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「生誕100年記念 丸木俊展」
10月30日 一宮市三岸節子記念美術館
長い間 丸木位里 俊 については、ずーっと 悪い刷り込みしかなかった。
「原爆図」についての党派性があり、ここしばらくは忘れていたし、そのことも気にならなくなっていた。
今年の夏に戦争と平和の資料館 ピースあいち5周年記念 「原爆図展 丸木位里 丸木俊 」に行って、原爆図の何点かを見た。
見にゆく動機も、ヒロシマービキニーフクシマと昨年から繋がってきた。
見ておかないと という動機で、ほぼ最終日に駆け込んだ。
原爆の悲惨さなんて、当然、活写できない。
絵としてそこにあるのは、生きていた身体が致命的な被曝を受け、横たわっていること その瞬間の直前まで生身の身体を携えて生きていたことの 美しさや呼吸を彼女の絵画への姿勢で描いている。
「原爆の図」は 被曝を描いた絵画として記憶されてきた。
丸木俊は、本来、どんな絵を描くのか それを知りたかった。
いわさきちひろとの交友も興味を抱いた。
戦争と平和の資料館 ピースあいち
5周年記念 「原爆図展 丸木位里 丸木俊 」
そして、今回の「生誕100年記念 丸木俊展」が一宮市三岸節子記念美術館で開かれるという これは会期中に行かないと と決めており、この平日の空いた日程に車を飛ばした。この美術館への来訪は3度目である。企画展の魅力がないとなかなか立ち寄れない。
展覧会は、丸木俊の各時代の代表作や絵本の原画 公開されてこなかった戦時下の南洋諸島の女性たちを屏風に描いた「踊り場」(1941)や モスクワ時代の風景画、雑記帳を含む 110展が公開されていた。もちろん、「 原爆図 第二部 火 」(1950)があった。
南洋諸島で1940年に板に描いた「休み場」「アンガウル島」には署名と 当然、制作年が記されていた。が、「皇紀2601年8月」には驚いた。従軍画家でもなく、島の休息する女性たちを描いているのに 何故だろう。このことは聞けないままだ。
南洋諸島パラオ ヤップになぜ、俊は行ったのか。帝国教育出版などから1942年に書籍「ヤシノミノタビ」「ミナミノシマ」などを出版されている。
1937年のモスクワ滞在の絵 戦後1959年のソ連邦 アメリカでの水彩画は、その風景を端麗な筆で描いており、労働者とか。歴史認識から程遠い、市井の人、街である。
「原爆図」を持って、国内、海外での展示され、その折の海外でのスケッチであろうか。
丸木俊は、「時代の空気-社会主義的リアリズム」に翻弄されることなく、「前衛芸術」の旗手でもなく描きたいものを描いてきた。激情することなく、その面でも、今回展示されていないが、南京大虐殺、水俣、三里塚もどんな思いで描いたのか 知りたいと思った。
今回の展示の中で、もっとも丸木俊の画家としての立ち位置が現れているものが、
三点あった。
「裸婦(解放されゆく人間性)」(1947) 豊潤な女性を描いた豊穣の時 この肉体の美のモチーフが「原爆図」の女性たちなのだろう。
「自画像(飢え)」(1944)の唇に指を当て、世の中のホゾに苦みをたたえた顔 そして、「自画像」(1947)の左手に筆を持ち、口をしっかり閉じている顔 ともに、「言葉を発することへの抑制」が感じられる。
「絵は私の感性 時代のものでも 空気のものでもない。」と言い放つかのように 「時代」や「現実」のなかに生きているが、翻弄されたくない。要請されたものを描くのではないという表明といえる。
戦後の俊の絵は、「絵本のなかの絵」あるときは「プロパガンダの絵」と言われるが、彼女は「時代の絶望」の中には「身」を置けなかった。置かなかったのであろう。
三点の絵の並びに「スマおばあちゃん」(1950年代)がある。丸木俊が老いた丸木位里の母に絵を教えたという「おばあちゃん」の人物画である。
発すべきといわれる言葉にとらわれるのでなく、彼女の「自画像」にあるホゾを噛むような時代でも、
「いのち」の瑞々しさを描きたかったのではないかと思った。
私は、まだ、丸木俊を知らない。が、凄いとは絵からは思わなかった。
なんなんだろう まだ、距離がある。
今回の展覧会は 「原爆の図 丸木美術館」の所蔵品である。
原爆の図 丸木美術館
一宮市三岸節子記念美術館
RT;FILE-N004 丸木夫妻と非核芸術の現在 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)
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はじめまして。私もこの美術展やぴーすあいちで原爆の図を見ました。子供のときに一堂に観た覚えがあります。TBさせてください、よろしくお願いします。
2012/11/14(水) 午後 10:45
お越しいただきありがとうございます。
丸木俊展のブログよまさせていただきました。
ツイートさせていただきました。
2012/11/20(火) 午前 2:33