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私がステレオと云う方式の凄さを最初に認識したのは、カラヤン指揮ベルリンPOのドヴォルザーク・交響曲第5番(9番)新世界よりのレコードを聴いた時である。64年録音である。 ジャケットを見て判る通り、この当時はまだ5番と呼ばれていた。カッコ付きで9番だ。 カラヤンがDG(ドイチェ・グラモフォン)に移籍第1弾のレコードだった。 このレコードは今聴いても素晴らしい音色であるが、当時としては目から鱗が落ちるような鮮烈な音響であったと記憶している。 と、言っても、当時のステレオシステムであるから、現在聴いている程の音質で聴いたとは思えないのであるが、何故か今聴いても記憶の中にある当時の音響と印象は変わらない。 当時の大人は「こんなのは外面的な演奏効果だ」と言っていたように思うが、外面も内面も、こんな鮮烈な音響に触れたのが始めてだったので、只々恐れ入っていた。 その後もこれ程すぐれた音質のレコードには中々お目にかかれなかった。相当な力作である。 ある時期カラヤンバッシングが広まった事がある。それがいまだに根強く残っているのか、一部の評論家の影響でカラヤンは必要以上に貶められている。 クラシック愛好家ほど、その度合いが強いようで、「カラヤンは聴かない」と言う人にちょくちょくお目にかかる。 これはクラシックを聴き込んで行くと、誰でも1度はかかる「カラヤン敬遠病」なのである。 私も長いクラシック愛聴歴の中で一時期この病にかかった事がある。 某評論家の論評などを読んでいると、程度の差こそあれ、この病にかかる可能性がある。 しかし、演奏の良し悪し、好き嫌いと云うものは、ちゃんと一度は聴いてからすべきものであって、カラヤンは嫌いだから聴かない、よってカラヤンの演奏は良くない、と云う事にはならないのである。 私はカラヤン敬遠病の原因の最たるものは、日本の音楽産業界の怠惰、あるいはいい加減な音盤造り、あるいは音に関するセンスの無さ、に起因していると思っている。 レコードの音はどれも同じであると云う迷妄から抜け出せていない人が多いとは思うが、最大にして最悪なのはやはり随分とひどい音を平然と提供して来た音楽産業界の罪である。 カラヤンの演奏は表面的である、とか、音がキツイ、とか、派手過ぎる、などと云うのは殆どが音盤の悪さによるもので、海外盤を聴くと、全く違う印象になるはずである。 CDの時代になって、唯一良い現象と言えるのは、海外製の音の良いCDが入手し易くなった事である。しかも国内盤よりは安価である。 日本の技術が劣っているとは到底思えないので、センスとかマインドの問題と言わざるを得ない。 レコードに関しても初盤と再発盤では驚くべき差があるし、信じられない事に、初盤と言えどもプレス時期によってかなりの音質の差が生ずる。 冒頭の写真、2枚とも同じ時期のレコードである。ジャケットを見てもレーベルを見ても全く同じである。 しかし、一方は非常にバランスの良い音で、もう一方は硬質でトランペットがやたらと耳に付くのである。 こんな事で誰も悩みたくないから、多くの人がオリジナル盤を欲しがる所以である。 私がカラヤン敬遠病から脱したのは、76年録音のBPOの演奏のチャイコフスキー・交響曲第6番「悲愴」を聴いた時である。 病にかかってからは5年ほど経過していた。 写真には2枚写っているが、最初に聴いたのは国内初盤、左の盤である。 私は病にかかっていたから買うつもりは全く無かったのである。 この時期、ショルティ/シカゴSOの「悲愴」が発売され、それを買うつもりでレコード店に行ったのである。 そこで、店のお姉さんが「エェーッ、カラヤンの方が良いのに・・・」と言ったのである。 とにかく買う前に試聴してから買いなさいと言う。 で、ショルティとカラヤンを聴き比べましたよ。 「ね!カラヤンの方がイイでしょ?」と言うから「カラヤンの勝ちだな」と答えた。 「じゃ、こっち買うわね?」と言うので「いや、両方買う」と言った私は相当な重病だった(笑) それからこのカラヤン盤が私の愛聴盤になった。これは中々稀有な演奏である。 その後写真右のオリジ盤を入手したが、非常に素晴らしい音質である。音の厚みが違う。 この事は次回詳しく書こうと思う。 このような出来事から、私は出来るだけカラヤンを擁護する事にしたのである。
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