリンピック委員会(JOC)の水野正人副会長は「当然、日本選手団にも連絡はいっていると思う。選手個人の無責任な行動は駄目。JOCはできる限りのことを100パーセントする」と安全確保に神経をとがらせた。 

同じく、この日到着したJOC顧問(元会長)で日本水泳連盟名誉会長の古橋広之進氏は、過去の五輪で日本選手団長を務めるなど海外の国際大会を何度も経験。

「危ないな。今回は開会式には出ずに(宿泊先で)テレビで見ていようとも思っている」と開会式への出席自粛を検討している。(了)




8月4日21時8分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080804-00000175-jij-spo

<コメ>
これって、無責任じゃない。
自分は安全なところで高みの見物、選手は危ないところにいろということ。

それに、会長の「選手個人の無責任な行動はだめ」って発言は問題だ。

もし、選手の身に何かあったらどう責任をとるのだ。

北京五輪へ向け、川崎市のジャイアンツ球場で合宿中の星野ジャパンに緊急事態が発生。

セ・リーグ最多の30本塁打(3日現在)を放ち、代表でも主砲として期待される横浜・村田が風邪で離脱した。

3日午前になって都内の病院に緊急入院。数日で退院できる見通しだが、体調によっては入れ替えの可能性も出てきた。村田の場合は「他の選手にうつさないように隔離した方がいい」(星野監督)との事情から慎重な措置が取られたという。

また、腰痛の新井、右臀部に張りを訴えている稲葉に関しては、7月17日の日本代表最終メンバー24人発表直前ギリギリまで結論が出ず、最終的には星野監督が本人たちに直接電話をかけてケガの状態を「問いただした」ことになっている。

しかし、実際の電話のやり取りを聞いてみると、ほとんど脅す?に近い内容だったという。

星野監督は
「稲葉に電話をかけると、何か細かいことをグズグズ言っているから、おれが
『要するに、出られるのか、出られないのか、どっちや』と一喝した。すると『出ます』と言うから、次の瞬間に『わかった』と言ってブチッと電話を切っちゃった。

おれはいつも、良い返事を聞いたら、気が変わらないうちに電話を切ってしまうことにしている。カネ(阪神・金本)の時もそうやった」と明かす。

星野監督が阪神監督時代の02年オフ、広島からFA宣言して口説き落とした金本は「最後は半ば強引に脅迫されました」とコメントを残している。

とはいえ、怖いだけの指揮官に現代っ子は付いてこない。星野監督は厳しさの裏で、最終メンバー24人全員と、最終候補に残りながら最後の最後で落選した選手たち一人一人に、手紙を送っている。

星野監督がパソコンでしたため、肉筆の署名を添えた手紙を、稲葉は額に入れて自室に飾っている。

ちなみに、星野監督は「手紙というものは、できれば全部、少なくとも署名くらいは手書きにすべき。その方が心が伝わる気がするじゃないか。今どきのメールの絵文字というのか? あれはふざけとる。誰が打っても同じハートマークやろ。何個でも打てる。ラブレターにハートを描くのでも、一個一個かたちが違うのが当たり前や」。

なるほど、ハートは目に見えないものだ。

ソース:ZAKZAK
http://www.zakzak.co.jp/spo/2008_08/s2008080403_all.html

<コメ>
金を取ったら、一番讃えられるのが監督だもの。おまけに開催地は北京、野球の代表選手は、サッカーなどと違い、アウェーの洗礼を受けていない人が多いから、行きたくないのが本音では。

大体、監督自身が性格的に一番びびりやすそうだし、現地で倒れなきゃいいけどね。

今日発売の週刊ポスト、江本、権藤、東尾各氏の対談で、「オリンピック代表はアマに返すべき」で意見が一致していた。

特に江本氏は星野と仲良しトリオをかなり批判していて、「キンメダル」ではなく「カネメダル」と言ってたね。

しかし、手紙をもらって、シンパになるなんて頭の中が単純としか言いようがない。でも、しかたないか。実際、こんな男が球界を牛耳っているわけだから、逆らったら何をされるか分からないものね。選手も大変。

困った顔

「ニュースサイトの転載」はサービス終了になりました。

はじまった。
過去のオリンピックでのテロの歴史を塗り替えそうだ。

開く トラックバック(1)

 

≪自前で食えない社会主義≫

 佐藤栄作内閣が朴正煕政権との間に日韓国交回復正常化を実現したのは、戦後20年を経た1965年のことだった。翌66年から、私は韓国へよく出入りするようになった。その年私は中公新書『朝鮮戦争』(現在は中公文庫)を世に問い、幸いそれは日韓双方で多くの読者を得た。韓国では海賊版が横行した。
 さて、当時韓国と北朝鮮の力関係はどんな状況にあっただろうか。南北の経済比較となれば、今日韓国が圧倒的優位にあるのは天下周知である。北の「ウリシク(われわれ式)社会主義」はいつまで経っても、外国の援助なしに自前で食ってゆくメドさえ立たない。
 とはいえ、いまから40年前、1960年代後半から70年代初めにかけてのころには、北は軍事力の面で韓国の大きな脅威であったばかりでなく、経済力でも韓国を上回っていたのである。
 韓国の指導者たちも北の優位を率直に認めながら、「数年先を見ていてください。われわれはきっとやつら(北のこと)に追い付き、追い越しますから」と、カーフュー(夜間外出禁止令)の制限時間ぎりぎりまで熱く論じてやまなかった。
 当時、中央政庁の正面に「増産、輸出、建設」のスローガンが(まだハングルではなく漢字で)大きく掲げられていた光景を、私はいまも忘れない。
 朴政権の「開発独裁」路線はまさに、北に追い付き追い越す国家建設競争こそが、目標であった。


≪北が国際支持集めたころ≫

 このような南北の力関係は必然的に、韓朝双方の国際的受容度にも影響を及ぼした。両国はともに1948年に独立を宣言したが、国連における承認国の数では、久しく南が北をはるかにリードしていた。朝鮮戦争(1950〜53年)で韓国は国連軍、北は侵略者だったからである。
 60年代に入ると、しかし、雲行きが変わる。61年にクーデターで発足した朴政権の正統性について、アメリカはじめ国連加盟諸国は当初から批判的だったし、経済力で優位にある北を差し置いて韓国だけを承認するのに異を唱える国も出た。
 加えて、ようやく世界の潮流になりつつあった中国国連代表権問題の高まりも、北の国際的受容を後押しした。
 こうして、60年代末には北の承認国が急増し、やがて韓国承認国を越す可能性さえ論議されるにいたった。今日では信じがたいことだけれど、当時ソウル言論界の一部では、承認国の数で将来北に負け、台湾の憂き目を見ることまで心配するくらいなら、いっそ先手を取って、韓国は今後国連と関係を持たぬむねの宣言を出してはどうかといった極論さえ、まじめに論議されていた。
 1970年代半ばに差しかかるころまでの南北力量の比較は、おおむね以上のような状況だった。このことは何を意味するか。


≪独裁制にも自ずと寿命が≫

 いまから30年ないし40年前までは、朝鮮半島南北の体制間競争、国家建設競争で、北が優位に立っていた。そしてその後数十年の間に、金日成、金正日の独裁者二代は、チュチェ(主体)という独善空疎なイデオロギーに自己陶酔するのみで、この折角の優位を活かすどころか、それをただ食いつぶしてしまった。これが赤裸々な歴史的事実なのだ。
 いまとなっては対南優位の回復どころか、北は南の援助がなければ生きて行けない境遇にまで落ち込んでいる。
 無為無策の責任は、挙げて金日成、金正日の父子連帯で負うべきものであろう。これこそが金王朝の実態にほかならない。
 なおこの機会にあえて大胆な予測をするならば、近年さまざまに取沙汰されている金正日後継者問題について、私は世襲第三代の実現可能性はほとんどないと見ている。
 北の超独裁制がいくら特異なものであるとしても、世界の歴史に徴して見れば、独裁制にもおのずから寿命があるのは明らかであろう。
 まして北朝鮮の心ある人々は、過去数十年二代にわたる失政の連続を、いやというほど見せつけられてきたはずだ。
 いくら「偉大なる首領様」がすべてのこの国とはいえ、彼ら憂国の士は漫然と三代目を迎えることに抵抗するのではなかろうか。そして、それをきっかけとする体制変革こそ、この国の存続にとってラスト・チャンスになるのではないか。
 スターリンの後には「非スターリン化」が、毛沢東の後には「非毛化」が行われた。金正日に「非金日成化」を行う能力がなければ、その後にそれを期待するしかあるまい。(かみや ふじ)

(産経新聞【正論】)


http://sankei.jp.msn.com/world/korea/080801/kor0808010244000-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/080801/kor0808010244000-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/080801/kor0808010244000-n3.htm

<コメ>
北朝鮮び体制変革のカギを握るのは中国か、アメリカか、日本か。

国後島泊村など、北方領土の6村に本籍を移した人が、転籍が可能になった1983年以来、120人を超えた。

特にここ5年で50人以上が転籍しており、北方領土の戸籍事務を扱う市は「領土返還を願って転籍する人が多い」とみている。

本籍は出生地や住所とは関係なく、日本国内のどこにでも置くことができる。
ロシアが実効支配している北方領土のうち、根室市域の歯舞群島を除く6村への転籍は、「北方領土問題等解決促進特別措置法」(北特法)が施行された1983年から可能になった。

市によると、6村に本籍を置いているのは、7月末で123人。
2003年末には68人だったが、作家で「『北方領土』上陸記」などの著書がある上坂冬子さんが04年1月、国後島泊村に本籍を移して以来、関心が高まり、同年末には90人、05年末には108人と急増し、その後も着実に増えている。

転籍は全国各地からあり、「領土返還運動に貢献したい」と明言する人も少なくない。石垣雅敏副市長は「上坂さんの話題で、転籍できることを知った人も多いはず」と話す。

7月末現在の転籍者数を村別にみると、泊村が31人で最も多く、択捉島蘂取(しべとろ)村が30人で続く。

蘂取村の人口は終戦時、約350人と、泊村の約5,000人の10分の1にも満たないが、北方領土の最北端にあるのが転籍者が多い理由とみられる。

83年に転籍した根室市の西村快さん(57)は
「そこまでは日本の領土であることを法的に主張するのが目的」と説明する。
祖父が歯舞群島・志発島に住んでいたが、蘂取村とは特に縁はない。

残る四村の転籍者は択捉島留別村が29人、色丹島色丹村が18人、択捉島紗那村が9人、国後島留夜別村が6人となっている。

石垣副市長は転籍者の増加について「領土返還運動に対する意識の表れで、ありがたいと」と話している。

一方、歯舞群島は根室市域のため、北特法によらない転籍が83年以前から可能で、現在、41人が本籍を置いている。(幸坂浩)
(08/03 10:36)

★ ソースは、北海道新聞 [日本] とか。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/108836.html

<コメ>
逆行しているロシアもそろそろ騒ぎ出すかな。


.
グレートケボチ
グレートケボチ
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事