ここから本文です
音盤再生家の音楽話
音盤再生と音楽についての話

書庫チャイコフスキー

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

Shuさんの予言が見事的中し、4日程寝込んで仕舞った。春インフルと云う奴らしい。
悲愴交響曲の終楽章を聴きつつ逝くのも満更でも無いなと思ったのだが、カラヤンの演奏を聴いて居ると元気が出て来るから、そう簡単な事では無い。
エナジーが充填されるのである。



当ブログでは何度も言って居る事だが、悲愴交響曲の実態は悲愴では無い。
現状世界に対する反逆であり、革命の狼煙である。
であるから、反逆の祖、モーツァルトのSym.39〜41&魔笛、であるとか、ベートーヴェンのエロイカ&第9と同様の位置付けである。
何れも作曲者が命尽きると云う共通点があるのだが、フランス革命、ナポレオン革命、ロシア革命と連動して居る事を肝に銘ずる必要がある。
1892〜3年にはチャイコ先生はドヴォルジャークともブラームスとも会って居る。かなり危険な任務を引き受けたと推察し得る条件は揃って居る。

作曲者自身が、この曲には謎であるべきプログラムがある、と明言し、リムスキー・コルサコフに対して、今は言えぬ、と言って居る。詰まり、聴手に謎を掛けて居るのである。
私はブログを通してこの謎掛けのヒントを出して来た訳であるが、直感的にこの謎の「解」に極々迫った御仁が、今回の記事の為に音盤を御送り戴いたShuさんである。
以前の記事のコメント欄に「第4楽章の最後のコントラバスのピチカートがちょうど5回、この世の全てが消え入るように鳴らされていることに気付きました。もしかしてこれも隠しテーマの一部なのでしょうか???」
と、さり気無きコメントを書かれて居たのだが、将にそこなのである。
私は、鍵は2楽章に有り、と書いた。5拍子のワルツ。この5に込められた意味を感じて欲しいと。
それに敏感に反応して戴いた事は嬉しい限りである。
終楽章。チェリビダッケは弦にティンパニを重ね、壮絶感を表現して居たが、チャイコ先生の言いたかったのはもっと後ろ。最後のコントラバスの5発にある。一般的にはこの5発は心臓の鼓動、と解されて居るが、流石にそこまで解り易くは無い。それでは謎にならぬ。
最後に5発の止めを刺したと解すべきである。
ヨーロッパ文明は決して明朗快活なものでは無い。


さて、本題のカラヤンの悲愴71年盤であるが、順に確認して行く。
私は元々米Angel(CAPITOL72年盤)を聴いて居たのだが、Shuさんに送って戴いた中に米Angel(MFSL79年盤)が入って居た。これが中々に凝った作りで、オリジナル・ステレオ・マスター使用で、ortofonカッティングで、プレスは日本ビクターとある。所謂LP後期の高音質盤と云う奴である。
先頃、超音盤マニアのM氏から電話があり、このMFSL盤を検討して居る、と云う話であったが、私は御薦め致しかねる。
CAPITOL盤と比ぶるに、如何せん音域が狭くスッキリしない。CAPITOLは米Angelの本家本元である。どうせ狙うならCAPITOL盤、或いは英EMIオリジ盤であろうと思う。ただの人では無い。超マニアのM氏であるから妥協してはいかんと思う次第である。




基本に戻って、英EMIステレオ初盤を聴く。
矢張りこの盤は良く出来て居る。帯域が広く、ストレス無く高域が抜け、低域が沈み込む。ホール感は充分に感ずる事が出来るが、それが決して強調され過ぎず、適度に細部が浮かび上がる。将に絶妙なバランスである。



英EMIボックス盤。これは3枚組で4、5番も入って居る。
しっとりとして滑らかで、非常に聴き易い音質である。上記オリジ盤と大きな違いは無い。一般マニアレベルであればこれで充分であろう。
しかし、今検証して居るのは極めて贅沢な聴き方で、究極のマニア向けであるから厳密に判定するが、若干音域が狭く、少し引き気味の音である。従ってディティルの再現性は単発のオリジ盤の方が優れて居る。
反面、ちょいと引き気味の描き方は、ホールでの実演を好まれる向きにはお薦めである。
何れにしても悪い音盤では無い。




独エレクトローラのボックス盤(ステレオ盤)。これはゴールドレーベルなので殆ど初盤と言っても良い。
これはこれ迄のどのステレオ盤よりも圧倒的に広帯域である。音数が多く楽器の音が正確である。gustav師匠ならばドイチェ・グラモフォンのような音、と評されるに違い無い。と云う事は私の好みの鳴り方をするのであるが、敢えて客観的に評するならば、英EMIオリジ盤の方が奥行方向の描き方が巧妙であると言える。
詰まり、この盤はかなり近接感があり、生々しい。しかし恐らくギューリッヒの再生効果イメージは、寧ろ英盤の方では無いかと考えられる。販売戦略的にドイツ人好みに仕上げたのかも知れぬ。要するに好みの問題であるが、ちーとダルな鳴り方の(例えばタンノイ等)再生システムの場合はこの盤の方が良いと思う。




ここからはクワドロ・フォニック盤となる。
クワドロ・フォニックは、要するに4チャンネルステレオであるが、EMIはSQ方式なので通常の2チャンネル用ピックアップで再生可能である。が、そこは単純な売り手の売り文句であって、当然再生帯域が50KHz以上のカートリッジでなければ、単にモヤっとしたステレオと云う感じにしか聴こえない。



独エレクトローラのクワドロ・フォニック、赤ニッパー盤。恐らくセカンドプレスと思われる。
これも又、大変素晴らしい音質である。上記のエレクトローラのボックス盤が、より情報量が増えた感じで、細部はより克明に、空間に放出される音場感も広々と豊かである。カラヤンを聴く楽しみここに有り、と云う感じだが、言い換えればオーディオ・マニア向けとも言える。
低域も、単に一括りでは無く、中低域、低域、超低域と云うように何層ものセパレーションが確認出来る。大型システムを使用して居る方には堪らない音盤である。オーディオ・チェック用のレファレンス盤としても充分通用する。




英EMIのクワドロ・フォニック盤(オリジナル)である。
素晴らしい音だ。恐らく100人に聴かせたら100人がエクセレント!と言うに違い無い。
上記のエレクトローラ盤よりはシットリ感が出て物の見事に聴き易い。英盤オリジ盤に、無理無く情報量を増やし、その結果360°方向に音場が広がり、臨場感が増して居る。抜群の立体感なのである。
エレクトローラ盤よりはセパレーションはボケて来るが、臨場感は増す、と云う事である。この匙加減が見事なのだ。
こう云うものを聴くと、デジタル録音とは一体何だったのかと考えて仕舞う。
この録音、恐らくCDには入り切らぬ程の情報量である。頭を抑えられたデジタル音盤なんぞは足元にも及ばぬ高音質だ。DVD音質にも引けを取らないであろう。




最後に持って来たのは、独エレクトローラのクワドロ盤オリジナル(ゴールド盤)である。
最後に持って来たには訳が有る。これは上記全ての音盤よりも、全ての面に於いて優れて居るのである。ここ迄音場感豊かであり乍ら細部の動き迄が克明に聴き取れる。コントラバスのパッセージが、単に勢いに任せたもので無く、如何に細かな表現に拘って居るかが聴き取れるのである。
ここ迄来ると、流石の私も「71年盤も捨てたもんじゃ無いわい」と思わずには居られぬ。エネルギーが半端では無い。物凄い迫力である。




と、ここ迄書いて、それでも私はカラヤンの悲愴はDGの76年盤を好む。
エレクトローラのクワドロ盤は、只事ならぬ迫力で、思わず聴き入って仕舞うのだが、矢張り何か物足り無いのである。それは、チャイコ先生の意味深の謎掛けであり、背腹を穿つ如き、本来のパセティークの意味する処である。
カラヤン先生、そこをどうしても表現したくて5年後に、肝胆相照らすヘルマンス録音で残したのである。
改めて聴き返すと、カラヤン先生のエネルギーと執念がビシビシと伝わって来る。これでなくてはいかん。

物凄い悲愴を聴くのであれば71年盤。カラヤンの悲愴を聴くのであれば76年盤。と云う結論に達した。

悲愴交響曲とは何か

当地も漸く涼しい秋になり、快適に過ごせる時期となって来た。もう一月もすれば今度は寒さがやって来る。
妙な事に、今年は栗鼠を多く見掛ける。我が家の周りは樹木が多く、窓の外を栗鼠が走っている情景を見る事が多い。栗鼠と言っても、ここいらの奴は猫程の大きさがある。耳も長くナキウサギよりは余程ウサギ風である。このデカイ栗鼠が、すぐ間近を大きな尾を靡かせて走って居る姿は壮観である。
イメージ 1
このトトロみたいな奴がエゾリスで、北海道特有の生き物だ。
イメージ 2
走って居る様は、一見栗鼠には見えぬが、止まると確かに栗鼠だ。

因みに、隣のロシアのリスはどうかと、検索してみたが、矢張り似ている。キタリスと云うらしい。
イメージ 3
ただ、不思議な事に末端の毛色が、ロシア人の如くブロンド?(或いは赤毛)である。我が庭の奴はちゃんと黒毛であるから、良くしたものである。キタリスが樺太から来てエゾリスとなったとは思うが、毛色が変わったのは大いなる謎だ。

チャイコの悲愴交響曲にも謎が多い。何故悲愴なのか、とか、誰が名付けたのか、とか、チャイコの死因は何か、等々、兎に角謎が多い。
色々な演奏の色々な解釈を聴きながら、謎解きをするのも中々オツなもんである。


チャイコはロシア人なので、当然、日本語でHisoなんぞと言う訳も無く、普通にロシア語で発想して居たと考えられる。と、書くと、スコアに書かれて居るタイトルはフランス語ではないか、なんぞと突っ込む御仁が居ないとは限らぬ。しかも、初演前のスコアのタイトルにSimphonie Pathetiqueとフランス語で書かれていたと云うから驚いて良い。何しろ、未だにこのタイトルは、初演後に弟モデストがпатетическая(パテティチェスカヤ)ではどうか、と提案した、と信じて居る者は多いと思う。これが、初演前にスコアに書かれて居たとなると、この逸話は全くの与太話と云う事になる訳だ。
Simphonie Pathetiqueとなると、思い出して戴きたいのはSymphonie fantastiqueである。そう、幻想交響曲を思い浮かべて戴きたい。是非に。
チャイコはパクったのである。ベルリオーズの幻想交響曲になぞらえて悲愴交響曲は出来て居る。これは押えて置いて欲しい事項である。
1楽章で俯瞰的なテーマを提示し、2楽章での舞踏会、3楽章の行進曲、4楽章での結論。見事に一致する。幻想交響曲の野の風景のみが入っていないが、この不安一杯の野の風景は2楽章中間部にちゃんと組み込まれて居る。チャイコさん、相当に幻想交響曲にインスパイアされて居る。
で、あるから、当然スコアにはフランス語でSimphonie Pathetiqueと書き込んだ。
そもそも、チャイコは5番で、モットーと呼ばれる動機を用い、幻想交響曲に倣った前科がある。
当然それをより昇華した形に仕上げたと考えるには充分なのである

それに、チャイコ一族は過去にフランスから移住した事もあり、非常にフランスに対する憧憬、郷愁があったと思われる。それでフランス旅行後に猛烈な勢いで悲愴交響曲を書き上げたのである。

フランス語のPathetiqueには、崇高な、感傷的な、等と云う意味があり、ギリシア語となるとパッシヴな、と云うような意味にもなる。
そしてロシア語のпатетическая(パテティチェスカヤ)となると、熱狂的・感情的・爆発的と云う意味合いである。と、以上の事から総合的に考えると、耐え忍び忍従して居るが内面には崇高で爆発的なエネルギーを溜め込んだ、革命前のロシアの状況と見事に重なり合う。
死を前にした絶望、なんぞと云う事は断じて無いのである。そして、その爆発的感情を、フランス流に格好良くコーティングしたのはチャイコのセンスなのだ。
それが、海峡一つ渡って日本に来ると、イメージはエゾリスの如く変貌して仕舞う。悲しくやるせないドン底の曲なんぞと思われて仕舞う訳だ。これでは渾身の力作を残したチャイコ先生は浮かばれない。
この秘めたエネルギーを象徴するのが第4楽章の冒頭のメロディだ。このメロディは、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンで一音づつ交互に奏される。大変に手の込んだ作りなのである。
ここで思い出して戴きたいのは、当時のオーケストラ配置である。御忘れの方は私の過去記事を参照願いたい。
そうすると、この旋律は当然、一音づつ右⇒左⇒右⇒左と聞こえるようになる。これを実際に音盤で聴くとなると、クレ爺の演奏しか無い。
イメージ 4
こうなると皆の衆。死の前の絶望だの諦念だのとほざいて居る場合では無いのが判るであろう。絶対にレガートにはならない究極の技法だ。これぞ戦慄の旋律。なんぞとダジャレて居る場合では無い。恐ろしいばかりの情念を表現しているのを是非肝に銘じて欲しいのである。
これが、玄人である指揮者連中が気が付かない道理がなかろうと思う。それでこの曲を如何に解釈するかと云う事が、指揮者の腕前、洞察力であり、これを聴き分けるのが、この曲の楽しみ方である。

で、幻想交響曲を下敷きにしたのは、あくまで形式的なものであって、この曲の内面には大いなる秘密がある。それは、即ちチャイコ他殺説を裏付けるものである。
チャイコ自身はそれを詳らかにする事は無かった。この曲には隠しテーマがある、と云うのはチャイコ自身の言葉である。
では、その隠しテーマをこの場で解いてみようではないか。

秘密は4楽章に有りそうな気がする。と、云うのは引っ掛けだ。如何にもカラクリって居る4楽章は誰もが注目する。それでは秘密の隠し場所にはならない。そして、最もそれらしく無いと云うと、それは2楽章だ。
そうと疑わずともこの楽章は妙である。ワルツが5拍子なのだ。一つ足りないか、或いは二つ多い。これを見逃す手は無い。5とは何を意味するのか。
こうなるとまたぞろ聖書的知識が必要だ。

この辺りになると、もうかなり辟易として居る方が目に浮かぶ。そう、そこの貴方。かおりさん。
良っく読んで腑に落としてくだされ。
磔刑になったキリストは槍で5箇所を突かれて亡くなったのである。キリスト教的には5は非常に有り難くない数字だ。と、なると、この一見優雅な宮廷の舞踊を想わせる音楽は、キリスト教に対する挑戦、或いは挑発行為とも取れる。
つまり、表面的には帝政ロシアに対する哀悼の曲、或いは革命を煽る曲、と云う衣を着せながら、実はもっと恐ろしい事に、キリスト教支配に対する呪い、挑発的楽曲と云うのが隠しテーマとなって居る訳だ。
これはもうモーツァルトの魔笛と同様で、暗殺されても仕方が無い内容なのである。
ブラームスは4番で、巧妙にジュピター音型を隠し、フリギア技法等を用いて表現し、それ以後シンフォニーを書かなくなった。チャイコはこれに挑戦した。ロマン派の正当な後継としての自覚がこの曲を書かせたのである。
そして…結果は…モーツァルトと同じ運命を辿ったのである。
チャイコ先生。こんなもんで如何でしょうか。


アバド/VPO 73年録音 DG盤LP
これが出た当時大変評判になったアバドの悲愴である。ところが私は未だにこの演奏はピンと来ない。録音が良いのは判る。何せヘルマンスの録音であるから、悪かろう筈も無い。演奏自体も若々しく溌剌としたキレの良い演奏だ。しかし、この人、VPOの使い方が良く解って無いんじゃなかろうかと思う。この手の演奏であれば、当時盛んに録音していたLSOで充分だ。否、LSOの方がもっと説得力があったと思うのである。これはDGのキャスティング・ミスだ。何せあのブラ4がLSOで、悲愴がVPOである。これは全くあべこべと云うものだ。何か釈然としない内にこのさわやか系悲愴は終わって仕舞う。意味解ってるんかいな…




オーマンディ/フィラデルフィア管 68年録音 RCA盤LP
この盤は私が若き頃に夢中になって聴いて居た音盤である。何せフィラデルフィアの音響は美麗で
ある。しかも、イザと云う時の爆発力も大変魅力的だ。そしてRCAの美しい録音である。普通の若者が惹き付けられて当然の内容だ。ところが世の分別臭い大人達はこれを良しとしなかった。友達も何故カラヤンやバーンスタインでないのかと不思議がって居た。
何故この演奏の素晴らしさが解らんのか、私には理解出来ぬ。これ程完成度の高い演奏は、そうざ
らにあるもんじゃ無い。これは一級の音楽職人の業である。非常に緻密な音楽運びで、聴かせ方が実に上手い。今一度注目されて良い名演であると思う。こう云う壮麗なサウンドは滅多に聴けない。4楽章の美しくも迫力満点の演奏。それで居て奇を衒わぬ堂々たる正攻法だ。何時も言う、本気のフィラデルフィアを聴き取って欲しい。66年のカラヤン盤を凌駕する壮麗、華麗、重厚さは唖然とするばかりである。




バルビローリ/ハレ管 58年録音 PYE盤LP
何でバルビよ、と言われるかも知れぬが、バルビなんである。熱血漢バルビは矢張りこの異常に含蓄の深い曲に反応して居る。純真無垢にこの曲と対峙して居る。そう云う点では朝比奈さんの心境に近いとも言える。58年の録音ながら、このパイ・レコードの音質は中々のものである。CDも入手したが、矢張り昔のパイの音には程遠く、この良い音質を味わって戴きたいと思う。
オケの実力は決して高くないと思われるが、全力でこの難曲に挑み、音楽に共感している姿勢は、聴いて居て心が熱くなる。私が言うところのエモーショナルな演奏と云うのはこう云う演奏の事なんである。




カラヤン/BPO 71年録音 米Angel盤LP
これがgustav師匠が最も好むと仰って居る演奏である。この音盤には私は散々悩まされた。何せ国内盤は音が悪い。CDも全然良ろしく無い。EMIのオリジ盤なんて滅多に出て来ない。遂に米国Angel盤を手に入れ、漸く落ち着いたのである。東芝はこれだから疲れる。
音質は、聴いて戴ければ判ると思うが、国内盤とは全く別物である。兎に角、EMIは低音が凄い。これはクリュイタンスの時からそうなんであるが、BPOの強烈なる低音を、モロに音盤に切り込んで居るのだ。こんな事をするから東芝では全く追従出来ないのである。ブルー・ノート盤では見事な音盤を提供してくれた東芝が、何故フルヴェンやカラヤンとなると全く調子を外すのか、謎が多い。
これまたカラヤン節を堪能出来る素晴らしき演奏なんであるが、私はどうしてもヘルマンス録音のバランスが好みである。従って、ベストは76年盤となって仕舞う。師匠、申し訳ない。
音響的にはオーマンディ盤を意識したかの如く、壮麗、重厚なもので、全身を爆音が包み込むような3楽章、恐るべき深さの4楽章は聴き応え充分である。




カラヤン/BPO 66年録音 DG盤LP
この音盤も懐かしき想い出がある。カラヤンかムラヴィンかと云う熱い論議を友人と交わした想い出である。当時から私はムラヴィンを推して居たので、カラヤン推しの友人と議論に及んだのであるが、1年程経ってその友人から連絡が有り、散々聴き比べた結果、ムラヴィンの方が良いと云う結論に達した、と言うのである。これは大変な迷惑を掛けたと、反省した。と、云うのも、私は私で、その時間の経過の中で、カラヤン盤も決して劣るものでは無いと思って居たからである。キリリとした出だしの4楽章はフェドセーエフのアンダンテよりも速い。徐々にリタルダンドして深さを増して行く様は実に効果的だ。
T君。カラヤンも間違い無く素晴らしい演奏だよ。
収録した音盤は66年当時のペラジャケ盤である。




マタチッチ/チェコ・フィル 68年録音 SUPRAPHON盤CD
ブル7で際立って素晴らしき演奏をするマタチッチであるから、当然悲愴も素晴らしいのである。
この人はこのような隠しテーマには実に的確に反応して居る。含蓄が深いと云うのはこのような演奏の事だ。このオケにとって余り馴染みの無い曲なのか、出だしはかなりぎこち無い所もあるのだが、次第に乗って来る。そして、Pを幾つ並べようと、ティンパニがしっかりと聴こえて来るのは流石である。1楽章の終結部や2楽章の中間部のティンパニは生きて居る。小さいのと弱いのとでは全く意味が違う。小さくとも弱くなってはいけないのがこの曲のティンパニだ。更に4楽章のタムタムの上手さ。兎に角、間の取り方が絶妙で、打楽器が生きて居るのがマタチ爺の凄さである。静かに盛り上げられる稀有な才覚の持ち主であると思う。




ドラティ/ロンドン響 60年録音 mercury盤CD
マーキュリーのリビング・プレゼンス録音はデジタル時代の現代でも立派に通用するクォリティである。大変立派な録音であり、演奏であるが、同じハンガリー系であれば、オーマンディと云う途轍も無く完成度の高い演奏があるので中々日の目を見ない。音楽の運び自体は、達者なもので、聴かせ上手と言えるが、LSOが明る目音色である分、深みが減じて居るのが残念である。
4楽章はフェドのアンダンテよりも速く、核心を突いた演奏なんであるが、どうしてもオケが物足りない。バルビの親父のような、エモーションや共感性が足りない。その点はショルティ寄りである。




ホーレンシュタイン/ロンドン響 67年録音 ROYAL CLASSICS盤CD
ドラティと同じLSOでありながら、怪物ホーレンが指揮をすると見違えるように潤い、深みのある音楽になる。ブルックナーやマーラーを得意とするホーレンであるから、悲愴は当然素晴らしい。
比較的大人しく、郷愁を込めて謳われる1楽章であるが、充分に重い。音楽センス抜群のホーレンであるから、2楽章は美しくも深い。ポリフォニーに軸足を置いた3楽章も重々しく良い出来なんであるが、こうなるとオーマンディやバルビの方が燃焼度は高い。オケが物足りないのだ。4楽章は静かに青白く燃える。タムタムの扱いも上手いもんだと感心する。全体として良き演奏だとは思うが、カラヤンやオーマンディを超えるとは言い難い。




朝比奈/大阪フィル 82年演奏会録音 FIREBIRD盤CD
ブルックナーばかりが言われる朝比奈さんであるが、実はチャイコは十八番なんである。オケの実力を云々すると、どうしても最上なんぞとは言えないのであるが、音楽に対する共感性、ひたむきさは聴手を引き込む力がある。同じエモーショナル系の演奏のバルビ盤よりは、作りの大きさ、雄大さでは凌駕して居る。これで一流オケであったら…と思うのは何時もの事である。




サンティ/NHK響 04年演奏会録音 MEISTER MUSIC盤CD
大フィルの後だとN響も上手く聴こえる。カラヤンの54年盤と比べると、N饗は随分と進化したものだと感心する。ここまで引っ張るサンティの腕は中々のものと言えよう。録音の良さで評判になった音盤であるが、実はサンティはこの曲の真相を理解して居る。常に影が付き纏い、弾けない2楽章の舞踏会、甘い歌で誘い、壮絶なクライマックスに引っ張る4楽章。このオヤジ解かっとるなと思う。




西本/ロシア・ボリショイ響 02年録音 キング盤CD
日本橋のオーディオ・ショウで大阪に行った折、Jyoshinを覗くと西本コーナーが有り、流石は本場
だわい、と感心し、この音盤を購入し、ついでにタイガースのマーク入の紙袋をしこたま貰って来た、思い出の音盤だ。私は猫好きで虎好きなので仕方が無い。
購入動機は充分に不純なのであるが、聴いてみると、この演奏は悪くは無い。この人は単なるビジ
ュアル系ではないと思う。何だ、ミーハーだなと言われるやも知れぬが、そうである。私は何時でも女性の味方であるから、西本は良いぞと常に言うのである。大御所爺には悪いが、オケの音響も含めて、音楽の出来栄えとすると、この演奏はサンティよりはマシに聴こえる。湿り気のある2楽章。中間部の不安感も良い出来だ。3楽章の弾け感も好感が持てる。ハチャトゥリアンのガイーヌを聴いても判るが、西本は打楽器の使い方が上手い。4楽章は些か優し過ぎるが、後半の盛り上げはまずまずで、全体としては良き出来栄えである。




クレンペラー/フィルハーモニア管 63年録音 独EMI盤CD
例によって、燃えないクールなポリフォニーなんであるが、説得力たるや只事では無い。怪しく美しいのは当然で、フリーメーソンのクレンペラーであるから、この曲の真相は理解して居るのだ。
2楽章は恐怖感すら覚える。ひたすら細部に拘り全く弾けない3楽章。異形である。
そして、何と言っても聴き所は4楽章である。出だしのメロディが一音づつ左右に移動する。これがチャイコが本来表現したかった演奏効果である。沈潜し盛り上がらない異形の音楽は終始不気味である。クレンペラーでしか成し得ない恐怖の悲愴交響曲は、聴く価値充分である。
先頃の記事で、中古音盤を格安で入手した件を書いた。早速gsutav師匠から、盤の洗浄云々と云うコメントを戴いたのだが、実は、昨年の転居騒動以来、洗浄機の梱包を解いて居なかった。同時に入手したウェストミンスター盤モントゥの第9やGR盤カザルスのバッハも結構な汚れ塩梅なので、梱包を解いて始動する事にした。
私の使って居るのは、VPIの洗浄機で、同じ物をオーディオ評論家の三浦氏も使って居る。
イメージ 1
私はなるべく音盤の洗浄はしないようにして居る。音盤は何もしないのが一番と考えて居るからだ。しかし、登場以来半世紀も経つと、どうしても溝の中に塵やゴミが付着し、不快なノイズを発する。私も独自に様々な方法を考え出したのだが、最終的に洗浄機が最も効果的であると云う結論に達した。それは、VPIを使用して居る、とある中古音盤屋の音盤を購入して、その効果の程を確認して居たからである。
その音盤屋さんが、2台所有して居て、有り難い事に古い方を安く譲って戴いた。爾来大変重宝に使わせて戴いて居る。
VPI洗浄機の良い所は、溝から掻き出した汚れを、洗浄液と共にバキュームで吸い取って仕舞う所である。超音波洗浄と云う物もあるが、溝に入った液体をそのまま乾燥させるのでは駄目だ。液体はとっとと排除しなければならない。従ってバキューム装置付きの物が良い。塵と液体の両方が吸い出される。

作業をしながら、矢張り欲望がムラムラと湧き出て来る。この所盛んにアップして居る悲愴交響曲も、永年の出し入れ、再生で、表面上には見えぬ塵が入り込んで、本来の音質では無い物が有り、これをどうにかしたいと云う欲求が抑えられない。
そこで、前記事でアップを見送ったコンドラシン盤と、最も古くから愛好して居るムラヴィンスキー盤を綺麗にして、記事を改訂する事とした。
ムラヴィン盤は、過去記事の音質と比較して戴けると、洗浄効果が如何なるものかを確認出来ると思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/quontz/54989756.html
マゼールやホーレンシュタインはどうした、と云う突っ込みもあろうが、取り敢えずはロシアの指揮者とロシアのオケと云う括りで纏めてみた。




スヴェトラノフ/ソヴィエト国立響 67年録音 shinsekai盤LP
30代のスヴェトラの指揮である。クソ真面目で楷書風な演奏だが、金管の鳴らし振りは爽快とも言える。だが最大の聴き処である4楽章の掘り下げは甘い。きっちりと穏やかで、断末魔のような壮絶感と云う所までは至らない。曲が難曲だけに1番の演奏の時のように、形振り構わず鳴らし捲ると云う開き直りが無い。構え過ぎ、考え過ぎて音楽を小さくして仕舞ったようだ。最後の終結部での金管の鳴らしはちょっと面白い所がある。こう云うアクセントをもっとふんだんに散り嵌めれば良かったと思う。




ロジェストヴェンスキー/モスクワ放送響 73年録音 shinsekai盤LP
ロジェヴェンは聴かせ方が上手い。ポリフォニックな鳴らし方が新鮮な感覚だ。大らかに金管を鳴らしては居るが、煩さは無く、心地良い響きだ。聴き所は2楽章で、中間部の重苦しいティンパニをここまで強調して居る演奏は珍しい。対比が効いて結構な演奏である。
 1楽章、3楽章は無難な出来で、取り立てて褒める所も貶す所も無い。しかし、4楽章は如何にも穏当な表現で生ぬるい。聴き易いのであるが、この音楽はもっともっと壮絶な内容だ。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 81年録音 Victor盤LP
スヴェトラもロジェヴェンもフェドも、ほぼ同年代の指揮者だが、中ではフェドが音楽的に一番面白い。テクニカルな面よりは、エモーショナルな聴かせ方をする人だ。オケに多少の粗があろうが、演奏の熱でついつい聴き入って仕舞う所のある人だ。
この演奏は、ロジェヴェンよりも尚一層ポリフォニックな表現が生きて居て面白い。1楽章の荒々しいダイナミックも赤裸々で好感が持てるものだ。2楽章は出だしから何処か寂し気なのが気に掛かる。中間部も取り立てて重苦しさを強調する事無く、さらりとかわして居る。3楽章は良いテンポで、カラヤンを想わせる気持ちの良い躍動感だ。
 4楽章は沈鬱になり過ぎた。フェドであればもっと壮絶で無茶苦茶な暴れ方を期待して仕舞うのであるが、ここは少しばかり考え過ぎた。意外と常識的な範囲に収まって仕舞った。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 91年録音 Victor盤CD
この盤は、自筆譜による世界初録音と云う謳い文句で出されたものだ。ブルックナー的に言えば原典版と云うやつだ。
 要するに、現在通用して居る楽譜は、例の追悼演奏会で演奏する為に手が加えられたものである。
従って必要以上に悲劇的であり、嘆き、絶望と云う印象を植え付ける効果がある道理である。フェドはそこに注目した。チャイコの悲愴は、悲劇では無く、パセティックなのだと云う解釈だ。これは私も諸手を挙げて大賛成だ。しかし、ムラヴィン爺は、こんな事を殊更に説明しなくとも、音楽でこれを表現して居たではないか。そしてカラヤンはもっと踏み込んで、壮絶無比なる音楽に仕立てたではないか。
フェドはどうか… 中々にムラヴィン寄りの好演だと言える。1楽章は妙な粘りは無く、キビキビとして好ましい。2楽章は旧盤とは違いクッキリと明るい。中間部のティンパニもそこそこ鳴って居て良し。3楽章は残念だ。旧盤の方が余程出来は良い。
 4楽章は良いと思う。音楽自体が良く出来て居るので、妙な演出は要らんのだ。このように率直で情熱的な演奏が本当であると思う。
イメージ 2




イワノフ/ソヴィエト国立響 録音年不詳 shinsekai盤LP
 若い衆はコンスタンチン・イワノフは知るまい。この名を知って居るとすれば、相当なベテランか、或いは変人的なマニアだと思う。私はムラヴィンの次にイワノフを聴いて居たので、全く違和感は無い。ベートーヴェンに似て居ると言われた程のゴツイ面相であるが、演奏も又ベートーヴェン的でゴツイ。この盤を後半に持って来たと云うのは、矢張り私はこの演奏を最も好んで居るからである。流石に音質は今となっては古いと感ずるが、演奏は完全に私好みである。
 何せ古株なだけに堂々として演奏に気負いが無い。この余裕が懐の深さとなって音の古さを超えて今も心に響くのである。殊に4楽章の深い音楽。終結部の情念がここまで切々と心に染み入る演奏も珍しい。カラヤン程の迫力は無いにしても、深さでは引けを取らないであろう。




コンドラシン/モスクワ・フィル 65年録音 Victor盤LP
前回は余りのノイズにアップを見送ったが、この盤も洗浄でかなり聴けるようになった。
コンドラシンは私は好きなタイプの指揮者である。余りマイナスイメージの無い人なのだ。ムラヴィンやイワノフの次の世代のホープがコンドラシンと云う立ち位置だ。
例えば、ムラヴィンの弟子でザンデルリンクと云う人が居るが、この人は私にとっては鬼門で、何を聴いてもシックリと来ない。それに比してコンドラシンは、何を聴いても何かしらの感動や感心が残るのだ。
この悲愴も、ムラヴィン風であるが、ムラヴィンよりも遥かに血の通った演奏なのである。音楽センスが良い。全体の構成が見事で、部分部分は充分にエモーショナルでありながら、音楽の流れは実に良く計算されている。音質は余り良くないが、充分に好感の持てる演奏である。




ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル 60年録音 DG盤LP
剛直でストレートな表現で、完璧なアンサンブルが魅力だ。DGの録音が又素晴らしいもので、この当時良くここまでの録音が出来たものと感心する。ところで、たまにgustav師がこぼしているのがこの演奏の10吋盤の存在である。これは兎に角一言で言えば、バカヤロー!と云う程の劣悪なる音質の、最低な音盤である。書いて居る内に思い出したが、私が最初に聴いたのは、この10吋盤だったような気がする。それで、マルティノン盤が神懸りな名演に聴こえた訳である。
しかし、12吋LPで聴くムラヴィンスキーは凄まじく、怪物的な名演である。私的にはもっとエモーショナルな表現を好むが、ザッハリッヒ系の演奏は嫌いではない。愛聴盤の一枚である。
今回、洗浄後に改めて聴くと、見通しが良くなり、昔の感動が蘇って来るようだ。多くの演奏を聴いた後で、矢張りこの演奏の凄さを再認識した次第である。

ロシアの悲愴交響曲

暑い暑いと言って居る内に、最早秋の気配が漂って来た。後10日もすれば当地は秋である。
当地の緯度は北緯43°位であるから、ウラジオストクとほぼ同じである。海の向こうはウラジオ
なのだ。すぐ隣はロシアだ。秋も冬も早い。
因みにウラジオストクはウラジヴォストークで、「ヴォストーク」は「東」を意味し、「ヴラジ-」
は「領有・支配する」、である。極東を制圧すると云う面白からぬ名称だ。
近い所為か、昔からロシア人は良く見掛ける。当地の出身者で有名どころでは巨人軍に居たスタル
ヒンと云う投手が居る。彼もロシア人だ。
息子が小学生の時分、同級生にロシア人の女の子が居た。黒髪の可愛い娘だったが、私はこの娘よ
りは母親の方が気になって仕様が無い。ブロンドでスタイル抜群のロシア美人だ。であるから、私は出来得る限り学校行事には参加する事にして居た。目の保養になるし、傍に居るとドキドキする
。その感覚が味わいたくて、行事には殆ど顔を出した訳である。
或る時の運動会で、私はその人を目で探して居た。すると、傍らの家人が、「あそこだよ」と教え
てくれた。「あの人好きなんでしょ」と、すっかり御見通しなのであった。

であるから、ロシア人に対しては余り違和感が無い。ムラヴィンスキーが好きなのは、全く別の理由だが、ガキの時分から新世界レコードには大変世話になって居る。
悲愴交響曲が好きなのは、別にロシアと云う括りだからと云う訳では無く、短調好きな私の嗜好と
、ドキドキするような壮絶な4楽章の魅力である。
蕩けるような甘美なメロディと驚異的なダイナミックを融合した1楽章も感嘆するし、愉し気なる
音楽の中に、暗い脅迫のようなモチーフが割って入る2楽章も聴き応えがある。思わず身体が動き出すような躍動感の3楽章も馴染み易い。しかし、チャイコの真の狙いは4楽章だ。
どこか和風な音律の穏やかな音楽から、断末魔の叫びを上げ、静かに消え行く…これは帝政ロシア
の最後を暗示する壮絶な音楽なのだ。

1893年、チャイコはフランスから帰ると、急ピッチでこの曲を作曲した。当然、フランスでの刺激が動機となって居るのは明白だ。ベートーヴェンが煽り、民衆が成し遂げた革命を肌で感じ、自身もベートーヴェンと同じように、世界を変えたかったに違いない。渾身の作が悲愴交響曲なのだ。しかし、彼にとって不幸だったのは、初演直後に急逝した事だ。
これにより、再演は追悼演奏会となり、悲しみの曲、嘆きの曲、絶望の曲、と解されがちであるが
、そうではない。どちらかと云うと「怒り」であるとか「去り行く栄華への惜別」と云う隠しテーマがあると思って居る。であるから、心臓の鼓動が徐々に止まるように静かに曲を終える。
1917年の革命の結果、「白系」ロシア人が極東に逃れて来た。そして、麗しきロシア人女性が
当地にも居る訳である。



スヴェトラノフ/ソヴィエト国立響 67年録音 shinsekai盤LP
30代のスヴェトラの指揮である。クソ真面目で楷書風な演奏だが、金管の鳴らし振りは爽快とも
言える。だが最大の聴き処である4楽章の掘り下げは甘い。きっちりと穏やかで、断末魔のような壮絶感と云う所までは至らない。曲が難曲だけに1番の演奏の時のように、形振り構わず鳴らし捲ると云う開き直りが無い。構え過ぎ、考え過ぎて音楽を小さくして仕舞ったようだ。最後の終結部での金管の鳴らしはちょっと面白い所がある。こう云うアクセントをもっとふんだんに散り嵌めれば良かったと思う。




ロジェストヴェンスキー/モスクワ放送響 73年録音 shinsekai盤LP
ロジェヴェンは聴かせ方が上手い。ポリフォニックな鳴らし方が新鮮な感覚だ。大らかに金管を鳴らしては居るが、煩さは無く、心地良い響きだ。聴き所は2楽章で、中間部の重苦しいティンパニをここまで強調して居る演奏は珍しい。対比が効いて結構な演奏である。
1楽章、3楽章は無難な出来で、取り立てて褒める所も貶す所も無い。しかし、4楽章は如何にも穏当な表現で生ぬるい。聴き易いのであるが、この音楽はもっともっと壮絶な内容だ。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 81年録音 Victor盤LP
スヴェトラもロジェヴェンもフェドも、ほぼ同年代の指揮者だが、中ではフェドが音楽的に一番面白い。テクニカルな面よりは、エモーショナルな聴かせ方をする人だ。オケに多少の粗があろうが、演奏の熱でついつい聴き入って仕舞う所のある人だ。
この演奏は、ロジェヴェンよりも尚一層ポリフォニックな表現が生きて居て面白い。1楽章の荒々しいダイナミックも赤裸々で好感が持てるものだ。2楽章は出だしから何処か寂し気なのが気に掛かる。中間部も取り立てて重苦しさを強調する事無く、さらりとかわして居る。3楽章は良いテンポで、カラヤンを想わせる気持ちの良い躍動感だ。
4楽章は沈鬱になり過ぎた。フェドであればもっと壮絶で無茶苦茶な暴れ方を期待して仕舞うのであるが、ここは少しばかり考え過ぎた。意外と常識的な範囲に収まって仕舞った。




フェドセーエフ/モスクワ放送響 91年録音 Victor盤CD
この盤は、自筆譜による世界初録音と云う謳い文句で出されたものだ。ブルックナー的に言えば原典版と云うやつだ。
要するに、現在通用して居る楽譜は、例の追悼演奏会で演奏する為に手が加えられたものである。
従って必要以上に悲劇的であり、嘆き、絶望と云う印象を植え付ける効果がある道理である。フェドはそこに注目した。チャイコの悲愴は、悲劇では無く、パセティックなのだと云う解釈だ。これは私も諸手を挙げて大賛成だ。しかし、ムラヴィン爺は、こんな事を殊更に説明しなくとも、音楽でこれを表現して居たではないか。そしてカラヤンはもっと踏み込んで、壮絶無比なる音楽に仕立てたではないか。
フェドはどうか… 中々にムラヴィン寄りの好演だと言える。1楽章は妙な粘りは無く、キビキビとして好ましい。2楽章は旧盤とは違いクッキリと明るい。中間部のティンパニもそこそこ鳴って居て良し。3楽章は残念だ。旧盤の方が余程出来は良い。
4楽章は良いと思う。音楽自体が良く出来て居るので、妙な演出は要らんのだ。このように率直で情熱的な演奏が本当であると思う。
イメージ 1




イワノフ/ソヴィエト国立響 録音年不詳 shinsekai盤LP
若い衆はコンスタンチン・イワノフは知るまい。この名を知って居るとすれば、相当なベテランか、或いは変人的なマニアだと思う。私はムラヴィンの次にイワノフを聴いて居たので、全く違和感は無い。ベートーヴェンに似て居ると言われた程のゴツイ面相であるが、演奏も又ベートーヴェン的でゴツイ。この盤を最後に持って来たと云うのは、矢張り私はこの演奏を最も好んで居るからである。流石に音質は今となっては古いと感ずるが、演奏は完全に私好みである。
何せ古株なだけに堂々として演奏に気負いが無い。この余裕が懐の深さとなって音の古さを超えて今も心に響くのである。殊に4楽章の深い音楽。終結部の情念がここまで切々と心に染み入る演奏も珍しい。カラヤン程の迫力は無いにしても、深さでは引けを取らないであろう。


大好きな悲愴交響曲

最近は全く体調がすぐれず、腰と首のヘルニアが交互に私を苦しめている塩梅だ。当然ブログの記事なんぞ書いたり、収録したり出来る道理も無く、暫く滞って居る現状である。
今日は気候も良く、何とか収録出来る程度の体調なので、永年の懸案である悲愴交響曲の企画を実行しようと試みた訳である。兎に角、出来る時にやっておかなければならぬ。

悲愴交響曲は私の大好きな曲である。であるからそれなりに多くの音盤を所有して居る。大好きのランクで言えば、ブラ4、パストラル・シンフォニーの次が悲愴交響曲である。
私が敢えて言うまでも無く、チャイコの最高傑作であり、音楽史上に燦然と輝く名曲と断言して良い。チャイコの曲の中でもこの曲だけが抜きん出ていて、他は数段格落ちと言っても良いと思う。
悲愴交響曲と云う言い方は、黒恭さん流で、私もブログ上では、黒恭さんに倣って悲愴交響曲と呼ぶ事にしようと思う。
黒恭さんの文の中で、悲愴交響曲は悲愴ではない。と云う表現があって、これは非常に名言であると思う。黒恭さんはクレバーなので、パトスに源を発するパセティックと云う言葉は、日本語の悲愴と云うよりはもっと深いのだと言いたかったのだと思う。
パセティックは、本来「情念」とでも云うべき単語なんであるが、悲愴交響曲は誰かが「悲愴」と日本語訳して仕舞って居て、これが誠に語呂が良いので、敢えて情念交響曲なんぞと云うダサい呼び名を後付けする余地が無い訳である。
従って、黒恭さんの真意は、悲愴交響曲と云う曲は、決して悲愴な内容では無く、怒りとか哀しみとか絶望なんぞと云う諸々の意味をも包含した内容なんだ、と言いたかったに相違ない。
であるから、私も黒恭さんに同意して、敢えて悲愴交響曲と云う古臭い呼び方をしようと考えたのである。

今回は、大好きな曲の大好きな演奏である。しかも私の場合大概が古い演奏で、最近の演奏には殆ど興味が無い。敢えて敵を作るような表現をすれば、最早悲愴交響曲の名演は出ないと思う。
カラヤンもマゼールも居ないのである。この曲は、敵を作る程強烈な個性を持ち、完全にオケをコントロール出来る親方でなければ無理である。それを演奏するオケも又、超一流でなくては今回紹介する名盤を越えるのは不可能である。
長時間座っている事が辛いので、長々と書けないのが残念であるが、簡単な内容で御容赦賜りたい。



マルティノン/VPO 58年録音 LONDON盤LP
最初に悲愴交響曲を聴いたのは誰の演奏だったか記憶に無いのであるが、このマルティノン盤は早い段階でお気に入りの音盤であった。LONDONのSLB盤であるから音は良い。SLBを後生大事に抱えている御仁は幸せ者である。事此処に及んで、新しいピックアップ、新しいイコライザーで再生すると、SLBの物凄さが実感出来よう。DGのカラヤン盤が¥1800で買える時代の¥2300で、ズッシリと重いフラット盤である。例によってカルショウ流の作り物であるが、これが却って効果的だ。
オケは最初の内はマルティノンに付いて行くのがやっとで、アンサンブルも乱れがちであるが、徐々に感覚を掴んで、遂には堂々たる名演と成って行く。古い演奏だが、この古さが今は貴重な味である。エモーショナルな名演だと思う。




ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル 60年録音 DG盤LP
剛直でストレートな表現で、完璧なアンサンブルが魅力だ。DGの録音が又素晴らしいもので、この当時良くここまでの録音が出来たものと感心する。ところで、たまにgustav師がこぼしているのがこの演奏の10吋盤の存在である。10吋とは言っても、ステレオのLP盤なんであるが、兎に角一言で言えば、バカヤロー!と云う程の劣悪なる音質の、最低な音盤である。書いて居る内に思い出したが、私が最初に聴いたのは、この10吋盤だったような気がする。それで、マルティノン盤が神懸りな名演に聴こえた訳である。
しかし、12吋LPで聴くムラヴィンスキーは凄まじく、怪物的な名演である。私的にはもっとエモーショナルな表現を好むが、ザッハリッヒ系の演奏は嫌いではない。愛聴盤の一枚である。




マゼール/クリーヴランド管 81年録音 CBS盤CD
マゼールにはDECCAのVPO盤もあるが、私はクリーヴランド盤が好みだ。この絶妙なドンシャリ感が堪らない。デジタル初期の録音だから敢えて狙ってやっているのだろうが、マゼールのチャイコだから悪かろう筈もない。しかし、この2楽章の哀愁は何であろう。終始一貫哀しみを湛えたクールな演奏だ。3楽章の大らかさは、スピーカー泣かせで、このCDを上手く鳴らせなくては悲愴交響曲を聴く甲斐が無いと云うものだ。4楽章もクールで深みのある表現だ。例えるならば、ムラヴィンとマルティノンを足して2で割ったような・・・とも言える。
私はオーディオショウのデモで必ずこのCDを鳴らすのであるが、聴者の中には「この演奏は誰のですか?」と訊かれる事が多く、残念乍ら一般には良く知られていない埋もれた名演の部類である。




カラヤン/BPO 76年録音 DG盤LP
この曲に関してはカラヤンの圧勝である。カラヤンが生涯を掛けて探求した曲であるから、当然であるが、ここまで見事に描き切れると云うのは矢張り唯事ではない。
今回はオリジ盤から収録したが、オリジ盤は重心が低くどちらかと云うとDECCA的な仕上がりになっている。とは言え、音場感はいつものヘルマンス録音だ。
2楽章のアレグロは、私にしてはチト遅過ぎで、歌い過ぎの嫌いがあるが、この手の音楽はカラヤンのお手の物であるから、終始心地良さが付き纏う。
圧巻は矢張り4楽章で、これ程の迫力は他の誰もが真似の出来ない壮絶な演奏だ。迫力と云うのは、音の大きさやダイナミックの事ではない。音楽の迫力と云う意味である。
であるから、黒恭さんは、悲愴ではない、とコメントした所以である。




全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

ブログバナー

quontz
quontz
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新のコメント最新のコメント

すべて表示

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索
友だち(2)
  • あなろぐふぁん
  • sho*ch*odd*o*okoo
友だち一覧

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事