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アンドレ・プレヴィンが逝って仕舞った。
ひたひたと寄せ来る寂しさが、この記事を書く動機である。
プレヴィンの指揮する演奏が大好きだと云う訳では無いし、このブログでも殆ど取り上げる事も無かった。
私がプレヴィンを聴け。と言う場合は、CONTEMPORARY盤のKING SIZE!の抜群に冴えたピアノのプレヴィンであって、指揮者のプレヴィンでは無い。
しかし、亡くなったと知ると、70年代半ばに聴いたベートーヴェンの第5交響曲のイメージが今も忘れ難く、郷愁とも言うべき懐かしさを禁じ得ない。
73年の録音であるから、プレヴィン44歳の年である。同年7月にクレンペラーが亡くなって居るが、ベームもカラヤンも元気にベートーヴェンを振って居た時分である。
ジャズの分野では、そこそこ名の知れたプレヴィンが態々第5を録音したと云うので、気になって購入したのであった。
そりゃ気になる。
当時の若手の代表格、アバドもメータも小澤もまだベートーヴェンの、それも第5と云う難敵の録音に挑んでは居なかった。唯一、天才マゼールだけはモノラルで録音して居たが、ステレオ録音には至って居ない。
ショルティ/シカゴ響の録音は74年であるから、ケンペとかクーべリックの第5が話題となって居た頃で、ベーム/ウィーン・フィルがこの上無く美しい音響で他を圧倒して居た。その当時の出来事である。
ビートルズみたいな髪型のプレヴィンが、どんな第5を聴かせてくれるのか気になるのが道理である。
因みに、近所の女子にこのプレヴィンの第5のジャケットを見せた所、「カッコイイ!」と云う反応であった。当時、四十過ぎのおじさんを「カッコイイ」と云う女子の反応は訝しく思ったが、そう云う私も、還暦を過ぎたカラヤンがカッコイイと言って居たので、もっと変態だと思われて居たに相違無い。
兎に角、長髪の指揮者の嚆矢とも云うべきはプレヴィンであろう。私の危う気な記憶を辿ると、当時の長髪指揮者はストコフスキーとプレヴィン位しか思い浮かばぬ。しかし、ストコはオールバックが伸びた感じの長髪で、ビートルズ風のマッシュルームカットのプレヴィンの先進性こそが新鮮であった。

で、肝心の第5の演奏であるが、決してルックスから想起させられる如き斬新な格好良さは無かった。
プレヴィンと言えばKING SIZE!である。
ジャズの名盤として名高いプレヴィンのリーダー作であるKING SIZE!は、58年の録音。天才少年と謳われたプレヴィンの20代の名演である。
この何ともファンキーで、べら棒に上手いピアノ演奏と、マッシュルームカットの風貌から予想された、ワクワクするようなノリの第5を期待して居た私はズッコケた。
同じロンドン響で師匠のモントゥが録音した第5の方が、余程ノリが良く、カッコイイのである。
ゆったりと構えて大らかで、決して煽り立てる事が無く、細部まで神経の行き届いた演奏。と書くと美辞麗句過ぎる。安全運転過ぎて面白く無い。と書くと身も蓋も無い。
これは外したかな…と冷や汗をかいたが、悔しいので何度も繰り返して聴く内に、漸くプレヴィンの意図が理解出来て来た。
遅いインテンポで、低弦をたっぷりと鳴らし乍らティンパニを確実に叩かせて居る。要所ではタタタタンと云うリズムが浮かび上がる構図だ。全く気負いが無い。
トスカニーニやフルトヴェングラーやカラヤンの後にベームを聴くと、何とも大人しく、面白味に欠けるように聴こえて仕舞うが、プレヴィンは更に輪を掛けて大人しく聴こえる。
圧倒的に「カッコイイ」第5を響かせたC・クライバーの第5の録音は74年だ。
詰まり、まだ見ぬクライバーの第5のような演奏を漠然とプレヴィンに期待して居た私は、完全に梯子を外された訳である。


プレヴィンのクラシック音楽初体験は、5歳の折、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルの定期演奏会だったと云う。
フルトヴェングラーやモントゥの強烈な第5を充分に理解して居た彼は、敢えて対極とも言える表現を取ったとも考えられる。
しかし、プレヴィンはもっと純粋に、ベートーヴェンに向き合って居たような気がする。
ベートーヴェンの音楽を信じ切って居ればこそ、全く気負いの無い第5を世に問うたのではないかと思う。
されば、第2楽章の無理の無い自然な音楽に心安らぐのである。
私が感心したのは4楽章の冒頭部分、タタタタンと云うモットーをティンパニでクッキリ叩かせたセンスである。モントゥ師匠でもこのセンスは無かった。プレヴィンのゆったりとしたテンポでなくては、ここの部分のこの表現は有り得ないのだ。
最初からティンパニを強めに叩かせて居るから、4楽章に至って、この表現をしてもわざとらしさが無いのだ。全曲を俯瞰した時、プレヴィンはこれをやりたかったんだな、と云う事が分かる。
決して熱血の第5では無いが、思わぬ所で作曲者の意図を抉り出したナイスプレーだ。
問題があるとすれば、LSOの深みの無さ。これ許りは如何ともし難い。これを熱血でカヴァーしたのがモントゥ師匠の演奏なのだ。

師匠モントゥは、「オーケストラの邪魔をしない事」と云う忠告を与えたと云うが、プレヴィンは更に踏み込んで、作品の邪魔をしない演奏を心掛けたような気がする。
87年録音のブラームスの第4交響曲を聴くと、本当にこの曲が好きなんだと云う、プレヴィンのブラ4に対する愛情を感じる。
このCDは私の愛聴盤の一枚だ。
第2楽章の、聴いて居て泣きそうになる程の優しきリリシズムも大好きだが、3楽章が実に見事だ。矢張りティンパニの扱いが上手いのである。これはクリップスやケンペに匹敵する好演と言って良かろう。
4楽章はごく自然で食い足り無いが、悪さをしないと云うプレヴィンの美点が遺憾無く発揮されて居る。
此処でも曲の良さを信じ切って居るプレヴィンが居る。このストレートさが良い。
因みに、このCDにカップリングされとる大学祝典序曲は実に見事な名演である。この曲はマゼールとプレヴィンが良い。兎に角、大太鼓がズーンと響くこの曲は、大型スピーカーをお持ちの方にはお勧めの曲だ。マゼールもプレヴィンも大太鼓の扱いが上手い。分かっとるのだ。



今回は件のベートーヴェン第5と、ブラームス4番、最期にジャズピアノのKING SIZE!から、I’LL REMEMBER APRIL と YOU’D BE SO NICE TO COME HOME TO の2曲を収録した。
プレヴィンを偲んで御聴き戴ければ幸甚である。


ベートーヴェン 交響曲第5番
プレヴィン/ロンドン響  73年録音  Angel盤LP




ブラームス 交響曲第4番
プレヴィン/ロイヤル・フィル  87年録音  TELARC盤CD



ANDRE PREVIN’S TRIO JAZZ KING SIZE!
58年録音  CONTEMPORARY盤LP


一月程前に大きな地震があり、当地もアドレナリンが身体中に行き亘る程度には揺れた。
そろそろ寝ようかと云う頃合に、携帯が消魂しく鳴り響き、大きな揺れに注意せよと表示されて居る。さて如何にせんと思うや程無く、クラクラ振動が来た。
咄嗟に立ち上がり、目視で素早くプレーヤーを確認。大丈夫だ。アームはロックしてある。スピーカーも大丈夫。と思った刹那、グラングランと大揺れが始まった。掛けてある腕時計コレクションを見る。大丈夫だ。落ちない。古い時計は落下は命取りである。立って居るだけで精一杯だ。色々な動きなんぞ出来る筈は無い。取り敢えず倒れそうな机上のスタンドを押さえるのが関の山であった。
これ以上酷くなった場合、どうする? スピーカーを取るかスタイラスのコレクションを取るか時計を取るか…
考えが纏まる前に揺れが収まった。
短い時間であるが、頭中の緊急反応網の中に家人のカの字も無い事に気付いた。
完全に揺れが収まってからゆっくりと階下に降りた。

当地が揺れる時には何処かが崩壊して居る、と云う程に揺れない土地柄である。要するに慣れとらん。
奥尻の地震の折に地震保険には入って居る。停電の最中、オーディオの被害に保険金は下りるのであろうか、と考えが巡って居た。

Shuさんには早々に遠方より御見舞いメールを戴きましたが、私もオーディオも些か草臥れては居りますが無事です。


探して居た音盤が漸く手に入った。
ワンダ・ランドフスカのチェンバロ、バッハのイタリアン・コンチェルトである。
ランドフスカなんぞと云う者を知って居るのは相当な好事家である。ポーランド出身の鍵盤奏者。1879年生まれ、1959年没。忘れられて居た楽器「チェンバロ」を現代に復活させた女傑である。
検索すればyoutubeで聴く事は出来るのだが、出来れば状態の良いレコードで聴きたい、と云う欲求は音盤再生家として当然の帰結である。
youtubeでは、SP盤をビクトロンで再生し、録音したものと、CDからのコピーの2種類を聴く事が出来る。
前者は矢張り鑑賞には耐えず、珍しい試み、と云う程度のものである。蓄音機は楽器であるから、録音には相当な生録機器が必要である。素人の録音では聴くに忍び無い。
後者は36年の録音とは俄かに信じられぬ程の音質で、こちらは充分に鑑賞に耐え得る。
とは言うものの、矢張りCD特有の、抜けの悪さは如何ともし難く付き纏う。
この演奏を耳にして、レコードであればさぞかし良き音質であろうと、何年も音盤を探して居た訳である。
ヤフオクに引っ掛ったのはSP復刻盤の再発LP。しかし、歴としたPATHE MARCONI盤。¥1,500は「買い」である。音盤は見付けた時に買わねば後悔する、と云う法則がある。法則に逆らってはならぬ。

バッハのイタリアン・コンチェルトには思い入れがある。大学時代の親友に纏わる想い出である。
大学時代、私は美術部に引っ張り込まれた。衰退著しい美術部に喝を入れて欲しい、と云う懇願に屈して入部した。その部室に彼は居た。
全身アバンギャルドに染まったような男であった。音楽と言えば当時流行りのパンクロックのバンド活動をして居るような奴で、音楽は聴くもんじゃ無い、やるもんだ。と公言して憚らない。当然、オーディオのオも、クラシックのクも彼の範疇には無かった。
彼は多治見の出身で、私は祖父が美濃、祖母が尾張なので、何かとウマが合った。
或る日の事、我が部屋で彼に音楽を聴かせた。音楽で魂を高揚させて創作活動をするのだ。と語って聞かせた。
帰り支度をしつつ彼は言った。「良いものを聴かせて貰った。あれは何と云う曲だ?」
バッハのイタリアン・コンチェルト。BWV971だ。
その後、何時の間にか彼の部屋には高価なオーディオが置かれ、大音響で只管同じ曲ばかりを鳴らして居た。何せレコードは一枚しか無いのだ。その一枚の為に大層高価なオーディオ装置一式を揃えるような極端な男なのだ。
その一枚こそがイタリアン・コンチェルトであった。

卒業後10年程経って彼の訃報を聞いた。自ら命を絶ったと云う。
数ヶ月後、岐阜の彼の実家を訪れた時、あの高価なオーディオセットは物置の中に積まれて埃に塗れて居た。
オマエの好きな、あの曲はどうしたのだ?
あのままイタリアン・コンチェルトを聴き続けて居ったら…
鬱病なんぞになりゃせなんだで。なぁ。
俺は今でも聴いとるぞ。
まあ、その内俺も行くでな。その時ゃタップリ説教してやるで。



イタリアン・コンチェルトについては各人調べて戴きたいが、何故チェンバロ独奏曲なのにコンチェルト(協奏曲)なのか、と云う事に関して簡単に説明して置く。
大雑把に言うと、コンチェルトは独奏楽器と伴奏楽器の掛け合いで成り立つ訳だが、この曲の場合、独奏も伴奏もチェンバロだと思えば良い。更に独奏も伴奏も一台のチェンバロで担って居ると考えてくだされ。要するに右手独奏、左手伴奏、その逆も可である。
結局独奏でないんかい。と言う勿れ。
イタリアン・コンチェルトを演奏する為のチェンバロは二段の鍵盤が必要なのである。
物凄く大雑把に言えば、下鍵盤が独奏、上鍵盤が伴奏と考えて良い。(実際にはもっと複雑に入り組んで居るが)
チェンバロと云う楽器は構造上、音の強弱が苦手である。一つのキーでオクターヴ上の弦も同時に弾くので倍音が響く原理だが、弦を弾く力は加減出来ないので音の強弱の表現には不利である。それを補うのが二段鍵盤と云う事になる。
下鍵盤を押すと、上鍵盤も同期して動く。詰まり複数の弦が弾かれ、音量が増す。
そして、上鍵盤を押した場合は、下鍵盤は同期せず単独の弦が弾かれる。(上鍵盤は倍音弦が無い)
イタリアン・コンチェルトは右手、左手が上に下にと入り乱れるコンチェルトなのである。

折角なので、手持ちのLPからステレオ録音の同曲を収録した。
ピックアップはSTANTONの681EEE MkⅢ。MI型(ムービングアイアン)の名機である。
イメージ 1
或る時、品川無線の朝倉社長が、「昔、スタントンにSHUREの図面を送ってあげたんだよ。それでMIカートリッジが出来たんだよ。」と仰って居たのを思い出す。貴重な裏話だ。
ともあれ、681EEEは単一楽器を上手く鳴らして呉れる。DG盤の再生にも非常に相性が良い。チェンバロ曲を鑑賞する為、久々に登場願った訳だ。
尚、件のランドフスカ盤の再生はedisonのspiritである。




グスタフ・レオンハルト
67年録音 harmonia mundi盤LP

その昔、チェンバロと言えばレオンハルト、と云う程に有名であった。これを聴けば間違い無かろうと入手したのであるが、演奏は無骨そのもので全く色気と云うものが感じられない。
使用楽器は博物館所蔵の古楽器で、音が細く響きは少ないのでゴツゴツ感が強調されて居る。
堅実と言えばそうなのであろうが、私はちーとも感動出来なかった。古楽器であれば何でも良いと云うものでは無い。



ジョージ・マルコム
61年録音 SERAPHIM盤LP

マルコム盤のLPを検索すると、何故かDECCA盤に辿り着く。と云う事はこの演奏はDECCA録音なのであろうか? だとすると、何故日本でSERAPHIMから出て居たのであろう?
演奏は乗りが良く聴き易い。使用楽器はモダンチェンバロで、響きもレオンハルト盤より遥かに豊かである。3楽章の弾け方は心弾むものがある。私はこう云うのは嫌いでは無い。



カール・リヒター
69年録音 DG盤LP

バッハと言えばリヒターである。オルガンにしろチェンバロにしろ指揮にしろ、リヒターの演奏は奥深く、安定感、安心感がある。概ねインテンポであるが、アーティキュレーションが巧妙で無理が無い。元来、ノリの良い3楽章でも弱音で繊細な表現を挟み込む。実に音楽的なのである。高揚感をもたらす、と云うよりは、じっくりと噛み締めて味わうべき演奏である。



イゾルデ・アールグリム
75年録音 PHILIPS盤LP
これは私のお気に入り盤である。リヒャルト・シュトラウスが感嘆したと云う程の実力者で、実に堂に入った演奏で感動的である。
2楽章のしみじみとした味わい、華やかな3楽章の美しさ。心に染み入り、チェンバロを聴く歓びが此処に極まる。



ワンダ・ランドフスカ
36年録音 仏EMI(PATHE MARCONI)盤LP

これが件のランドフスカ盤である。
録音は古いが実に感動的で圧倒される。流石にこのおばちゃんの技巧たるや只事では無い。単なる研究者では無く、表現者としても一流と言える。ありとあらゆる技巧を駆使した演奏で、更に強靭なエネルギーは比類が無い。
恐るべきは3楽章の表現で、爆発的エネルギーの中、バフストップを駆使してミュートを効かせるなんぞは神憑り的である。
トスカニーニが共演を丁重に断ったと云う程に灰汁の強いおばちゃんらしいが、それは演奏には良き効果をもたらして居ると言えよう。
これは聴くべき演奏である。



最後に、youtubeからお借りして来たので、参考迄にCD盤の音質を確認して戴きたい。
私がどうしてもレコードが欲しかった理由が理解戴ける事と思う。












諸般の事情により、永らく更新して居りませんでしたが、ボチボチと書いて行く事に致します。
神だか悪魔だかの仕業により、体調も仕事も思わしくなく、地磁気が逆転す
るから気を付けよと忠告する御仁まで現れ、中々にタイミングが掴めない状況でもあった。

前回、音盤も時計もアナログを愛好して居ると書いた。
アナログと言っても、音盤にも時計にもレトロと云う物があって、巧妙に昔
風に作られているのだが、これは実際には新しい物だ。
デジタル録音のLPレコードと云うものや、アナログ録音のデジタルマスタ
リングと云うものもあって、本末転倒とはこの事である。
時計も、針が3本付いて居て時刻を表示するからアナログ時計かと言えば、
そんな単純な事でも無い。光発電の電波時計なんぞは、もう歴としたデジタル時計である。職人技の妙なんてものはそこには無い。
アナログの時計も音盤も、実は全く同じ原理だと云う事を知らねばならない

更にもっと突っ込めば、音楽と時との深い関係にまで遡及せねばならないの
だが、今回はそこまでは論じない。

幻の名盤、と称させるものがあって、これは単純に、非常に入手が難しいものに冠せられる呼称である。
但し、この言葉に正確な定義がある訳では無く、発した当人の主観である事
は間違いない。
時計愛好家の世界にも「幻の時計」と云うものが存在し、その代表格にタカ
ノがある。
タカノと言って、「ああ」と反応する人は稀である。最近は時計屋でさえタ
カノを知らぬ者が多い。
高野精密工業自体は古い会社で、主に柱時計や置時計を作って居たのだが、
戦後、愈々腕時計分野に進出する事になり、57年から腕時計の生産を開始する。しかし、59年の伊勢湾台風で工場が壊滅的被害を被り、その後急速に業績が悪化し、リコーに吸収された。
タカノブランドは57年から61年の間の、僅か4年11ヶ月で消滅し、残存数
の少なさから「幻の時計」と称されるようになった。
タカノの時計は、作りの良さ、デザインの先進性が魅力である。
同じ時期、セイコー、シチズン、オリエントと云った先発メーカーは、どち
らかと言うと無難で無骨なデザインであったが、タカノのデザイン性はスイスの高級時計に比しても尚、その先を行く先進性であり、60年近く経った現在に於いても立派に通用する。
又、名古屋のメーカーとしての誇りを感じさせる「シャトー・シリーズ」は
、手巻きとしては当時、世界最薄のキャリバーを開発、搭載したものであり、コレクターの人気は高い。因みにシャトーは「お城」を意識したネーミングである。

この幻のタカノが、何故か私の手元に2個存在する。
一つはドイツ製キャリバーを搭載した最初期のノーネームの物。幻中の幻。
大変貴重な代物だ。
イメージ 1
このドイツLaco社のキャリバーを手本にタカノ製キャリバーが開発されたのである。驚くべきは、この時計、今だに遅れもせずに動き続けて居る事である。
そして、文字盤やケースの凝った作り。美しい時計だ。

もう一つは当時の世界最薄。シャトーのSuperior。これはTAKANO製キャリバー搭載21石の贅沢な作りだ。
イメージ 2
そして何より、この凝った作り、洗練されたデザインには目を疑う程だ。半世紀以上経った今でも、全く古さを感じさせない。否、今でもこれ程美しい時計には滅多にお目に掛かれないであろう。

時計と同様、レコードプレーヤーと云う奴も、ちょくちょくと回してやらねば状態を維持出来ない。
近頃急にバッハが聴きたくなったので、今回は管弦楽組曲第3番である。
管弦楽組曲は序曲(シンフォニア)付きの舞曲集であるが、第3番は多少趣が変わって居る。そして、この異形な第3番は非常に私の好みなのだ。

どう異形かと言えば、第1曲のフランス風序曲と第2曲のポリフォニックなエアの2曲で全体の半分以上を占めて居るのである。詰まり、舞曲集の仮面を被っては居るが、非舞曲に比重が置かれて居る。これが異形である。
更に、第5曲ジーグでは、ラメントバスと云う半音階下降が現れ、エネルギッシュで弾けるような音楽を、影のある憂いが差し込む音楽として居るのだ。これも又、単なる舞曲では無い。
バッハは明らかに何かを伝えて居る。
これはチャイコの悲愴に相通ずる如き、ミステリアスな曲と言って良い。詰まり私好みの曲なんである。
私はこの曲に関しては新しい録音は聴いて居ない。極めて残念な事に、リヒターのアルヒーフ盤を聴いてからと云うもの、他の演奏を聴く気が起こらないのである。
様々な聴き方があると思うが、若干34歳のリヒターによるこの演奏は、それ位圧倒的名演だと思う。
81年。54歳でリヒターが亡くなった時は、計り知れぬ衝撃が走った。そして、同じ程度の衝撃がその翌年私を襲った。ペッパーが亡くなったのである。
ペッパー56歳であった。
フルトヴェングラーの追悼演奏で、カラヤンが演奏したG線上のアリアを思い出した。
管弦楽組曲第3番は悲しみを湛えた曲だったのである。



シューリヒト/フランクフルト放送響 61年録音 日コロ盤LP
私がこの演奏を聴いたのはかなり遅い。81年に日コロから発売されたこのLPを聴いたのが初である。
シューリヒトのバッハは深い。ブランデンブルクにも感服したが、この管弦楽組曲3番にはほとほと恐れ入った。この曲、ポリフォニックな構造であるから、ポリフォニックオヤジのシューリヒトが嵌らぬ道理が無い。否、この爺はバッハが身に染みて居るに相違無い。
序曲、出だしのgraveの荘重な深さ。オーボエのもの悲しさにそそられる。
vivaceも決して走らず落ち着きと深みがある。全く響かないトランペット、ソロヴァイオリンの情緒、威風堂々の終結。見事である。
エアも悲しく深い。この切々としたヴィオラで感動しない者は不幸である。
ガヴォットのポリフォニー感は見事である。些か通俗的なこの曲を、1曲の音楽として聴かせて仕舞うのがシューリヒトの凄さである。
ブーレは落ち着いたテンポながらリズムが躍動して居る。
ジーグの出だしのトランペットは一体何事であろう。丸で響かず豆腐屋のラッパの如しである。しかし、この懐かしさは比類無い。ドイツの田舎の踊りとはこんなもんだぞ、と諭されて居るようなのだ。ラメントバスで音楽が沈潜して行く中、エコー的な扱いのセカンドヴァイオリンを特と味わって欲しい。これぞシューリヒトの味わいなのだ。胸を掻きむしる如き切ない演奏だ。



ハルノンクール/ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 66年録音 TELEFUNKEN盤LP
この音盤の発売当時は、まだハルノンクールと云う表記であった。78年の水上の音楽辺りからアーノンクールと云う表記になったと記憶して居る。
処で私はこの得体の知れぬハルノンクールと云う指揮者の管弦楽組曲3番がお気に入りであった。鉄板のリヒター盤が存在して居る時代である。私はテレフンケンの音盤を持って諸先輩に聴かせて回った記憶がある。
この演奏、ハルノンクール指揮となっては居るが、実際は指揮者は居ない。彼はチェロパートで演奏して居る。この演奏の中心は実はアリスのヴァイオリンなんである。私はこのアリスの澄んだヴァイオリンの音色に打ちのめされたのである。ジャケットを見れば判るだろうが、中心はアリスであって、夫ハルノンクールは左端である。アリスが主役の演奏であるから、この演奏はアクが無く、瑞々しく清々しい魅力を放って居る。
序曲graveは当時は目からウロコのピリオッド奏法で新鮮な感じがしたが、今聴き返すと良く纏まった控え目な表現だ。vivaceに入ると軽快な感じで聴き易い。アリスの滑らかなヴァイオリンが一服の清涼剤の効果だ。
当然次のエアが最大の聴き処である。淡々と進む滑らかな音楽は悲しみと云うよりは寂しさの表象である。この音楽の中に溶けて仕舞いたいと願う程美しい。
ガヴォットは繋ぎとしてアッサリと纏めた感じだ。アーノンらしい角が無い。あくまで舞曲としての忠実な表現に終始して居る。
ブーレは若干活気が出て来るが、ここも繋ぎと云う感じで押えて居る。
ジーグはシューリヒトのような名人芸腹芸は無い。後半に若干悲しみの影が差すのだが、深くは落とし込まない。ただ、単なる喧騒の音楽としないのは優れたバランス感覚だと思う。



ガーディナー/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ 84年録音 ERATO盤CD
これは今回唯一のCD盤だが、私はこの演奏は結構好きである。ガーディナーはノリが良いのだ。
序曲のgraveは意外にも浅い。ガーディナーの明朗さ軽さが少しばかり仇になった感がある。これがvivaceに入ると途端に目が覚める。ノリの良いガーディナーの本領発揮である。私は最初これを聴いた時、チャーリー・パーカーを想起せずには居られ無かった。ビ・バップのノリなのだ。これは良い。身体が自然に動き出すスウィング感。
中間部と最後のgraveはノリの延長で最初の部分よりは出来が良いのが面白い。
続くエアは問題有りかも知れぬ。このレガート感の無さは戴け無いぞよ。ちょいと魂が音楽に溶け込まない。鎮魂度不足じゃ。
ガヴォットとなると、これはガーディナーの世界だ。非常にバランスの取れた好演。特に第2ガヴォットの寂寥感が上手い。
ブーレはリズミカルで軽く纏め、間髪を入れずジーグになだれ込む。
このジーグは良い。実に計算の行き届いた見事な構成だ。下降音階に伴う黄昏の如き寂しさも、快速テンポの中に埋め込まれて居る。



リヒター/ミュンヘン・バッハ管 60年録音 ARCHIV盤LP
こう云うのを圧倒的演奏と呼ぶのであろう。この恐ろしく深い演奏が34歳の若者によって為されたと云うのは俄かに信じられない。彼の天命が54歳とすれば、恐らくこの境地は最も脂の乗り切った時期であったのかも知れぬ。
実は私はこの演奏は非常に早い時期から聴いて居た。それはDG盤のLPであったが、それを聴いて居た時には実に端整で良く纏まった演奏だわい、と云う程度の認識であった。勿論、大好きなDG盤であるから愛聴盤だったのだが、後年、独プレスのアルヒーフ盤を聴くようになって、この途轍も無く巨大な演奏に圧倒されたのである。DG盤とは丸で音のバランスが違う。アルヒーフが本物とすればDG盤はフェイクだ。それ程に差が歴然として居る。
序曲のgraveは恐るべき音楽だ。私には最早圧倒的と云う言葉しか思い当たら無いのであるが、巨大な音楽が屹立する。リヒターはオルガンも弾く。否、レコードデビューは寧ろオルガン演奏の方が先であった。このオルガン的音響はリヒターが意図して居たに相違無いのである。
vivaceに入ろうと軽さは無い。寧ろ力感が増して来る。軽やかなるべきヴァイオリンの旋律は、来るべき深淵の予兆に過ぎ無い。
穏やかなエアは胸が締め付けられる程の静けさと鎮魂性に満ちた音楽だ。ヴィオラの旋律が深く胸に染み入って来るのである。
ガヴォットも単なる舞曲の範疇には収まっては居ない。実に堂々たる音楽で組曲全体を引き締めて居る。
他では軽さを感じさせるブーレもリヒターの手に掛かると思わず聴き入って仕舞う力がある。
最後のジーグの引力も並々ならぬものがある。この引き込まれる感じは…
そう、バーンスタインのショスタコ5番の1楽章の如き感触だ。音楽の中心に向かって引き込まれて行く。何時迄も終わらないで欲しいと思う音楽。

前回の記事から随分と時が経って仕舞った。
この間、御心配戴いた方、御質問等を戴いた方には御無礼の段、御容赦賜り
たくこの場を以てお詫び申し上げます。

家内の癌手術、治療から発し、私の目の調子が悪くなり、多少良くなったと思えば、血尿が出て、兎に角気力自体も萎えて仕舞い、この頃漸く気力が戻りつつある状態。
今回は長らく休養の為、リハビリ的な雑文であります。

元来冬は体調がすぐれないのであるが、此の度ばかりはさしもの私も多少覚悟を決めた。
年明けに息子に、ワシが死んだら時計のコレクションはお前に譲る、と言い
渡した。
不肖の息子は、音楽関係には全く頓着が無い。当然オーディオもオの字も解
さない唐変木であるから、安心して後を託せるのは時計とライターのコレクション位のものである。
取り敢えず、目ぼしき時計を磨き上げ、整備した。
新品同様に磨き上がった古き時計は、中々にオツなものである。コレクショ
ンであるから普段は殆ど装着などしないのだが、自分自身も時計も相当に歳を取って来た現今、死ぬまでの間これらを使う事に決めた。

私は元来アナログ好きである。であるから、音盤もLP盤を主に聴くし、再生針にも拘りがある。
時計に関しても又然りで、水晶発振(QUARTZ)時計なんぞには見向きもしな
い。ゼンマイ駆動の機械式時計をこよなく愛するのである。
機械式時計もトーンアームもカートリッジも、60年代に完成されたと思う
。私は未だに60年代のGraceやSOUNDのアームを何の不自由もなく使って居る。時計も50〜60年代の手巻きなのである。
ゼンマイを巻く行為が面倒であると言う御仁も居るらしいが、私からすると
、電池時計の電池が切れた時こそ厄介である。時計屋に持ち込むと¥1000程取られる。私は工具があるので、裏蓋は自分で開けるが、老眼には些か厄介な作業だ。電池は百均で2個入り¥100で手に入るので、時計屋に委ねる事は無いが、何時電池が切れるか判らぬのは何とも心許ない。
機械式時計にも自動巻きと言う便利な仕掛けがある。ゼンマイ如きを面倒だ
と言う御仁は自動巻きが良かろう。
私は手巻き時計が好きなので、コレクションも手巻き中心である。
私が小学校の時分は、日直が朝、教室の時計のゼンマイを巻くと云う仕事が
あったものだが、今時の子供は時計がゼンマイで動くと云う事自体を知らぬに相違ない。
寝る前に愛着のある時計のゼンマイを巻くと云う習慣は、再生針を磨くのと同様、私の心を落ち着かせるに効果がある作業だ。

そもそも私が腕時計に興味を持ったのは、カラヤン先生の所為なのである。
最初にカラヤンのDGデビュー盤のドヴォルジャークの「新世界」を手にし
た時の衝撃は、過去の記事にも書いた事なので繰り返さないが、このジャケ一つで私の受けた影響は計り知れないものがある。
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このジャケのカラヤンがカッコイイのである。
髪型もさる事ながら、黒のトックリ、先の尖っていない短めのタクトまでも揃えたが、何と言ってもこの左腕の時計である。黒文字盤の黒バンド。何とも粋なんである。
この時計が何であるか、未だに判別出来ないのであるが、私は勝手にオメガであると決め付けていた。
60年代のオメガは絶好調である。宇宙飛行士はオメガのスピードマスター(スピマス)を付けている。カラヤン程の人はオメガを付けて居るに相違あるまいと思い込んで居る。
オメガのスピマスと言えば、月面に降り立った唯一の時計、であるとか、アポロ13が無事帰還出来たのはスピマスのお陰である、とか、伝説は枚挙の暇がない。
私の中ではカラヤンの時計はオメガと勝手に決めていたのであるが、ジャケからは何の確証も得られない。ひょっとすると、ドイツの名門グラスヒュッテとかユンハンス、あるいは戦闘機で有名なユンカースの時計かも知れぬ。

後年、私は念願の60年代製のオメガを手に入れた。デヴィル(DE VILL)と云う機種である。当然カラヤン先生を意識して黒ダイヤルで黒バンドである。
中古であるが高級品である。滅多に付ける訳には行かぬ。普段は大切に保管してある。
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私はこう云うシンプルな時計が大好きだ。中3針で、インデックスはバーインデックス。ローマ数字もアラビア数字も要らない。
キャリバー(ムーヴメント)は60年代の名機565である。24石で美しい非磁性メッキが施された逸品だ。
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これは重宝な事に手巻きも可能であるから、当然就寝前の儀式に加わって居る。
このオメガ、物凄いと実感するのは、50年前の機械であるのに、未だに狂わずに作動する事である。私が時間合わせ用に持って居るソーラードライヴの電波式時計と比しても日差-5秒程度なのである。
更に、このデヴィルは装着感が誠に良い。精度の面からはSEIKOも引けを取るものでは無いが、この腕に吸い付くように馴染む感触と重さを感じない点では勝負にならない。
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そして、画像を拡大して見ると微かに判るが、風防の中心に、肉眼では見えないような小さなΩマークが刻印されている。こう云う拘りがオメガらしく嬉しい。
このオメガから私のコレクションが始まったのである。

オメガを数日着けて居ると、萎えて居た気力が蘇って来た。
50年前の時計が恐るべき精度で動いているのを見るに付け、ワシもまだまだ頑張れるのではないかと思い始めて来た。

私のコレクションには掟がある。基本的に黒ダイヤル、バーインデックスの機械式で、ベルトは革ベルト。更にOMEGAかSEIKOかORIENTと決めて居る。然し、出物があった場合はこの限りではない。私の普段使いのSEIKO5はブルーダイヤルだが、オークションで数千円で入手したものだ。
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但しこれは復刻モノで、昔大流行したセイコー5とは似て非なる物である。
とは言っても、分厚くゴツく重たいセイコー5はそのままである。
因みにこの5の意味は、日付、曜日、自動巻き、防水、耐震、の5つの機能を意味するもので、60〜70年代に一世を風靡した名品である。
復刻版は中国製であるが、安くて堅牢で普段遣いには最適である。

さて、OMEGAで元気が出て来た私は、もう一つの括りであるSEIKOも日替わりで使う事と決した。
話は遡るが、OMEGAを手に入れてから、私はSEIKOが気になって仕方が無かった。何となれば、SEIKOこそがOMEGAの牙城、更にSWISS時計の牙城を突き崩した存在に他ならないと知ったからなのである。

私はKING SEIKOと云う時計をこよなく愛する。
一概にSEIKOと言っても、SEIKOブランドの腕時計には二つのメーカーがある。掛時計や置時計を製造して居た精工舎から分離した「第二精工舎」と戦後、第二精工舎から別れた「諏訪精工舎」の二社である。
諏訪精工舎は打倒第二精工舎、更に打倒スイス時計に燃えていた。そして、60年にGRAND SEIKOを発売した。スイスの天文台規格を上回る独自の規格を設け、材質や加工も最高の代物である。
そして翌61年、第二精工舎もスイスの天文台クロノメーター優秀級を目指して伝説のKING SEIKOを発売した。
態々「伝説の」と云う修飾語を入れたのは訳がある。75年にKING SEIKOは生産を終了し姿を消して仕舞ったからである。
KING SEIKOはGRAND SEIKOと違い、国内最高級と云う位置付けではない。あくまで拘りは「世界最高精度の腕時計」であった。従って、SEIKOが67年にQuartzの腕時計を発売した事で、最早精度に拘る高級機械時計、KING SEIKOの存在価値を訴求出来なくなったのである。この潔さがKINGと云う名を冠した名機に相応しく「武士道」を感じる。
国内最高級として、Quartzを搭載して生き残ったGRAND SEIKOと比して、機械式時計の限界まで追い求めたKING SEIKOは、私のエンジニア魂を熱く揺さぶる逸品なのだ。

KING SEIKOは大まかに言って初代(1st Generation)、2nd Generation、3rd Generation、と云う3つに分類される。キャリバーを細かに分類すれば15機種、ケースの形状や仕上げの違いまで考慮に入れると相当なヴァリエーションとなるが、大まかに3世代があると言って良い。
私が所有するのは1st一種類、2nd一種類、3rd二種類の計4個である。勿論全て黒ダイヤルだ。

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61年発売の初代KING SEIKO。25石の手巻きである。私の所有品は61年4月製造の初期型KINGである。
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先ず、このキャリバーを見ただけで高級品と理解出来る。50年代の高級時計Crownと見比べて戴くと良く判ると思う。
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歯車の細工が違う。そして、両持ちのテンプ受け。これが頑固なKINGの特徴だ。オメガだろうが、ロレックスであろうがパテック・フィリップであろうが、テンプ受けは片持ちである。両持ちのテンプ受けはKINGならではの拘りだ。
装着感はOMEGAとは比較にならぬ程、腕に存在感がある。常に、我此処に有り、と云う存在感だ。ドッシリと大ぶりな、如何にもKINGと云う佇まいが嬉しい。
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裏蓋にはめ込まれたKINGの紋章が実に誇らしく、本物の証となっている。
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そして、この55年前の機械の精度には驚く。電波式と比しても日差5秒程度で稼働中なのである。この信頼感が何にも代え難いKINGの魅力だ。



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64年に発売された2ndのKING SEIKOである。私のものは67年に製造された後期型で、金張りタイプ。12時方向にアップライトのSEIKOロゴが配され、KING SEIKOネームは6時方向に移っている。
キャリバーは初代から僅かに改良されて、更に精度を追求している。2ndの後期からキャリバー名が44Aと付けられ、これが第二精工舎のロービートの最高傑作と呼ばれている。
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ロービートとはテンプの振動が毎秒5振動以下のものを指すが、44Aは5振動で、日差-1秒〜+5秒と云う驚異的な精度を誇り、諏訪精工舎のGRAND SEIKOにも移植された名機である。
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装着感は半端ではない。初代より一回り大きく重い。私の細腕にギリギリ収まる存在感と暗がりでもギラリと輝く剣型の針と上質なバーインデックスが何ともそそるのである。
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この手巻きの名機。現在でも電波時計と比して日差+5秒であるから驚いて良い。



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第3世代からは自動巻きが登場する。自動巻きタイプは諏訪精工舎製で、中身はGRAND SEIKOからの移植である。68年の発売で、8振動のハイビートだ。このタイプの後期は裏蓋の無い一体型ケースで、防水性能が向上している。私のものは72年製の後期型である。
第3世代からはKING SEIKOの自動巻きを諏訪で製造したり、GRAND SEIKOの手巻きを第二精工舎で製造したりと、それまでのライバル関係からSEIKOブランドの総合力への方向に舵が切られている。
KING SEIKOのロゴはKSと略されて居るのが不満だが、アップライトになりキラリと輝く。一見GRAND SEIKOと見間違う程の仕上げの良さ、漆黒の黒ダイヤルと細工の細かいバーインデックスが高級感を醸し出している。
HI-BEAT表記の下のマークが諏訪精工舎マークである。
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キャリバーは5625と呼ばれるデイト表示付きである。電波時計と比しても日差は+5秒で稼働中だ。手巻き機能も付いて居るので通常は手巻きで使用している。
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全体としては大ぶりだが、ダイヤル面が小さいので収まりが良い。自動巻きならではの厚みと重さ、そして仕上げの美しさがKING SEIKOの高級感を引き立てている。
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このタイプは裏からは開けられない。素人がおいそれと裏蓋を開けて中を眺める事は不可能であるから、内部の画像は初期のスクリューバックタイプのものを拝借した。



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第3世代からはもう一つ。68年発売の手巻きの第二精工舎製、45KSと呼ばれる名機中の名機である。私の最もお気に入りのKINGである。私のものは70年製造である。
一見、先の諏訪製56タイプと見分けが付かないかも知れぬが、実際はこちらの方がゴツい。バーインデックスも太く、矢張り第二精工舎製はKINGの本流だと想わせる。最大の特徴はデカいリューズである。
HI-BEAT表記の下のマークが第二精工舎マークである。
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デカいリューズには訳がある。この機種は何と10振動のハイビート機なのだ。簡単に言うと、振り子の一往復が2振動である。これが、毎秒5往復、10振動する情景を想像してみると良い。途轍も無い動きだと云う事が判る。当然、秒針はQuartzとは真逆で全く切れ間がなく滑らかに動く。一時世間を驚かせた音叉時計のような針の動きなのである。否、本来は0.2秒毎に切れて居るのであるが、デジタル録音のようなもので、とても人間の目には感知出来無い。
この10振動を生み出すゼンマイはハイトルクだ。従ってこのゼンマイを指二本で巻くにはそれ相当なデカいリューズが必要になる道理である。
手巻きの10振動。腕の良い時計師が調整すれば日差0.25秒まで追い込めると言われる。恐るべき名機と言って良い。
そして、何よりKING SEIKOの伝説的な武勇伝として語り継がれているのが、スイスの天文台クロノメーターコンクールを廃止に追いやったのはこの45KSだと云う話である。詰まり、45KINGの精度を目の当たりにして、OMEGAの牙城が崩れるのを悟った主催者が、急遽コンクールを取りやめて仕舞ったと言うのである。
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このゴツさ、重さはKING SEIKOの中でも随一と言って良い。厚みは諏訪の56程ではないが、ラグが太いので全体がボリュームアップしている。
耳を寄せると猛烈な勢いで働いているのが判る。現在でも電波時計と比して、日差+1秒程度であるから、Quartz時計と何ら変わりが無い。
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この裏蓋はスクリューバックである。然し、メダルはKINGの紋章でないのが残念である。KINGの紋章の方が武勇伝には相応しいではないか。




休養中に、思い立ってPCに繋いでいるプリアンプをマッキンに替えた。ついでにパワーもラックスからSANSUIに替えた。これで音盤収録は更に音質アップしている。
今回の音源は、最近良く聴いて居る、バッハの無伴奏チェロ組曲。カザルスのGR盤をウォーミングアップとして収録した。

バッハ 無伴奏チェロ組曲 第3番 36年録音(MONO)Angel国内盤LP
AngelのGR盤も然るべきMONO針で再生すると見事に良き音で再生する事が出来る。
この曲の原点。カザルスの力感溢れる演奏を聴いて戴きたい。



魅惑のメンゲルベルク

最近、私事難題が多く、当ブログに態々戴いたコメントにも対応仕切れて居らず、誠に申し訳なく、御詫びを申し上げる次第。
特に、gustav師には、御指導、激励を賜り、幾ら感謝しても仕切れない程である。
その偉大なる師に於かれましても、最近は御疲れの御様子が拝察され、痛み入る許り。
何か出切る事はないかと考えたのであるが、私の出来る御恩返しとなると、音楽しか無く、チャイ
コ6番の行進曲で、元気付ける程度の事が現状の精一杯である。

顧て私も、精神的にも肉体的にも崖の縁が見えて来て居り、心中懸案のテーマを出来得る限り記事にせねばならぬと、焦燥感に駆られて居る。
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私のこよなく愛するブラームスの交響曲第4番にも、チャイコの6番にも、これぞと云う取って置きの隠し玉が存在する。
それが今回のテーマである「メンゲルベルク」の音盤なんである。
最近の若い衆には、メンゲルベルクなんぞは殆どピンと来ないであろうが、私にとっては神近き存在なのである。何せ少年時代、メンゲルベルクのブラ4、チャイコ6番を聴いて、私は完全におかしくなってしまった。嗚呼、この曲は生涯をかけて追求するテーマとしよう、と心に誓ったのである。更に、コンセルトヘボウ管は、私の最も好きな楽団となった。
そして、今以てこの出会いの時の感激は些かも減じては居ない。

機が熟した、と感じたのは、音盤からのダイレクト収録が結構上手く行って居る所為である。そして、私の音盤再生技術も、もうこれ以上は望めないと踏んだからでもある。
現在はMONO針4種を適時使い分けて居る。もう凡そ限界ではないかと思う。これ以上、針に何十万かけたとしても、MONO盤が突如3Dになる訳でもあるまい。
もうクドクド言うまでもないとは思うが、MONO盤再生にはMONO針が必要である。これはもう大人の常識、礼儀作法と云うべきものである。頑固に、「イヤ、ステレオ針で充分聴ける」なんぞと云う言い訳はもう聞きたくない。ステレオ盤にMONO針で、音楽は充分聞けるよ、とは言わないであろう。逆も又然りで、大人の趣味の世界には、大人の礼儀作法があると心得るべきである。今時、レコード盤を、しかもMONO盤を聴こう、なんぞと云う御仁が、MONO針一本買う金がないとは言わせない。単なる怠惰である。

デジタル再生機と云うのは、そう云う苦労も努力も要らぬので、便利だわい、と思う反面、「今日はこの盤からどんな音を引き出してやろうか・・・」なんぞと云う取って置きの楽しみも大幅に減じているには違いない。

件のメンゲルベルクを収録せんと思い、アームに装着したのはOrtofon SPU MONOである。
古いMONO盤、特に欧米製音盤は、時としてトレース不能な程の横振幅が刻まれて居る事がある。私の所有するメンゲルベルクの場合、蘭PHILIPSのベートーヴェン全集がそれで、恐るべき高音質と引き換えに、針をブッ飛ばす振幅も兼ね備えて居る。この衝撃に対抗するのはSPUのGシェルである。武骨なカブトムシなんであるが、安定性たるや他の追随を許さない。実に良く練られた製品であると思う。流石のPHILIPS盤も、カブトムシの如きGシェルはブッ飛ばせないのである。
カンチレバーの適度なコンプライアンスも効果的で、広帯域一辺倒でトレース性に難がある針とは一線を画すものがある。音質は燻し銀で、腰が低く、重厚感と滑らかさで聴かせる。
極めて褒め称えているが、現状、PHILIPS盤を再生出来るのはこれしか無いので、考える余地が無い。
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MONO盤の耳慣らし、と云う訳では無いが、最初にムラヴィンスキーの悲愴の3楽章をSPUで聴いて戴こう。これは、我が師gustav師のリクエストに御答えするものである。
これは、私も記事中で、最悪最低の音質と切り捨ている、例の10吋MONO盤である。ステレオ再生装置なんぞが充分に普及していない頃の過渡期的音盤であるが、慎重にイコライジングを調整し、大雑把な性格のSPUで演奏すると、それなりに聴ける。昔聴いて居た劣悪な音質とは違った、燻し銀的な郷愁感漂う再生音だ。





チャイコフスキー 交響曲第6番<悲愴>
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 37年・41年録音 TELEFUNKEN盤LP
どうもややこしい話なんだが、実際のところは、第1楽章後半と第3楽章が41年録音で、その他が37年録音らしい。妙なカラクリであるが、そんな余計な知識は必要無いのかも知れない。如何せんSP録音はブツ切りで収録したであろうから、継ぎ接ぎ細工は当たり前なのである。
要は出来映えが感動的かどうか、と云う事であろう。
こう云う濃厚で強烈で官能的な演奏を、若い時分に聴いて仕舞ったので、生涯<悲愴>から離れられない人生になって仕舞ったのである。2楽章は絶品中の絶品で、これぞ神業と言わざるを得ない。
最近は滅多に話題にならない音盤であるが、悲愴ファンであれば、何を置いてもこの音盤を入手して人生の糧にして戴きたいと希うものである。




ブラームス 交響曲第2番
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 TELEFUNKEN盤LP
これも濃厚なブラ2である。一時もジッとしていない、猫の目のように変化する1楽章、滑らかで小粋な3楽章、ジックリと堂々と鳴らし切った4楽章、何れも郷愁に溢れた味わい深い演奏であるが、この音盤に関しては2楽章を聴く為にあると言って良い。
ブラームス自身が「自分の生涯でいちばん美しい旋律」と語った2楽章の音楽が、これ程深く心に染み入る演奏を私は知らない。2楽章のこの音楽は、私は神と人との対話であると解釈している。美しい旋律に時折割って入るオドロオドロシイ旋律は「キリスト教」であろう。ブラームスはフリーメーソンである。ここまで考えなければ本質が理解出来ない。
メンゲルベルクの演奏は、オドロオドロしさは極控え目で、美しい神との対話が引き立てられている。この演奏が美しいと感じなければ人生の損失である。




ブラームス 交響曲第4番 
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 38年録音 TELEFUNKEN盤LP
私が始めて聴いたブラ4こそが、今回収録したこの音盤である。この音楽に完全に痺れて仕舞った私は、ブラ4をステレオで聴きたい!とすぐさまクーベリック/VPO盤を買い、聴いてみると・・・違う。これでは駄目だ、矢張りオケはコンセルトヘボウでなければならぬ、と次に手を出したのがベイヌム盤である。これも聴いてみると・・・違う。さて、あの妙なる音楽はどうやったら聴けるのであろう、と考え、次に手を出したのがワルター/コロンビア響、これは割りと気に入ったが・・・違う。と、云う塩梅で、ブラ4地獄に嵌って仕舞い、現在に至るのである。
兎に角、メンゲルベルクを越えるブラ4には未だ巡り会っては居ない。メンゲルベルクの芸風と音楽とが見事に嵌合した奇跡の演奏であり音盤だと思う。ピッツィカートと云うのは斯様にやるものだと現代の皆の衆に知って戴きたい。




ベートーヴェン 交響曲第1番
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
PHILIPSの全集盤オリジナルである。ケースはボロボロで崩壊しているが、中身は綺麗で、未だに驚くべき高音質で鳴ってくれるのが嬉しい。
1番はクリュイタンス盤が最高峰と信じて止まないが、メンゲルベルクはそれに次ぐ魅力的な演奏である。そして、ブラ2では意外な程大人しかったティンパニであるが、ベートーヴェンになると途端に叩いて居る。1番でこれ程叩く人も居るまいと思うが、決して嫌味ではなく、結構効果的である。ベートーヴェンはベートーヴェンさ、と云う明快そのものの筆法と、オケの相変わらずの達者振りには恐れ入るばかりである。そして4楽章の弾けっぷりが私は大好きである。




ベートーヴェン 交響曲第2番 第4楽章 
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
2番は「熱血漢の作品」と評される程、明瞭で快活な音楽だ。こんな明るく熱く激しい音楽がハイリゲンシュタットの遺書と同時期に書かれたと云うから、私は「遺書」と云うのは眉唾だと言うのである。ベートーヴェンは聴力を失った引き換えに、音楽が見えるようになったのである。それと同時に、己の成すべき道も見えたのである。だから明るく快活で熱く激しい。
4楽章は誰ぞが「傷付いた大蛇がのた打ち回りながら死んで行くようだ」と評したそうであるが、これを字句の通りに解す馬鹿も居るまいと思う。傷付いた大蛇と云うのは、封建主義であり、バチカンの支配体制の事である。第3番エロイカのプロメテウス賛歌への布石が第2である。
2番にはコンヴィチュニーと云う絶対盤があるが、メンゲルベルクやカイルベルトも欠かせない名演であると思う。メンゲルベルクはここでも相変わらず大いに叩いている。全体としては落ち着いた明朗な演奏であるが、時折現れる壮大な叩きが良きアクセントと成って居て爽快だ。




ベートーヴェン 交響曲第3番<エロイカ> 第1楽章、第4楽章 
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
全集の中ではこの3番のみがTELEFUNKEN録音で、音質が違っている。PHILIPS盤よりは腰が低く、高域は抑え気味なので古臭く感ずるが、聴き進んで行くと慣れて来る。
この演奏も私の中ではフルヴェンやトスカニーニと並んで、愛聴盤である。叩きの効いた名演だ。時折現れる適度な粘りが又絶妙で、メンゲルベルク・マジックに惹き込まれる。各パートの妙技には開いた口が塞がらない感が有る。




ベートーヴェン 交響曲第5番 第3楽章、第4楽章
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
3番までの流れで、この第5で壮絶な叩きを期待して仕舞うが、そこは比較的大人しい。否、キッチリと叩いては居るのだが、ここではバランス重視なのである。その代わり、金管が躍り出て妙技を披露するので全く聴き飽きはしない。そして4楽章のドンチャン騒ぎ感が非常に好ましい。
国内オケの第5を幾らも聴いたが、このようなアホな狂騒的演奏は無い。しかし、これぞ第5の醍醐味であり、日頃の憂さも晴れると云うものだ。国内オケの死んだ演奏。將に昆虫の標本を見るような気合の入らない生演奏を百篇聴くよりは、この音盤を一度聴く方が余程精神衛生上好ましいと感ずる。S響の演奏を聴いた時など、指揮者の頭を殴ってやろうと本気で考えたものだ。
まあ、若い衆には斯様なアホな演奏を聴いて欲しいと思うのである。斯様な真剣で本気で真摯なアホさ加減を噛み締めて戴きたい。ベートーヴェンは革命を煽っているのだ。命懸けなんである。




ベートーヴェン 交響曲第7番 第1楽章、第4楽章
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
この7番は非常に上手く纏まった例であろう。言う迄も無く「叩き」が誠に功を奏して居る。更に第5のようにドンチャン騒ぎにならずに、紙一重の所で豪壮なる名演に踏み止まっている。兎に角木管の上手さが光って居る。
第4楽章の冒頭のアクセントは、E・クライバー/コンセルトヘボウ盤の表情とそっくりだ。と、云う事は、クライバーはメンゲルベルク流を踏襲したか、オケ自体の伝統としてこのようなアクセントが根付いて居たかの何れかであろう。後半は無我夢中で興奮状態の如き爆演であるが、実は興奮しているのは聴手であって、演者としては実に巧妙に計算されたテンポ設定なのである。オケが全く混乱していないのがその証拠で、無我夢中男のフルヴェンとの差がここにある。




ベーートーヴェン 交響曲第9番 
メンゲルベルク/コンセルトヘボウ管 40年録音 PHILIPS盤LP
最後は第9で締め括りである。この演奏を未だ聴いた事が無い人には是非聴いて戴きたい演奏である。そして第9好きには是非ともコレクションに加えて戴きたいと思う。
これはメンゲルベルクにしか出来得ない演奏である。流石のメンゲルベルク・ファンの私にしても、この演奏を聴いた後はグッタリと疲労感が伴う。兎に角濃密である。濃厚では無く「濃密」なんである。現在のコンセルトヘボウ管でも流石に此処までは出来ないであろう。恐るべき集中力で、一点一点に神経が集中して居る。3楽章のゆったりとしたテンポは、gustav師であれば途中でブチ切れて仕舞うかも知れぬが、後半はグッとアクセルが踏まれ、壮絶感が増大し、その勢いで4楽章に気分が引き継がれる。巧妙である。
4楽章の終結は、誰もが考えつかぬ荒業だ。しかし、この荒業は2度目は通用しない。最初で最後の必殺大仕掛けである。アホか!と言うなかれ。実はこれが正解なのかも知れぬ。
人権尊重、自由解放、と謳いながら、延々と殺し合いを続ける事は、もうお終いだ。これで終わりなのだ。と云うメンゲルベルクの遺言のような気がする。余りに巨大な音楽家であるが故に、戦勝国により罰せられた「偉人」のメッセージを聴かねばならない・・・

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