最近はPCに向かって相対し、キーボードに打ち込むと云う作業が、腰にも心臓にも負担が掛かると云う理屈を編み出し、寝転がり乍らタブレットを操るなんぞと云う、実に横着な方法で、記事の製作も、ゆるりと構えて居たのだが、例によってgustav師匠から喝が入った。
ブルックナーの演奏批評に関して
今から半世紀前、60年代後半の時分には当然PCなんぞと云う代物は無い。未聴のクラシック名曲の情報を得んと欲すれば、名曲解説本を繙くのが普通の有り様であった。
さて次は何を聴こう、と云う時に、この解説本は有用であったが、この時代、ブルックナーの項は第4番「ロマンティック」のみと云う物が多かった。
ブルックナーを聴いて居る、と言うと、奇異の目で見られた当時の事である。
当然、ステレオのブルックナーの国内盤となると数える程しか無く、ワルター、クレンペラー等を選択するのが一般的な選択で、たまに新譜なんぞ出た時には有頂天になった。
こう云う時だからこそ、ライナーノートを執筆して居る評論家の言に重みが有った。特にブルックナーの音盤に多く出現した某氏の論説は、断定口調で解り易く、大変参考になった。
ブルックナー音盤の黎明期に現れた某氏の存在は、今日のブルックナー隆盛に多大なる功績があった事は否定すべくも無い。
特にクナッパーツブッシュ、シューリヒト、ヨッフム、朝比奈、ヴァントに関しては大変参考になり感謝に堪えない。
しかし、或る時点で、このブルックナー音盤の大功労者である某氏の物言いが、私の癇に障るようになって来た。
某氏の贔屓の演奏家(指揮者)は、「森羅万象」とやらの表現を駆使して称揚する反面、嫌いな演奏家に関しては口を極めて貶す、と云う極めて偏重された論説が目立つようになって来たからである。カラヤン、マゼール、バレンボイム、メータのブルックナーは徹底的に叩かれ、貶められた。
私がカチンと来たのは、これらの指揮者のブルックナー演奏を私は極すんなりと気に入って居たからである。
尤も、流石にマゼールに関しては論拠に無理があると悟ったらしく、「兎に角マゼールは嫌いだ」で済ませて居たようである。
某氏の特徴としては、整って居るもの、美しいもの、には特に抵抗を示し、深みが無いだの表面的だのと云った観念的な批判を述べて居る。
私は、褒め称える場合には観念的で大いに結構だが、批判に晒す場合は客観的論拠を示す必要があると考える。
深みと言ったならば、音楽に於ける深みとは何か、を論じなくてはならず、何が足らざるから表面的なのか、を解説せねばならぬ。
某氏の言わんとする事は全く解らぬでは無い。論語で言う処の「巧言令色鮮し仁」である。
要するに、媚び諂う言葉に徳は無い、と云う事で、それはそうであろうと思う。であれば、某氏の嫌いな演者が巧言令色である事を述べなければならぬ。
ところがそれは絶対に不可能である。演者はプロであるから、巧言令色以ってすべし、なのである。聴者が喜ばずしてプロとは言えぬ。
とは言え、私も技巧のみをひけらかす類の演奏では是とし難い。
技巧は有りきであるが、技巧が嫌味に感じられず、美しさが感じられるような演奏を是としたい。
そして、逆も又真であり、下手であってもそれが味わいとして昇華されて居れば、それは是とすべきだと思う。
明治の書家、中林梧竹の書論で、
「凡そ法無きものは、もとより論ずるに足らざるなり。法ありて法に囿せらるるものも、また未だ可ならざるなり。有法よりして無法に帰し、法なくして法あるは、いわゆる神にして化するもの、これを上となす。」
と云うものがあり、要するに、
技法があるのは当然であるが、技法に囚われて居るものは良く無い。技法があっても無いように感じ、技法が無くても有るように感じる事が神技であり、これが最上である。
と云う論である。
何れにせよ、技法は有るに越した事は無いのだ。
我が国はちょいと特殊な環境であって、「◯◯道」と云うものが有る。簡潔に言うと、型から入って心に至る事なのだが、剣道にしろ茶道にしろ書道にしろ型から入る。
処が、この型から入って、その上に進む者は極一握りの者だ。
私は某評論家は、この型を示したのだと思って居る。
某氏は、ブルックナーの演奏はこうでなくてはならない、なんぞと断定口調で述べると、一部で、それ以外は言語道断と云うような風潮が出来した。
◯◯道に有りがちな「型」偏重と云う事がブルックナーに関しても嵌って仕舞ったように感ずる。
某氏曰く、「メータなんて聴く方が悪い」。
こう云う言を払拭したくて、私は今この記事を書いて居る。
ロマンティックとは何か
そんな事には興味が無い。音楽を楽しめればそれで良い。と云う御仁は、以後の話は詰まらぬであろうから、素っ飛ばして戴きたい。
最近、千葉の市原のチバニアンと云うものに興味がある。地球の磁場逆転の動かぬ証拠とか何とか言うて居る。
が、騙されてはいかん。
こんな事、本気で言うて居る者はバカか?と思うのである。
で、フォッサマグナはどうする?。柏崎千葉構造線はどうする?。伊豆半島が南から本州にぶつかって、その衝撃で富士山が出来た、と云う説はどうするのだ?
プレートテクトニクスを否定するのか?
千葉の市原は太古から微動だにして居らぬとでも言うのであろうか。
地べたなんぞは、プレートの上に乗っかって、地球上を動き回って居る。
ワシに言わせれば、千葉がグルリと回った証拠にしか思えぬのだが…
もう少し、古事記だの竹内文書だの旧約聖書だの十八史略だのを読み解け、と言いたくなる。
房総半島は何故鳥の形をして居るのか、とか、千葉には巨人が居た、と云うような話の方が余程ロマンがある。
と、敢えてロマンと云う言葉を使ったが、ロマンと云う言葉も似たような事が言えて、ブルックナーを理解する上で、日本語となって居る「ロマンチック」と云う言葉は、全く意味を成さ無い。
昔の解説本には、ブルックナーは4番しか無かった、と書いたが、ブルックナーの交響曲では唯一、4番のみがサブタイトル付で、当時は晦渋であったブルックナーの交響曲の中にあって、取付き安かったのであろう。
実際、音盤も4番が一番多かった。大御所爺の中で4番の出て居ないのはトスカニーニとシューリヒト位のもので、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ワルター、クレンペラー、ベーム、コンヴィチュニー等々、ブルックナーでは例外的に多くの音盤が出て居た。
それ位人気が有ったと云う事であろう。
私がバイブルとして居た音楽の友社の名曲解説全集には、流石に1番から9番迄が網羅されて居り、大変重宝したが、呼称は現今とは些か異なって居る場合が有り、ブル4は「ロマン的」と云う表記になって居た。
この全集、曲名や人名は時代を反映して居て、モーツァルトの交響曲38番はプラーグで、ドヴォルザークはドヴォルジャックである。
しかし、「ロマン的」と云うのは余りにも直訳過ぎて全く情緒が無い。矢張り「ロマンティック」の方がすんなりと心に入って来る。
只、この全集の偉い処は、ちゃんと“Romantische”と云うドイツ語も併記して居る処である。
しかし、より正確に表記するのであれば、ブルックナーが初稿に書き入れたのは“Die Romantische”である。
更に言えば、出版譜にはこの表記は無く、実際にはブルックナー本人が付けたか否かは定かでは無い。詰まり、非常に怪しいのである。
怪しいのではあるが、古くから、この「誰ぞ」が名付けたネーミングには含蓄の深いものが多い。
モーツァルトのジュピター、ベートーヴェンの英雄、運命、皇帝、エリーゼのために。
そして最近、私が感服したのは、田園である。
以前の記事で私は、田園と云うネーミングは戴けない、パストラルの方が相応しい、と書いたのであるが、最近は心境が変化して来て居る。
謎解きを深めて行く中で、日本語表記の奥深さに気付き、慄いて居るのであるが、これは次のネタとして取って置く。今はRomantischeである。
Die Romantischeを「ロマン的」なんぞと訳すと、ロマンとは何ぞや、と、堂々巡りに陥って仕舞う。
そうなると、Romantischeと名付けた誰ぞの意図からは離れるばかりである。
ドイツにはロマンティック街道(Romantische Straße)と云うのがあるが、別にローマに繋がって居る道と云う訳では無い。
では如何なる事かと、ここは学生時代から御世話になって居る独和辞典を紐解く。
Romantischの項には、最初に、ロマン主義の、ロマン的な、と出て来る。しかし、これでは何の解決にも至らぬ。単なる堂々巡りだ。
次には、幻想的な、中世的な、神秘的な、と出て来る。
Romantische Straße(ロマンティッシェ シュトラーセ)の意味としては、中世的街道とするのが正解である。要するに「古城巡り街道」だ。
脇道に逸れた。本筋はブルックナーのDie Romantischeの意味は何かと云う事である。
辞書のRomantischの項の最後に、die romantische Schle(ディ ロマンティッシェ シューレ)と云うのが出て来て、これの意味は「ロマン派」である。
ああやっぱりブル4はロマン派なんだ、なんぞと安心してはいけない。ロマン派とは何ぞや、と云う疑問に回帰して仕舞うだけの事だ。
先述の辞書を、今一度顧みると、神秘的な、と云う記述が有る。そう、ロマン派の実態は神秘主義なんである。
これがキリスト教神学と真っ向からぶつかるから厄介である。三位一体の否定である。
であるから彼らの神を秘する必要が有った。
イタリアのルネサンスでは、ダ・ヴィンチやミケランジェロが際どい作品を残した。が、形有る物は改変され、破壊され、潰されて仕舞う。ギリシア彫刻が殆ど現存して居ない事を見ても明らかである。
で、音楽である。
虚空に消えて仕舞う「音」であれば、手出しが出来ない。況してや真意が酌み取れない者には意味不明である。こうして神秘主義にとって音楽は有効な手段となった。
キャラクターが増えれば、当然楽器も増える。それが交響曲である。
バッハが器楽での対位法(コントラプンクト)を編み出し、管弦楽組曲第3番を残した。
これは、yositakaさんが仰る通り、最早交響曲である。
モーツァルトは究極の対位法、フーガを用いて交響曲第41番を残した。ここ迄は良かった。
最後に禁じ手、オペラで「魔笛」に手を出し、命を絶たれた。
交響曲は、解る者には解る、と云う手法である。対して、オペラは主義主張が丸解りで、ザラスシュトラなんぞ出て来た日には、背後に居るのは太陽神だと誰にでも理解出来る。
そう、ロマン派の神は、竪琴を持った音楽の神、太陽神アポロンなのだ。
パリ・オペラ座の天辺にはアポロンが立って居る。
ベートーヴェンは矢張り最後の交響曲で禁じ手を使った。ベートーヴェンと云う人は初めて大衆と云うものを意識して作曲した人である。
事の真相を大衆に知らしめんと、敢えて禁じ手を使った訳だ。
ベートーヴェンは、キリストなんぞただの磔にされたユダヤ人だ、と喝破した人である。
ナポレオンが、態と教皇の面前で、見せ付けるように自ら戴冠した20年後に第9は完成した。
ナポレオンが露払いしてくれたお陰で、禁じ手が使い易くなった訳だ。
神秘学であるから、369には意味を持たせるのは当然で、それぞれに意味がある。
そして7は解放、自由と云う意味がある。であるから、自由の像(女神ではない)の頭部から7本の光線が放射されとる。
そして高く掲げられた逞しい右手には、ゾロアスター教のシンボルであるたいまつが見られる。これはプロメテウスが人類に与えた神の火の象徴だ。
ベートーヴェンの7番は、誰ぞが「バッカスの饗宴」と名付けたが、バッカスとはディオニュソスの事であり、自由の像のモデルとなった。
しかし、自由の像の足は鎖で繋がれて居る。これはディオニュソスをモデルとした英雄プロメテウス像なのである。
因みに、ニューヨークの自由の像の製作者は、フリーメイソンであるギュスターヴ・エッフェルで、元像彫刻の作者のバルトルディもフリーメイソンだ。
更に言うなら、バッハもモーツァルトもシカネーダーもサリエリもベートーヴェンもシラーもゲーテもナポレオンも、シューベルトもメンデルスゾーンもヴァグナーもブラームスも…
ベートーヴェンが第9で、敢えて禁じ手を使って呉れたお陰で、シューベルトもシューマンもブラームスもヴァグナーもブルックナーも、ロマン派の真意を酌み取る事が出来たのである。
当然、ヴァグナーもロマン派の真意は理解して居た。であるから、交響曲第3番を献呈したブルックナーには、ヴァグナー派に属して居るにも関わらず、交響曲作家として認めた訳だ。そして当然、ブルックナーにもその真意は伝わったと考えるのが自然である。
で、次なる交響曲第4番の初稿に、私はロマン派だ、と云う意味で、Die Romantischeと書き込んだのだと思うのである。
表面上はカソリックの信仰を保ち乍ら、自作交響曲に於いては「キリストはただの磔になったユダヤ人」と言い放ったベートーヴェンの魂を受け継いだのである。
決して日本語のロマンチックな物語では無い。
今回取り上げた音源は5種類。常々私が好んで聴いて居る音盤である。
しかし、これらの音盤を、いと麗し、と賛同する意見に滅多に出会わぬのが歯痒い。
冒頭で述べた如く、gustav師匠がケルテス盤を褒めてくれるのが喜ばしき例外と言える。
ブル4はロマン派宣言と言うべき清々しさを感ずる曲である。
皆の衆もこの際、ブル4の視野を広げてみては如何であろうか。
今回の収録カートリッジはgraceのF9を使用した。柔らかく音場が広い美音を奏でるのでブルックナーの交響曲には非常に相性が良い。
クレンペラー/フィルハーモニア管 63年録音 Angel盤LP(ノヴァーク版)
何せ最初に、この曲良いな、と思ったのは、この音盤を聴いた時からなのである。
ポリフォニー親父のクレンペラーであるから、音が濁らず見通しがすこぶる良い。テンポも、今回取り上げた中では最速で、滞る事は無い。
それで居て性急な感じがしないのはyositakaさん御指摘の通り、この曲が腹に入って居るからである。
名手シヴィルの参加するホルンは何の苦も無く軽々と歌い、この曲を聴く歓びを増幅してくれる。
2楽章はAndante quasi Allegrettoであるからクレンペラーのテンポは正解である。音楽が淀まず、ポリフォニックな表現が独特な空気感を漂わせる。
3楽章は一点一画を疎かにしない丁寧な演奏で、遅いとは感じさせ無いが決して急がず、素朴感を表現して居て気持ちが良い。
一転、4楽章は速い。前楽章との落差があるから、ハラハラするようなスリリングな展開だ。速いテンポから更にアクセルを踏んで加速するのでオケに多少の乱れが生ずるが混濁はしない。
テンポは一定せず、何時もはクールな爺が珍しく熱くなって居るようだ。
ゆったりと構えて終結に向かうが、何せノヴァーク版なので盛り上がりは今一つだ。私はホルンが3楽章のリズムを奏で乍ら音楽が増大して行くハース版が好みなんである。
コンヴィチュニー/ウィーン響 61年録音 RMC盤LP(ノヴァーク版)
ブルックナーの4番を聴こうと云う時に、先ず真っ先に取り出すのはこの音盤である。音質は万全とは言い難いが、素朴を絵に描いたようなコンヴィチュニーの指揮振りと、VSOのローカルな音色が絶妙な取合わせで飽きが来ない。
何時も言うのだが、コンヴィチュニー楽長は音楽センスが良い。恐ろし気な風貌と相反して、この人の音楽はチャーミングな表現が顔を覗かせる。何より、アゴーギクが見事だ。間の取り方が実に上手い。職人技だ。
カラヤンのように流麗な表現は、一見、見事に思えるが、コンヴィチュニー楽長のように深い呼吸で間を取ると、アインザッツが頻発する訳で、オケが下手だと音楽が続かない。そこが上手い処が職人技たる所以である。
1楽章は細部迄ボカさずクッキリと歌い込んで、次から次へと繰り出されるチャーミングな旋律に魅了され惹き込まれる。
私はこの演奏をどの評論家も賞賛しない事が疑問であった。特に某氏は古いクナッパーツブッシュやワルターばかりを褒め称え、コンヴィチュニーの4番はコの字も出ない。この評論家は耳が悪いか、性格が悪いのだと決めたのはこの音盤のお陰である。
それ位、私には決定的にこの演奏を愛する。
2楽章のテンポは全く快適だ。このテンポが私の理想だ。絵に描いたように見事なAndante quasi Allegrettoである。
カラヤン、ケンペ、ケルテスもこのテンポであるが、コンヴィチュニーのように弾んだチャーミングさは無い。この楽章に17分以上もかける某指揮者の演奏とは全く違う音楽に聴こえるだろう。
各楽器の旋律それぞれに心が通って居て、聴く者の心を掻き乱す。いい音楽だなあ、と独り言ちて仕舞う。これ以上の演奏は金輪際現れないと私は思う。
この演奏に反応しない評論家はどうかと思う。
3楽章も前楽章と同様激しさよりは軽快さであり、威圧的にならず、一緒に遊ぼう、と誘われる音楽だ。見事なのはトリオの素朴で可愛い気な表現で、溜息が出る程安堵する。
4楽章は出だしから既に惹き込まれる。ここは厳しく力強い音楽で、相変わらず呼吸が絶妙で安心感があり、聴き処満載だ。
終結部の盛り上がりは…矢張りハース版であって欲しかった。1楽章の主題が強調される予定調和なんだが、私は個人的に、3楽章のパパパ・パパパと云うリズムが強調されるハース版の方が、勝利の雄叫びのようで好きなんである。
イッセルシュテット/NDR 66年演奏会録音 TAHRA盤CD(ハース版)
誰が聴いても安心の重厚感を求めるならば、このイッセルシュテット盤がお薦め出来る。
絵に描いたようにズッシリ感のあるドイツ流であるが、程良い加速が有り、音楽の流れがスムーズで呼吸が深いので圧迫感は感じ無い。
NDRは本当に上手い。戦後生まれのオケの筈だが、短期間でこれだけの力量に纏め上げたイッセルシュテットは偉とせねばなるまい。
重厚とは言え、無骨一辺倒ではなく、爆発前の巧みなディミヌエンドなんぞは思わず、上手い!と口に出そうになる。
2楽章は遅い。同じ武骨派でもケンペは実に適切なテンポであったが、イッセル親父はちょっと悲しくなる位の寂寥感が伴う。ムード満点なんだが、私は少々苦手だ。それでもgustav師匠が苦手な例の某指揮者よりは1分程速いので、以って瞑すべしである。
3楽章は標準的テンポだが、NDRの燻んだ音色でズッシリと重量感を感ずる。悪くは無いが潤いを求めたくなる。ここは一つトリオでしっとりと心を落ち着かせよう、とトリオを待つ。
しみじみとしたシットリ感は正にNDRの美点だ。
トリオを終えた後の主題回帰はスッキリとして、最初のような重さが取れて居る。これで正解である。
4楽章は標準的なテンポ。重厚で立派な音楽だ。時折現れる優し気で情緒的な表情が重苦しさから救ってくれる。
終結部、今度は期待を裏切らず、ハース版ならではの華麗な勝利の凱歌で、バーンと云う一撃で終わる。これを聴ければ、途中の多少のモヤモヤは全て吹っ飛んで仕舞う。聴き終えた時の充実感がこの演奏をお薦めする所以である。
ケルテス/ロンドン響 65年録音 DECCA盤LP(ハース版)
ケルテスの国内盤はいきなりLONDONのGT盤(廉価盤)で出た。70年代半ばの事なので、65年録音をレギュラー盤の新譜と云う訳には行かなかったのであろう。廉価盤ではあるがちゃんとZAL刻印が押されて居る。詰まり音が良い。
しかしそんな事より、瑞々しく果汁が迸るような演奏そのものにすっかり魅了されて仕舞い、以後は私のお気に入り盤と相成った。
しかし、世は少し前(74年)に、同じLONDON盤で発売されたベーム/VPOに席巻されて居り、類い稀なる魅力に溢れるケルテス盤が評判になる事は無かった。
何となれば、追い掛けるようにケンペ盤が出て、ヨッフム、カラヤン、マズア、ヴァントと、ブル4のラッシュが続いた。ここ迄大御所連中の新譜に包囲されたのではケルテス盤は埋れざるを得ない。
ケルテスが急逝したのは73年。2番を残してVPOとのブラームスの録音が進行して居た。64年に録音されて居た2番を加えて何とか全集の発売に漕ぎ着けたが、もし、ケルテスが達者で居たら、VPOとのブルックナーと云う企画が有って然るべきで、ベーム盤は無かったのかも知れぬ。
そんな夢想が駆け巡る程、ケルテスのブル4は魅力的な演奏なのだ。
1楽章は快調なテンポで始まる。遠くからのホルンが次第に大きく近付いて来る。上手い。当時のホルンは名手タックウェル。抜群の安定感だ。音楽は斬れ味鋭く弛む事無く流れる。時に消え入りそうな木管の情緒が陰影を深める。この楽章のみで充分名演だ。
2楽章のテンポは適切であるが、音楽そのものはウエットで情緒がある。フレーズの最後を引き摺らないのでウエットでありながら陰鬱にならず透明度が維持される。最後のティンパニの絶妙な匙加減はどうだ。心を打たれる名演だ。
3楽章の軽快さは私の求めるものだ。斬れ味の鋭さは相変わらずで、呼応する金管の咆哮に心が踊る。トリオも殊更にテンポを落とさず、巧みな呼吸で生気ある音楽に仕上げて居る。
4楽章が何にしろ絶品なのである。音楽が躍動し、心が暴れ捲っとる。ケルテスがノッて居るのである。このノリに付いて行けない者は脱落である。ブルックナーはこうでは無い、と云う堅物頭は聴いてはいけない。こうなると他人に紹介するのも惜しい。私だけの宝物にしたい位である。
しかし、この演奏に嵌ると他が面白く無くなる。ちょっと劇薬のようなヤバい演奏だ。
終結部のノリにノッたホルン。全てを裁ち切るかの如きティンパニの一撃で全曲が終了する。
メータ/ロスアンジェルス・フィル 70年録音 LONDON盤LP(ハース版)
嘗て、メータのブルックナーなんて聴く方が悪い、と曰わった評論家が居た。
痛快である。解らん者には聴いて欲しくない。その人物が損な人生を送るだけで、ワシには全人類を救済する菩薩心はさら無い。
しかし、或る人物に洗脳された憐れな被害者には多少なりとも手助けをしたいと欲する。
で、メータのブル4はいいのである。清々しいのだ。同じLONDONのベーム盤が出る前からメータ盤を聴いて居たので、ベーム盤は如何にも重苦しく感じた。明朗快活なメータの演奏の方が、私にはすんなり入って来るのだ。
1楽章出だしからくっきりと明朗なホルンに惹き込まれる。音楽が盛り上がり音量が増大しても殊更に無理をして居ない。余裕があるからうるさくならず、透明度が維持され清々しいのである。テンポにも自然な起伏があり聴き易い。
2楽章出だしは思ったより遅く、ん?となるが、気付かぬ程微妙に加速して行くので重苦しくはならない。どんな時でもティンパニのトレモロがしっかりと聞こえるのが好ましい。
途中、音楽が活き活きと弾み、如何にも楽し気な明るさが差し心が躍る。私はメータのこの演出が大好きだ。
3楽章は些か慎重に始まるが曲が進むに連れ、次第に調子が出て来て本来の軽快で明朗な音楽となって行く。例のパパパ・パパパと云うホルンの軽快な合の手が心地良い。ここはこうで無くてはならない。
4楽章の出だしも流れで引き続き調子が良い。透明感が有り豪快で有り乍ら濁らない。理想的な展開だ。
序盤の嵐の後の憂いを持った第2主題はゆったりと深々と奏される。下手な小細工を弄せず思い切り歌うのが潔く、心地良い。
中盤の盛り上がりも、ノリが良く、アクセルを踏みつつ、常に余裕があり抑制が効いて居るので安心だ。同じノリの良さでもケルテスとの違いはここである。
終結部も豪快に鳴らすが抑制が効いて居る。ケルテスのように燃え上がって居る訳では無く、大きく美しく鳴らし切る、均整の取れた美しさで、余裕を持って全曲を締め括る。
メータ34歳。会心の出来である。聴かない者には解るまい。