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私がブログで音楽の記事を書こうと思い立った要因の一つに、巷間話題性の低い演奏家ではあるが、秀でた音楽性を有すると云う、所謂「通」好みの音盤を知らしめたいと云う動機があった。
顧みると、評論家連中に反旗を翻す如き文章を、随分書いて来たようにも思う。
しかし、その甲斐あってか、最近拙ブログに戴くコメントの中に、クリップスを見直すような兆候が見られるのは、何より嬉しき現象である。

1902年生まれのクリップスは、カラヤンより年上、イッセルシュテットより年下、と云う処であるが、ほぼ同年代の指揮者である。しかし乍ら、その存在の地味さ加減は群を抜いて居る。19世紀生まれの巨匠達とカラヤンの狭間にあって、長らく顧みられる事のなかった「実力派」である。
同じ地味系であっても、コンヴィチュニーやカイルベルトはもっと早くから「光」を当てられて居たと思うが、クリップスは未だに、その実力に見合う脚光を当てられて居るとは言えぬ状況である。
であるから、微力乍ら今一度、声を上げてみたいと思うのである。



モーツァルト 交響曲第35番 
クリップス/イスラエル・フィル 57年録音 DECCA盤LP(MONO)
クリップスのモーツァルトは、ステレオ時代のコンセルトヘボウ管との音盤が飛び抜けて素晴らしいのだが、DECCAのMONO盤のイスラエル・フィルのハフナーシンフォニーは一聴の価値があると思う。この盤はジュピターとの抱き合わせであるが、流石にジュピターの方はオケの弱さが目立ってしまい、更にコンセルトヘボウ管との圧倒的名演を知る耳には粗さが辛い。
このハフナーは勢いが良い。コンセルトヘボウ盤ではゆとりを感じさせる大らかで、美麗な音楽であるが、この曲の求める勢いと云う面では若干の物足りなさが付き纏うのであるが、この演奏はキリッと角の立 った勢いが素敵である。
木管を一切曖昧にしない、内部の強さを持った演奏である。細部を曖昧にしない強さである。




チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 
クリップス/チューリッヒ・トーンハレ管 60年録音 MMS盤LP(MONO)
Concert Hallのマークなんだが、レーベルはMusical Masterpiece Societyだ。
チャイコはVPOとの5番が有名であるが、私はこの6番の方が好きだ。ここでも細部を曖昧にしないクリップスの持ち味が生きている。小細工の無い堂々たる演奏だ。様々な楽器の音色が曖昧にならずに生き生きと繰り出される美演だ。そしてメロディの呼吸が実に良い。そこには暗さは感じられず、音楽の美しさに息を飲む。
3楽章のクラリネットの美しさにウットリと聴き入って居ると、何時の間にか巨大な音楽の渦に巻き込まれる高揚感が素晴らしい。大口径のウーファーであると、この恐ろしい地響きを感応出来る事であろう。4楽章も憂鬱感よりも高揚感が勝 る。実に「陽」なる悲愴である。これは大いなる歌だ。




ブラームス 交響曲第2番
クリップス/チューリッヒ・トーンハレ管 60年録音 Concert Hall盤LP(MONO)
クリップスのブラームスはすべからく素晴らしい。この2番も私のお気に入りの演奏である。骨太のクリップスは木管の歌わせ方が実に上手い。であるからブラ2はピッタリとツボに嵌る訳である。角を立てずに大らかに歌う演奏は、実にこの曲の表現として的を得て居る。似たような演奏にシューリヒトがあるが、クリップスの方がより音楽が大きい。
この3楽章を聴いてウットリとしない者が居るのだろうかと思う。終楽章は歌い抜き、熱を帯びながら更に巨大化する様は師のワインガルトナーを凌駕する高みにあると感ずる。どんなに煽っても造形を崩さない恐るべき統率 力だ。これはもっと知られても良い名演である。




ブラームス 交響曲第4番
クリップス/ロンドン響 50年録音 DECCA盤LP(MONO)
この盤は前々記事でも紹介したが、今回は針をエジソンに替えての収録である。矢張り古いDECCA盤を古い針で再生すると、クリップスの持ち味である木管の音色が甘くなりがちである。ブラ4マニアの私が惚れた演奏であるから、ここは再度、精細な針で入れ直した。
演奏評は前々回記事を参照戴きたいのだが、今回改めて聴き返して驚いたのは、この古い50年製の音盤が、ノイズこそ入ってはいるが、音色は些かも劣化して居ない事である。再生の難しいffrr盤であるが、コツを掴むと瑞々しく蘇るのが嬉しい。こう云う楽しみがあるからLP再生は止められない。
例の3楽章のティンパニは 硬質で、より克明に聴こえ、効果的である。




ドヴォルジャーク 交響曲第9番
クリップス/チューリッヒ・トーンハレ管 61年録音 Concert Hall盤LP
これはジャケットの麦が左向きの米国プレス盤だ。と云う事は、麦が右向きのジャケもあると云う事で、其方は日コロのプレスらしい。さて、どちらを収録しようかと迷ったが、傷が少ない左麦盤を選んだ訳である。
この曲は名演数多ある中で、特にクリップス盤を選ぶと云うのは殆ど無いであろう。実の処は私も、クーベリックやフリッチャイやカラヤンを好む。太くシンフォニックではあるが、血沸き肉踊る感覚には至らない。兎に角、私は最初にクーベリック/VPOを聴いて居た訳で、この曲に関しては、滅多な事では驚かなくなって居たのである。




チャイコフスキー 交響曲第5番
クリップス/VPO 58年録音 米London盤LP
これが巷で評判の高いクリップスのチャイコ5である。が、私にはかなり判り難い。同じVPOであれば、マゼール盤があるし、ムラヴィン盤とか、ホーレンシュタイン盤なんぞの巨大な演奏と比べると些か分が悪いと思う。但し聴き易さ、安定感は抜群で特に不味いと云う処も無い。が・・・6番のように振舞い切れて居ないもどかしさが付き纏うのも事実だ。




モーツァルト 交響曲第41番 
クリップス/コンセルトヘボウ管 72年録音 PHILIPS盤LP
これはもう何度も紹介して居る私の一押しの名演である。スケールの大きさは、他に及ぶ者が無い。そして美しく、深い。最初は少々判り難いと思うが、ロココの域を脱した堂々たるシンフォニーに仕上がって居る。何度も繰り返し聴いて戴きたい超名演なのである。




ブラームス 交響曲第1番
クリップス/VPO 56年録音 DECCA盤LP
私はこの演奏が好きである。ステレオでブラ1を聴こうと云う時は、真っ先にこのクリップス盤に手が伸びる。
クリップスと云う人はブラームスに適性があるとしか思えない。師匠のワインガルトナー譲りなのかも知れないが、ブラームスの音楽を完全に自分のものとしているので、ドヴォルジャークで感じたもどかしさは微塵も無い。最近の若い聴き手にはこう云う演奏を是非聴いて戴きたいと思う。これがウィーンのブラームスだ。伝統の味わいと云うものが此処にはある。




ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番
ルービンシュタイン/クリップス/シンフォニー・オブ・ジ・エア 56年録音 RCA盤LP(MONO)
私の大好きなルービン爺とクリップスが、バチバチと火花を散らす演奏である。何時も言うように、RCAは音が良い。しかも50年代のMONO盤は、矢鱈と凄い音を平気で入れているので、再生する方は苦労が耐えない。MONO盤は横振幅であるから、壮大な音響がリミット無しに切り込まれていると、針が吹っ飛ぶ。恐怖心と裏腹なんであるが、生々しき音を聴きたいので、国内盤の抑制の効いた音なんぞは糞食らえで、敢えて犬影盤を取り出す。
実力派同士の三つ巴の凄まじさを実感して戴きたい生々しき演奏である。




ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番
ルービンシュタイン/クリップス/シンフォニー・オブ・ジ・エア 56年録音 RCA盤LP(MONO)
火が付いたクリップスとはこう云うものである。ルービン爺を喰ってしまう程の猛烈な煽り、弩迫力とはこの事である。余りのダイナミックで、エジソン針では最早追従不可能である。拠って、2〜3楽章は急遽SPUにリリーフを頼んだ。であるから、2、3楽章は急に穏当な表現に聴こえるが、御容赦願いたい。




ベートーヴェン 交響曲第7番
クリップス/ロンドン響 60年録音 EVEREST盤CD
第7の名演数多あれど、クリップス盤を聴かずして第7は語れまい。この曲のクリップスは冷静に燃えている。例によってポリフォニックで美しき音造りなんであるが、筋金の入った図太さと安定感は聴いていて充実感がある。何より音楽を煽って迫力が増しても造形が乱れないのがクリップスの凄さだ。




ベートーヴェン 交響曲第9番 
クリップス/ロンドン響/BBCcho 60年録音 EVEREST盤CD
ソロは、ジェニファー・ビビアン(ソプラノ)、シャーリー・カーター(ヴァーレット、メゾ・ソプラノ)、ルドルフ・ペトラーク(テノール)、ドナルド・ベル(バリトン)と云う顔ぶれである。
これ又大きな演奏である。2楽章のティンパニの使い方は実に上手い。聴いていて実に爽快感を感ずる。地味な表現の3楽章もファンファーレ以降は巨大な音楽に変貌して、4楽章への橋渡しが実に上手い。
4楽章の聴き処は、テノール独唱の入るトルコ行進曲の処だ。これは本当にメフテルを聴いているような錯覚に陥る程野趣に溢れた軍楽的な表現で上手い。
そして矢張りコーダの煽りは格別で、トルコ軍楽ベースで爆発するが、最後までアホにならないバランス感覚は、矢張り第一級の音楽職人クリップスである。多くの人に聴いて戴きたい名演として紹介したい。





懸案事項の比較検討

気付くと随分色々な懸案が溜っている。モーツァルトも中途だし、シューマンをやると約束して置きながら未だ手付かずだ。yositakaさんからは何時も切っ先鋭い突っ込みやら、為になる情報を戴きながら、検証も怠っている有様だ。
中でもコンヴィチュニーのブルックナー4番問題は、頭の片隅には何時も引っ掛かっていながら、実際の作業を考えると中々踏み込めないで居た。こう云う検証は私にとって面白いものではない。なかんずく、騙された感が付き纏う今回のような問題は、結果が出たところで、やあ良かったスッキリしました、と云う訳にはいかん。矢張り92%程度は腹立たしさが込み上げる。
しかし、問題提起戴いてからは、何時でも検証出来るように、手の届く処にレコードが置いてある。カートリッジの調子も良い処で、重い腰を上げる事とした。

問題の件とは、コンヴィチュニー指揮のブルックナー交響曲第4番、ゲヴァントハウス管の演奏が、実は別に出ているウィーン響の演奏と同一であると云う問題だ。
平林直哉は同一だと断定したらしいが、半世紀も騙されて来た私としては、他人が何と言おうと、自分で確認しない事には納得が行かない。盤鬼と言われる平林直哉に楯突く気はないが、最近この人とは少々ズレを感じる事があり、兎に角やってみる。
最初に、何故今まで誰もが気付かなかったのかを考えた。これは追々理解して戴けると思うが、その気で聴かなければそうとは思わぬ程、音の印象が違うからである。詰まり、ゲヴァントハウスとされて来た演奏は、如何にもそれらしく堅いイメージで、ウィーン響盤(これはそもそも合っている)は、如何にもウィーン風に柔らかさとウィーン訛りを感じさせる作りとなっているのである。
ここで、敢えて「作り」と書いたが、これは相当な作為を感ずるのである。意図的に作られているように思える。今となっては藪の中なんであろうが、混乱、であるとか、取り違えた、なんぞと云う簡単なものでは無い。

今回の収録に使用した針は、DENONのDL−103FL。これは、コニカル針なので古い盤のノイズを拾い難い。しかもトゲトゲした音を適度に丸め、柔らかく包んでくれるので、演奏のみに神経を集中し易いからである。主旨は音質の差を確認する為ではなく、あくまで演奏に違いがあるのか否かを聴き分けるのが目的である。


最初に聴くのは、オイロディスク国内盤(日コロ)のゲヴァントハウス表記の演奏。私も当然これを最初に聴いている。その時の印象は、随分と硬くトゲトゲとした演奏だなぁ、と云う印象であった。しかし、4楽章の見事なニュアンスが気に入った。何せ当時はフルヴェン、ワルター、クナ、クレンペラー位しか選択肢が無かったから、この演奏は一際チャーミングに感じた。
さて、演奏の方だが、冒頭のホルンは如何にも響かないゲヴァントハウス風で、これで騙されてしまう。Aのfからは、何時ものゲヴァントらしくない控え目な表現が疑問と言えば疑問だ。ゴツゴツとした岩のようなfが来ると予想していると肩透かしを食わされる。



次は日コロのウィーン響盤。私はこれを聴いてすっかり嬉しくなり、コンヴィチュニーのブル4はVSOが良いと言い振れて来た訳だ。こちらは上記ゲヴァント表記盤より柔らかで、冒頭のホルンもウィンナホルンの寝惚けた感じが出ている。何よりヴァイオリンのトゲトゲ感が無く自然なのだ。



英国のR.M.Cと云う珍しいレコードだ。上記日コロ盤の抜けが悪いのが気になり、外盤を探している時に偶然見つけて入手したものだ。冒頭のホルンを聴けば音抜けの良さは一聴瞭然だ。Aのfからも自然な盛り上がりを感ずるが、全体として線の細さが気になる。103FLと云う図太い音を出す針でこの程度の低域再現と云う事は、音は広がるが厚みが出ない典型的な音盤だ。



ここまでの3枚を聴くだけで、充分同じ演奏だと云う事が理解出来るのだが、針の個性を考慮してCDも確認して置く。
日コロのゲヴァントハウス表記盤。当然と云うか矢張り最初のオイロディスク盤と良く似ている。しかしこちらの方が弦の違和感が少なく、CD製作時に調整されたものと思う。その分音の厚みも減じているので、全体としては薄口だ。



日コロ盤のウィーン響表記CD。これが一番自然な感じである。CD二枚を比べると簡単である。針の影響が無いので、これらが同じ演奏のテープ違いだと云う事が理解出来る。



最後は独オイロディスク盤LP。これはモノラル盤である。流石に5種類聴き比べた疲れた耳には、これが一番聴き易く感じる。モノラル録音されたものか、ステレオ録音からミックスダウンしたものかは定かではないが、要らざる神経を使わないで済む分、安心して音楽に入る事が出来る。ステレオで聴くと、随分と妙な楽器バランスに聴こえるが、モノラルの場合、こんなものかと納得出来てしまうから不思議だ。




さて、yositakaさんから戴いた懸案事項はもう一つある。モーツァルトの交響曲第40番、ワルター/BPO盤である。ワルター協会盤は冒頭テーマ前半が欠落しており、コロンビア盤で補っていて、仏ターラ盤CDは正常。と云う情報を戴いたのである。これも、たまたまtahra盤CDがあるので聴き比べてみた。
ワルター協会盤LPは、yositakaさん御指摘の通り、冒頭部は音質が変わり、明らかに繋ぎ加工である。対してtahra盤CDは全く均質である。
しかし、私がこのCDを聴かないのには訳がある。これを聴いてもときめかないのである。冒頭変な繋ぎがあっても、矢張り私はワルター協会盤LPの音が好きであり、これでなくては心がときめかない。それを含めて比較して戴きたい。

ワルター協会盤LP



tahra盤CD

どうも今年に入ってから調子が悪い。連日の大雪でやんやと除雪に勤しむと、腰をやられた。腰の塩梅が良いと思ったら今度はインフルだ。
昔はバーッと熱が出て、懐炉を貼って厚着をして布団に包まり、タップリ汗をかくとスッキリと収まったものだが、今回は思ったように高熱が出ない。これは高熱だわい、と思って体温を測ってみても37℃台である。従って汗も思うようにかかない。配偶者は、歳を取ると熱が出ないのよ、熱が出た時は死ぬ時よ、なんぞと面白からぬ事を態々言う。兎に角こう云う時は会話をしたくない。
年が明けたらちゃんと記事を書こうと思っていたが、やる気とは裏腹に事態は進展していない。インフルで頭がボーッとして居るが、腰痛でのた打ち回っているよりはマシである。気力でカバーしなければならぬ。


昨年末の事である。今年も御世話になりましたと、品川無線に電話を入れた。何時ものように専務が出た。この専務は2代目で、私と同年代なので、何時も話が長くなる。1時間2時間は普通である。しかし、単に駄話をして居る訳では無い。こう云う時に色々な情報を仕入れるのである。
話の中で、どうやらレコード業界が活況を呈しているようなのである。レコードのプレスが増えているのだ。
そして、ここからは実に品川無線らしい業界の裏話である。ノイマンのカッティングヘッド、SX-68が取り合いなのだと言う。要するに簡単に手に入らない状態らしい。ところが、SX-74の方は、割と何とか手に入るらしいのだ。詰まり、業界ではSX-68の評判が高く、改良型の筈のSX-74より「音が良い」と言うのである。
これ、どう思いますか?と聞かれたので、我々再生者から言わすと、当然68の方が人気がありますよ。昔からどちらが良いか、と云うのはマニアの話題で、音の良し悪しは別にしても、68の方が好まれるのは確かですな。と答えた。

これは古いマニアでなければ、何を言っているのか訳が解らぬだろうが、ステレオ・レコードの出始めの頃の昔話である。
これは主にCBSのレコードが問題になると思って良い。兎に角50年代後半、ステレオでいの一番に出たのがワルター/コロンビア響の一連のシリーズで、米CBSのコロンビア・レーベルの盤であるから、当然販売は日本コロムビアから出ていた。その頃はコロンビアの360SOUNDと言って、他社の盤よりは音場感が豊かなのが売りであった。
60年代に入ると、何時の間にやら国内販売はSONYに変わっていた。その当時はろくに知識も無いから、日コロだろうがSONYだろうが音は同じだと思っていた。しかし事件が起きたのは68年。SONYがSX-68SOUNDと銘打って、ノイマンのSX-68でカッティングした盤は音が瑞々しいと売り出したのだ。
そうなると黙って居られない性分である。日コロ盤を持っているのにも係わらず、改めてSONY盤を買う羽目に陥った訳である。で、矢張りその当時はSXサウンドの評判は良かった。流石ソニーだわい、と云う事になったのであるが、その後も騒動は続く。SX-68MARKⅡと云うのが出て、SX-74なんぞは他社も挙って採用する。これでは流石にキリが無い。勝手にしやがれ!と見切りを付けるが、お気に入りはSX-68だったのだ。
こう云う馬鹿気た騒動は、若い世代には解らぬだろうが、この話題で盛り上がるのが古き音盤マニアなのである。

イメージ 1
SX-68 カッティングヘッド


イメージ 2
SX-74 カッティングヘッド


たまにはオーディオっぽい話題も良かろうと、今回はその当時興奮して買い直したSX-68の音を聴いて戴こうと云う趣向である。SX-68が好みなのか、はたまたSX-74が気に入るのか、試してみて戴きたい。

最初はベートーヴェンの交響曲5番1楽章、ワルター/コロンビア響で比べてみた。
最初は74、次に68である。これで何故我々が68を支持するのか、何と無く解って戴けるのではないかと思う。68の方が音楽がガツンと来るのである。
再生環境によっては、何が違うんじゃ!と云う結果になるやも知れぬが、耳の良い人は何となく理解出来ると思う。
余談だが、最近、動画にアニメーションを入れてある。こうすると、どうもブロック率が低いようなのである。気のせいかも知れぬが、試す価値はあると思っている。






ブルックナーの交響曲7番の2楽章の後半。これもワルター/コロンビア響だ。





次は日コロの360SOUNDとSX-68の比較。モーツァルトの交響曲39番3楽章、ワルター/コロンビア響である。





最後はショスタコ5番の1楽章。バーンステイン/NYPの日コロ盤とSX-68の比較だ。




或る演奏会の想い出

秋とは謂えども我が部屋は未だ30℃以上である。常からは、地球温暖化歓迎、なんぞと吐き捲くっているが、我が部屋の温暖化には些か閉口して居る。パワーアンプに通電するから斯くも暑いのだと、意を決してヘッドフォンで音楽を聴くのだが、只でさえ暑い中、大柄のヘッドフォンが頭部を覆って居る事自体が大層鬱陶しい。なかんずくCDプレーヤーからディスクを取り出しと、其れ自体がホカホカと発熱して居る。血圧が上昇する。温度計を睨むと、35℃である。此処で気力が尽きた。先頃衝動買いしたtahra盤、ワルター/BPOのブラームス2番も暫くは棚の飾りである。
当ブログも、先回は重苦しきテーマをやり倒したので、直後体調を崩し、正気を取り戻す為に二日は費やした。引き続き続編を、と考えないでも無かったが、精神的にはかなりの充電期間が必要であると、自己診断を下し、今回は取り留めの無い散文にしようと決した。

H氏から、演奏会の感想なんぞを書け、と御勧めがあった。はて、最近はとんと演奏会から脚が遠退いて仕舞った。最後に聴いたのは藤原真理さんのリサイタル。其れも数年は経って居る。と、此処迄書くと、其の昔、初めて藤原真理さんを間近で聴いた時の衝撃でも書くべきか、とも思ったが、今はちょっとクラシックを語る気分では無い。
其れよりもっと以前、もっと衝撃的だった演奏会の想い出を書くとしよう。

此れはもう散文。演奏会の感想では無く、演奏会に纏わる思い出である。
私の子供時分、近所に兄貴分が居た。おーいと叫べば声が届く程の近所である。其の人は複雑な家庭環境で、詰まり養子である。私より一回り程歳上で、兄弟の無い彼にとって近所の私は格好の弟分であったに相違無い。事有る毎に構って貰った記憶がある。私もニイちゃんと呼んで慕っていた。
或る日、おーい映画観に行くぞ、と連れて行かれたのがブルース・リーであった。兎に角流行には敏感で、人並み優れた感性の持ち主であった。
そんな彼は、音楽にも敏感で、此れ凄いから聴いてみれ、と持って来たレコードは、マヘリア・ジャクソンであった。当時、ゴスペルなんぞと云う言葉すら知らない餓鬼に、マヘリア・ジャクソンを聴け、と云う彼の頭も相当変わって居たが、其れを聴いて感動して仕舞った私も完全に可笑しな子供であった。
ニイちゃんは余りに傾倒し過ぎて、或る時自分を「寂村」と名乗るように成ったが、流石に此れは周囲の猛反対に逢った。意味するところが悪い、と云うのである。然し彼は、自分はもう此れしか無いと、暫く寂村で通して居た。変人だ。
又、彼はショスタコーヴィッチが好きであった。ムラヴィンスキーだのバーンステインだのと、我が家に持ち込んで来ては飽く事無く聴き続けている。7番のドッカーンと云う音を聴いて、顔を真っ赤にして聴いて居るのだ。日がな一日聴かされる方は堪ったものでは無い。然し、彼は御構い無しで喜んでいる。自分が悦ばしいものは、当然の如く、私も悦ばしいのだと思って居る。そんな兄貴分を私は大好きであった。
又或る時、此れを聴け、とレコードを抱えて来た。ジャケットのど真中に「津軽三味線」と書いてある。津軽三味線なんて言葉聞いた事が無い。民謡か・・・。イヤ民謡でない、津軽三味線と云う音楽だ、と言う。此れが私と高橋竹山との邂逅である。
ニイちゃん曰く。此の高橋竹山と云う人が凄い。聴いてみろ、と言う。然し乍ら無茶苦茶な人である。幼気な小学生に、いきなり津軽三味線を聴けと、此れは民謡では無く津軽の音楽だ、なんぞと吹き捲くるのである。兎に角、私には拒絶も延期も有り得ない。勝手にレコードをかけて勝手に講釈を吹き捲くるのだ。そうは言っても、私はそこで鳴り出した音楽は嫌いでは無く、寧ろ聴き入って仕舞った。
其れまでも、例の如く持ち来たるレコードで、ロリンズのジャズなんぞを聴き、二人でセント・トーマスを口ずさんだりして居た。今度はサックスが三味線に替わっただけである。ああ、此れはジャズだな、と思った。竹山が渋谷のジァンジァンで弾き語りをやって居た頃の話である。
そんな事を続けていた或る日、ニイちゃんが興奮の体でやって来た。オイ、今度竹山が来るぞ。一緒に行くべ。

生で聴く竹山は想像以上に凄い迫力が有った。生と言ってもPAを通して聴くのであるが、それでも太棹と云うのは此んなに大きな音が出るものか、と圧倒された。そして、矢張り最初の直感の通り、竹山の津軽三味線にはジャズ・フィーリングが有る事を確認した。音楽其のものにも確かに感動したのではあるが、其れ以上に、生身の竹山が語りかける「ボサマ」魂に心打たれた。
竹山は語った。
此処へは昔、良く来たもんですよ。寒くてね・・・歩くと雪の音が違うんだ・・・

別に物見遊山で来た訳では無い。竹山は「ボサマ」と云う門付けで、物貰いに来たと云うのである。
私ゃ此の三味線弾く時は、目の見える人とは違う弾き方をしてるんだ。目の見える人ぁ、色んな事言ってますよ。今日は沢山人来てたなぁ、とか、イイお姉ちゃん居たなぁ、て。
私ぁ目が見えないから、この三味線弾く時ゃ、ああ、あの時ゃ辛かったなぁ、あの時ゃ腹減ったなぁ、と、心の中で泣いて弾いて居るんですよ。

ああ、此の人もサッチモと同じだ、と思った。竹山はボサマの悲しさを太棹に託している。だから聴き手の心を大きく揺さ振る。音楽は激しくはない。優しく悲しい彼の弾き方は、音を通して聴き手の心に共鳴し、実際の何倍もの大きな音楽と成って包み込む。
又、竹山は言った。
三味線は叩ぐもんでねぇ。三味線は弾ぐもんですよ。
おらぁ三味線は生きてるって言うんですよ。この糸だって絹ですよ。生き物から取ってる。この皮だって犬皮ですよ。撥だって亀でしょ。みんな生き物の世話になってる。粗末に扱ったら罰当たりますよ。
叩ぐから糸は切れ易ぐなるし、皮は穴開ぐし、そんなのぁダメですよ。
叩いたらこんな音ですよ・・・弾いたらこんな音出るでしょ。大きい音出るもんさ。大きい音出ないと誰も聴いてくれませんよ。汚いカッコして門付けて歩くんだから・・・
民謡の人ぁ他の三味線聴かねぇばダメさ。長唄、端唄の人の三味線はイイ音しますよ。そういう音を聴かねぇば。

一般に、津軽三味線は叩き三味線だと言う。ところが津軽三味線の元祖、竹山は叩いたらダメだと言う。これはボサマの、本物の津軽三味線奏者の、壮絶なる「弾き三味線」宣言である。喰うに事足りた、戦後の民謡奏者に対する痛烈なる反撃である。私は感動した。
私は今でも、此の津軽三味線を小学生に無理矢理聴かせたニイちゃんに感謝している。
三国志の張飛みたいに豪快で繊細なニイちゃんは、良く喰い、良く笑い、良く喋り、良く怒り、良く泣き、そして愛情豊かであった。生き急いだ45年の生涯であった・・・

キングレコードの斉藤氏は凄い人だ。何せ世界で始めて「ボサマ」の津軽三味線を独奏で録音しようと企てた人だ。そして、此れが今に伝わる「津軽三味線」と云う固有名詞の発祥となった。1963年の出来事である。
当時、竹山はボサマでは無く、師匠の成田雲竹の伴奏をやって居た。斉藤氏は最初、津軽民謡の大家、雲竹の歌を聴いたと言う。ところが、肝心の雲竹の唄はさっぱり心に響いて来ない。それどころか、後ろで伴奏を付けている三味線に心打たれた、と云う。
その当時の映像を発見したので、拝借して来た。此れは貴重な映像である。



そして、此れが斉藤氏がプロデュースした、竹山の、と言うよりは津軽三味線の世界初のレコードに収録されている演奏だ。
津軽じょんから節の旧節を御聴き戴きたい。じょんから節、或いはじょんがら節とは上川原節で、慶長二年の浅石城落城の悲話を唄ったものらしいが、メロディは何度かの変遷を経て居る。
竹山によると、昭和7年頃迄は、此の旧節であったと言う。演奏は竹山53歳のもので、斉藤氏が圧倒された冴え渡る「弾き三味線」のテクニックが、モノラル乍ら明瞭な録音で捉えられて居る。




同じ盤から、じょんから節の中節である。竹山によると、昭和20年くらいまでは此の節だったそうである。



此れはSONYのステレオ盤である。73年の渋谷ジァンジァンのライヴ録音から、じょんから節の新節である。此れは今でも親しまれている御馴染みの節だ。戦後は此の新節に変わったそうである。最後には若干竹山の語りを入れておいたので、雰囲気を感じて戴ければ幸甚である。







最後は・・・今は亡き我がニイちゃんの思い出の曲。マヘリア・ジャクソンの、「ジェリコの戦い」と「ダニー・ボーイ」。私からの感謝を込めて・・・


モノラルのイイ女

ここに来て梃子摺って居る。何時もの不埒なyoutubeが、またぞろ規制を掛けて来た。当ブログは純粋に日本人向けと割り切って、youtubeのブロック攻勢も日本以外でのブロックは無視して来たのだが、どうやらこれが御気に召さなかったと見える。
暇を見ては少しづつ録音していたネタも、殆どがyoutubeが使えない状況になり、散々知恵を絞っては見たが、悪態を吐く以外方法が見つからぬ。
取り敢えず今回は場繋ぎ的な内容に変更して、良き方法を探ってみたいと思っている処である。


カフェのオヤジが最近、「女は面倒だよ・・・」と言っていたが、ところがドッコイ。それを言っちゃぁ御仕舞いよ、なんである。
実にこれは、面倒な女は面倒なんであるが、イイ女は一向に面倒ではないのである。オーディオと一緒である。
で、ヴォーカルなんかもイイ女は良いのだ。世の中には「歌が上手けりゃ許す」と仰る奇特な御仁が居られるようだが、幾ら想像力を掻き立てても、矢張りイイ女のヴォーカルは良いのだ。
世の中、「イイ女だから許す」派のオヤジが過半数を占めているものと信じて疑わぬ。


今回は私のお気に入り女性ヴォーカル。コニー・フランシスである。勿論イイ女である。
容姿もさる事乍ら、声が実に可愛らしい。そしてこれは可愛らしく表現しているのだと気付くと、堪らなく愛おしく感ずる訳だ。
私の愛蔵盤。ライオンマークは懐かしのMGM。当然モノラルである。否、モノラルでなくてはならぬ。これはそう云う曲だ。
曲は6曲。或る程度以上の年齢のオヤジには涙モノであるが、若い世代には意味不明であろう。
1:テネシー・ワルツ
2:かわいいベイビー
3:ヴァケイション
4:ダニー・ボーイ
5:日曜はだめよ
6:夢のデート



追加で・・・他所様の処からコニーの動画をお借りして来た。私の古〜いMONO盤もなかなかやるワイ、と思っている処である。



しかし・・・どこから見てもイイ女だなぁ・・・
と言っても、コニーは私のガキの時分にはもう、歴とした大御所であった。カアさん程も年長なんである。

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