■司馬遼太郎の名文

長い間放置していて申し訳ありません。そのうち別の場所で再開するかも。twitterアカウントはoryudonです。よろしく

亡き父へ捧ぐ

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【父】09人を動かす力

先週実家に帰った。

一ヶ月ほど前にチューリップの球根は買っていた。
赤、白、黄色といったシンプルなもの80球に加え、アンジェリカと呼ばれるピンクのかわいいチューリップを25球買った。
(※セリ科の植物のアンジェリカではありません)

私の父親は家の傍の遊歩道沿いの緑地に、
市のボランティアの一環として、
(という名目で自分の趣味の一環として、)
花を植えていた。

毎年、春には花壇の中にチューリップの場所を作り、
その場所にはチューリップを中心に、周りにムスカリを植えていた。
次の春で、父が亡くなってから二回目の春となるが、
今年もまたチューリップを咲かそうと、
球根の植え付けを行った次第である。

球根を植えるというとのどかな感じがするが、
ところがどっこい、これがなかなか大変な仕事なのだ。
まず、終わった夏(初秋)の花を抜く作業から始まり、
土を掘り起こさないといけない。
これが一苦労である。
夏の花の根がはびこっているし、近くの樹木のひげ根が進出して来ている。
それをスコップで切断しながら、掘り起こしていくのだ。
その後は、それらの根を花壇から除去する。
すると、こんもりと一山できるから、びっくりする。

それから球根を植えるのだが、
105球も植えるとなると、
「楽しいお遊び」ではなく「作業」という感じになる。

105球なので、5段21列に植えることにした。
まず、位置出しをする。
そして、端から順に土を掘っては植えるの繰り返しをするのだ。
まん中の5列はアンジェリカにして、私が植えた。
それ以外の16列は、妻にやってもらった。
どういう配色になっているかは私も知らない。

チューリップは色によって、開花時期や背の高さが異なる。
それは、咲くまでには全くわからない。
そのことを考慮しながら、配色を考えるのがコツである。
基本的には同色は固めたほうがいい。
そうすると、同じ時期に咲くので綺麗だ。
しかし、数が多くなると、花壇の左端だけ花が咲いているというような状態になるので、
やはり適当にばらすことも必要となる。
妻はそこらあたりも理解して植えているので、来年の春に、どのように咲くかがいまから楽しみだ。

さて、こういった一連の作業をしていると、遊歩道を通るひとが声をかけてくれることがある。
立ち話が好きな母がいるし、私の小さな二人の息子もいるからだ。

午前に土を掘り起こしていると、
70代くらいの女性が話しかけてきた。
しばらく、私の作業を見た後で、
「お父さんはどうされたの?」
と言った。
その人は、うちの父が去年の夏に亡くなったことを知らなかったのである。

話しかけてくれる人は、いつもだいたい決まっていて、もちろんその方々は、うちの父が亡くなったことを知っている。
そのことを知らないとは、あまり話をしたことのない人なのだろうか?

母がその女性に、父が亡くなったことを告げた。
すると、その人は、
「実は、私の散歩するコースはこの裏の通りなんです。でもあるとき、こちらの歩道を歩いていたら、道端にきれいな花がいっぱい咲いていて、それがこの花壇だったんです。それからは、年に何回かは、結構回り道にはなってしまうんですけど、こちらの道を通って、花を鑑賞させていただいていたんですよ」
と言った。

私は父の力を、その静かだけど揺るぎない、大きな力を改めて感じた。
私の父は、いろいろな面で能力のある人間だったと思う。
しかし、進んだ道は平凡そのものであった。
高校は地元では有名な進学校に進んだ。
しかし、大学は地方の国立大学にしか受からなかったようだ。
機械の設計技師として就職するときも、聞いた話によると誰もが知っているとある大きな会社に内定が決まったそうである。
ところが、祖父が知り合いの人がやっている会社に父を就職させた。
それは、小さな会社であった。
やがてその会社はつぶれ、父は無職となり、一時はフリーの設計士をしていた。
その後、入った会社もそんなに大きな会社ではなかった。
その会社も、さらに大きい会社に吸収合併された。
つまり、父は2回会社を変わっており、その都度退職金をもらっているので、退職金の総額としてはとても少なかったそうである。
また、父が最初は「腰掛け」程度に考えていた今の小さな家に、晩年まで住むことになった。
もちろん、その家には今も母が住んでいる。

こういう父の人生を、
私は学生の時から平凡だなと感じていた。
父も満足をしていたわけではないようだ。
しかし、厳しいようだが、
もし満足していないとすれば、
その原因はすべて父にあるのである。
若くして独立し、すぐにマンションを買って暮らしている、私の兄とは好対照だ。

私はそういう父に、何か物足りなさを感じていた。
そして、私は父を越えようとずっと思っていたし、
大学に入った時点で、父を越えたと感じていた。

しかし、その女性の言葉を聞いて、改めて思うのである。
私に「人を動かせるほどの力」があるのかと。
父の花壇は、一人の女性の散歩コースまで変えてしまう程の力があるのだ。
簡単なようで、簡単でない。

球根を一つづつ植えながら、そんなことを考えていた。

【父】08一段落

今日は、父の一周忌と初盆の法要があった。
父が亡くなってから、もうすぐ一年が過ぎようとしている。
早い。
というのが、正直な感想だ。

法要というのはある意味で形式である。
もちろん、形式だから軽んじるわけではない。
形式は形式で大事なことだし、一つの節目としてはそれに救われることもあろう。
母にとっては、大きな一つの節目だったのだと思う。
しかし、今日の法要は父のためというより、残されたみんなのためと言えるのかもしれない。

だから、本当の命日である8/27には、また母の実家に戻り、ひっそりと父を偲ぼうと思う。
そして、私の喪が明けるのだ。

父の事をブログに書こうと思ったときに、まずは葬式当日までを書こうと思った。
そして、第二部として、仏壇や墓を買うまで、第三部として思い出を書こうと計画していた。
ところが、去年の9/15の記事を最後に投稿を終わっている。
父が亡くなった日まで書いて、どうしても続きが書けなくなった。
なぜだろう。

自分の心の有り様さえも分からないのが、人間と言ったところか。

私は、しっかりしなければいけないと思った。
葬儀一切をきちんと執り行うことが、私の親孝行の締めくくりだと思うからだ。

二ヵ月ほど前、父がいよいよと宣告されたとき、母はある葬儀グループの会員になった。
まずは、そこに電話を入れた。
電話番号など知らなかったので、病院のタウンページで調べた。
母と兄に向かって
「これからは私がしきる」
と宣言した。
家族に向かって、こんな宣言をすることになるとは夢にも思わなかった。

寝台車が来る時間は9時に決まった。
それまでに、父の体を清めるないといけない。
母と兄には一旦家に帰ってもらい、父を迎える準備をしてもらうことにした。
妻と親戚の人には、入院中の荷物を車に積み込んでもらうことにした。

病室には、私と父だけが残された。
「まかせとけ」
私は心の中で父に向かって言い、子供にするみたいに頭を撫でてあげた。

人は死ぬと糞尿を漏らすらしい。
その体を綺麗にしないといけないのだ。
そして、それは本来家族がやるべきことだと思う。
しかし、病院ではスタッフがやってくれる。
やってくれている間は気を遣ってか
「外に出ておいてください」
と言われた。

「本来は僕達がやるべきことだよなぁ」
と妻に漏らしたら、
「拭くにもいろいろやり方のコツがあるだろうから、専門の人がやらないと綺麗にならないし時間もすごくかかるんじゃない」
と言われた。
なるほど、確かにその通りである。
しかし、人が死ぬという事に対して、ここまでシステム化されていることに少し違和感を感じた。
また、実の父が死んだのに、私は自分の手を汚していないことに改めて気づいた。

母と兄が実家から病院に戻って来た。
少し経って、寝台車が病院に到着した。
父を乗せたストレッチャーは普段は一般人が入れないであろう遺体安置所の横を通り、入院から一週間もたたず帰宅した。

準備された布団に寝かされた父は綺麗な顔をしていた。
そして、私はその横で葬儀屋と通夜と葬式の打ち合わせを始めた。
父が死んだばかりというのに、すぐその横で打ち合わせである。
現代の日本に暮らし、いわゆるまっとうな社会生活を送る限り、仕方のないことなのか。
結婚式は何ヶ月も前から準備するから余裕があるが、葬式に前準備はない。
今から、全て決めていかないといけないのだ。
すでに10時であり、打ち合わせは深夜にまで及んだ。

病院に来られなかった父方の祖父母が、枕経の前にやってきた。
祖母は泣き、祖父は崩れた。
息子を亡くした悲しみの深さは、私には量れない。

全てが終わったのは、午前2時頃であったと思う。
葬式の挨拶は私がすることにした。
父のために集まってくれた方々にお礼を言うのだ。
それが、私の最大の仕事であり、親孝行である。

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目覚めた。
病院に行く前にしないといけないことがある。
それはお金を下ろすこと。
昨日、母から頼まれたのだ。

父が亡くなれば貯金は凍結される。
病院代も二つの病院に払わないといけないし、葬儀の代金も要る。
最愛の人を亡くす寸前にあっても、人は社会生活を営む以上、事務的な作業をしないといけないのだ。
これはドラマではない、現実の世界で起こっている出来事なのだから。

近くの銀行に行き、まとまったお金を下ろす。
土曜日だったので駐車料金を取られたのが、ちょっと腹立たしかった。
そして、軽く家を片付ける。

それから病院に行ったので、親戚の人はもう来ていた。
父の容態は昨日と変わらず安定していた。
私は、自分の仕事のことが頭をよぎった。
もしかすると来週一週間は会社を休むことになるかもしれない。
たまたま仕事が忙しい時期で、私にしか分からない仕事もあった。
一週間も休めば、みんなに迷惑をかけることになる。

私は父の容態が安定しているのを見て、職場に向けて車を飛ばした。
父がこのような状態のときに仕事をするのは気が引ける部分もあったが、私が無責任に仕事をほっぽり出すのが親孝行とも思えなかった。

職場に着いたら先輩がたまたま休日出勤をしていた。
ラッキーであった。
業務の引継ぎがスムーズに行えた。
電話で父の容態が安定していることを確かめると、王将に行き昼ごはんをたっぷり食べ、また大急ぎで病院に引き返した。
思えば、長男が生まれるときも王将であった。
大事な場面になると、スタミナをつけたくなるのが私の本性らしい。

病院に戻ると夕方になっていた。
よく冷えた、冷え過ぎた病室だった。
窓をあけていたので、妙に生ぬるい風が入ってきた。
意識のない父のかたわらには、見慣れない機械があった。

「ライフスコープ」と書いてあった。
なるほど、ドラマで見る『アレ』かと思った。
私が来るまでに、何回か少し危ない状況があったらしいが、今は比較的安定しているとのことであった。
ライフスコープの値は100前後を示していた。
波形も規則正しく流れていた。

ライフスコープの値が80くらいになった頃、医者が父の呼吸を見て
「これが最後の呼吸の仕方です」
と言った。
よく観察すると、父はあまり息をしていなかった。
そして1分間隔くらいで、大きくあごを出して
「ヒュッ」
と呼吸するのだった。

いきなりピーッという機械音が鳴った。
ライフスコープを見ると、数値が20代まで落ち、波形が乱れていた。
私はびっくりしたが、またすぐに持ち直した。

そのうち兄が到着した。
兄は仕事でてんてこ舞いなのに、すごく大変だったろう。
ベッドの周りには、母と兄と私と妻と子供達がいた。
そして、その後ろに父の兄夫婦と弟夫婦がいる。

私は父の手を握った。
冷たかった。
腕のあるところより先は冷たくなっており、それより胴体側は暖かかった。
心臓から、血液が末端まで送られて来なくなっているのか。
こうして人は死に一歩ずつ近づいていくのだと知った。

私は、再度父の手を握った。
母の手も握らせた。
兄の手も握らせた。
妻の手も握らせた。
そして、もう一方の私の手も重ねた。
この『家族』で楽しくやってきたことが思い出されて、少し涙が出た。

何回か数値が落ち警報が鳴った後、ついに数値が0に落ちた。
波形が直線になった。
それを見た時は、分かっていながらドキッとした。
しかし、またすぐに復活した。

2回目に0になったときは、かなり長い時間0のままだった。
しかし、呼吸をしているのは分かった。

親戚の誰かが
「がんばって」
と言った。
私は心の中で、
「親父、もうがんばらんでいい」
と叫んだ。

呼吸が止まった・・・と思った。
誰も気づいてなさそうな雰囲気だった。
しかし、私は気づいていたのである。
ライフスコープに数値はあったから、心臓は動いているのだろう。

しかし、その値も0となった。

たまに、ライフスコープに山が表れた。
その頃になると、医師が駆けつけてきてくれていた。
とうとうライフスコープに山に出る頻度が少なくなった。
すると医師が、
「死亡の確認をします」
と言った。

心音を見、脈を見た。
ドラマみたいに「ご臨終です」とは言わなかったが、私達は父の死を知らされた。
「先ほどからライフスコープに時折出る『山』は電気的なノイズで、心臓は動いていないのですよ」
と説明を受けた。

やはり呼吸をしなくなって、すぐに心拍数が落ちた時に、父は逝ってしまったらしい。
午後七時三十五分 満年齢で67歳であった。

父は安らかな顔をしていた。
あまり苦しまずに逝ってくれたのが、せめてものことであった。

私が寝ている間に兄が帰ってきた。
兄は前日の台風で新幹線の中に閉じ込められ、夜中に一旦自分の家に帰ってから実家に戻ってきたのだ。
私は寝ている兄とは顔を合わせずに、実家から出勤した。
妻には子供たちと一緒に実家に残ってもらうことにした。

兄は父の友人と母と三人で病院に行き父に会った後、また仕事のために会社のある中部地方へと戻って行った。

私はこの時点では、なんとなく1週間くらいなら持つのではないかと漠然と考えていた。
職場で予定通り大掃除をしているときに、機種変更したばかりの携帯が鳴った。
午後四時頃であった。
父の容態が悪化したのだ。
意識レベルがかなり低くなっているらしい。
私は実家で待機している妻に電話を掛け、なんとか自力で病院に来るように伝えた。
そして、私は自分の職場から病院に駆けつけた。

妻は私より先に着いていた。
距離が全然違うから当然といえばそうなのだが、地理が全く分からないはずなのに、よく辺鄙な場所にある病院にたどり着けたものだと感心した。
私は、真っ先に病室に入った。
父の意識はないと覚悟していたので、ベッドの上で目を開けている父を見るとホッとした。
目と目が合った瞬間、自然と笑顔を浮かべてしまった。

すると、表情を作るのさえ難しかった父が、私が今まで見たこともないくらいに笑ったのである。
私が4年間かけて行ってきた親孝行を、父が満足してくれたと痛感した。
妻が私たちの二人の子供を順に父に見せた。
父は、溺愛した孫たちにも微笑みかけた。
これが、私たちがいただいた最後の贈り物だった。
父の容態は比較的良い状態で安定した。

父の車と私の車の2台が病院にあるので、1台を実家に戻すため、妻と一緒に一度実家に帰宅した。
そして、病院に戻るときに弁当を買ってきて、病室の前にある懇話室で母と一緒に食べた。
弁当を食べていると伯父夫婦と従姉妹がやってきた。
病室に連れて行ったが、父はかろうじてうなずくだけで、もうしゃべることはなかった。

悲しみに支配されているときではなかった。
私の最後の親孝行は、葬儀一切を滞りなく済ませることだと、今一度自分を戒めた。
父の容態が安定しているうちに、喪服を取りに自分のうちに帰った。
高速道路を使って片道1時間かかる道のりを、本日2往復目だ。
さすがに疲労が溜まってきた。

深夜に病院に戻ってきても、父の容態は安定していた。
母は病室に簡易ベッドを敷いてもらって、そこで一晩中看病するとのことであったが、私たちは小さな子供が二人もいるので実家に帰ることにした。
母が限界を越えたときは、私が代わらなければならない。
休めるときに、休もうと思った。

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